第1章 異世界へようこそ 4

 ――ヴー、ヴー、ヴー……。


 携帯電話が振動しながらテーブルの上で這い回る。

 何事だろうと掴み上げながら、ハッと気付いて顔面から血の気が引いていく。


『山王子くーん、確か約束したわよねー』

「は、はい。……も、申し訳ありません」


 電話は主任からだ。

 その声は怒りを通り越して、もはや呆れたという感じだった。

 遅刻確定なんてもんじゃない、慌てて窓の外を見るともう夕焼け空だ。ちょっとだけのつもりだったが完全に爆睡していた。ソーラス神社の一件からずっと寝ていなかったのだから、寝始めたらちょっとで済むはずがなかった。

 そんなことはわかっていても、ちょっとだけと寝てしまうのは、やっぱり睡眠欲は人間の三大欲求の一つだからだろう。


『もう、過ぎたことは仕方ないわね。その代わり明日は土曜日だし、そっちにお邪魔してもいいかしら。ゆっくり話もしたいから』

「は、はい、わかりました」


 話したいことってなんだろうと考えてみるが、思いつくのはネガティブな内容ばかり。アザミの前で説教となると格好もつかない。

 とは言っても、恩人の申し出を断る理由も思い浮かばないし、僕の方からも話したいことがあるので、ためらいながらも了承した。


『それじゃ、また明日』

「失礼します」


 切るなり、アザミが目を擦りながら居間に入ってきた。

 電話の声で起こしてしまったのかもしれない。


「誰と話してたんですか?」

「主任だよ」


 寝起きで気が緩んでいるのか、服のあちこちがはだけ気味で目のやり場に困る。

 アザミは台所を覗いたり、ベランダの窓を開けたりしながら不思議そうな顔をしている。


「どこにいらっしゃるんですか? 主任さん」

「これだよ」

「ああ、電話……でしたっけ? 遠くにいる人と話せるんでしたよね」


 携帯電話を指差して見せると、アザミは納得の表情を浮かべる。

 アザミにも早めに買い与えた方がいいかもしれない。


 それにしても十時間も寝ていたせいか、起きて早々お腹が空いた。

 アザミは向こうの世界の服しか持ってないので、外にも連れ出せない。僕も寝起きで身体を動かすのは億劫だし、今日の夕食は出前にしよう。寿司、中華、蕎麦、ピザと写真付きのメニューをアザミに見せて、食べたい物を選ばせる。


「これがいいです」


 アザミは迷わず寿司を選んだ。

 そういえば向こうに居た時に、好きな食べ物は寿司だと言ってたっけ。

 今日はアザミを無事こっちの世界へと逃がせた日でもあるし、お祝いとして普段頼むことのない特上を、そして足りないよりはいいかと四人前を選択する。

 結構な出費だが、僕に妹ができたお祝いも合わせて考えれば許容範囲だろう。



 三十分程でインターホンのチャイムが鳴る。

 アザミは、また新たな聞きなれない音に警戒心を強めるが、この音は来客の合図で、今回は注文の品を届けに来てくれたのだと伝えると、一気に表情を明るくした。

 配達員から受け取った品を横で待ち構えるアザミに手渡すと、透明な蓋越しに見える鮮やかな寿司ネタの数々を、キラキラと目を輝かせて眺めている。

 アザミは、家に居ながらにして食べ物が届けられる仕組みに感動したらしい。そして、事も無げにそれをやってのける僕にも尊敬の眼差しが向けられているように感じられて、少し照れ臭い。


「ひょっとして、これが出前というものですか?」


 着席して早々、今度は僕がアザミの記憶力に驚かされる。

 向こうの世界でうっかり口走った言葉を覚えていて、しかも的確に使うなんて。


「じゃあ食べようか。いただきます」

「いただきます、兄さま」


 ああ、宅配専門の寿司とはいえ、やはり特上だとそれなりに美味しい。

 できることなら回らない寿司屋にも連れて行ってあげたいところだが、それは僕自身でも敷居が高い。行き慣れていないと気軽に開けにくく、中の見えない入り口、そしていくらになるのか予想のつかない会計……。

 怯えすぎなのも自覚しているが、やはり僕には事前に支払い金額の予定の立つ回転寿司か、今日のような宅配専門がお似合いだろう。


 それにしても、調子に乗って頼みすぎたようだ。

 注文する時は空腹のせいでいくらでも食べられそうな気がするのに、いざ食べ始めると頼み過ぎに後悔するのはいつものこと。残りはそっくり明日に取っておこうと、ラップを掛けて冷蔵庫にしまう。


「そういえば冷蔵庫は驚かないんだね」

「それは、ヒーズルにも似たような物がありましたからね」

「へー、そうだったんだ」

「こんなに頑丈じゃないですけど、に冷却魔法を掛けて戸棚に入れて置けばずっと冷えてますよ――」


 魔力がなければ使えない冷蔵庫、そういえば風呂も魔法で沸かすと言っていた。

 日常生活でさえも魔力の有無で格差が生まれる。こっちの世界を知らずにいれば、そういうものだと割り切れるのかもしれないが、知ってしまえば不平等にしか見えない。


「――でも魔力なんてなくても、誰にでも使えるなんて素敵です」


 もちろんこの世界でも、貧富の格差で全ての人々が同じ恩恵を得られている訳ではないが、努力しても埋めることのできないヒーズルの魔力格差よりはましに思う。

 だが異世界であるこの日本で、今それを憂いても仕方がない。思い出しついでにアザミに風呂を勧める。




「――今日は一日、緊張しっぱなしだったろ。ゆっくり風呂にでも浸かってくつろぐといいよ」

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