第77話 文化祭Ⅸ

「本真先生が保健室に行っていた理由ですが、生徒の見舞いですよね」

 不確かな道のりを進んでいくこの感じ、推理という行為はいつも俺を不安にさせる。石橋をたたいて渡るように慎重に話を進める――この場合は石橋というよりも泥橋といったところか。少しでも力を込め過ぎれば道は崩れ閉ざされる。かといって弱すぎれば、自分の推理が正しい方向に向かっているのかが分からなくなる。丁度いい中庸の加減で進まなければならない。

「……保健室で見舞いをするところ、見ていたの?」

 諦念の意を浮かべた本真先生の表情に、この推理の大筋が正しいことを確信する。

「いえ、見ていません。直接話を聞いたわけでもありません。ただ、その可能性が一番高いと考えました。本真先生が保健室に生徒の見舞いのために通っているという可能性が」

 本真先生は穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。

「……それは是非とも聞きたいわね。あなたがどうやってその可能性が一番高いという考えに至ったのか。あなたの思考の物語を私は聞いてみたい」

 物語――そんな大層なものじゃない。僕にとっては。本真先生にとったら、とても大切なものなのかもしれない。僕にとって、本真先生にとって、今から話す推理の物語は異なる意味を持つということか。

「まず、僕たち相談部は、本真先生が保健室に入っていくところを二度見かけました。比較的短期間に見かけたので、本真先生が定期的に保健室に通っているのではないかと考えました。定期的に保健室に通う理由として考えられるのは、まずは、先生自身が何らかの怪我をしてしまい、その経過を保健室で見てもらっていたからという可能性。これは、即座にないなと思いました。最近先生と頻繁に顔を合わせていますが、目立った外傷や、体調が悪そうな様子は見受けられなかったので」

 保健室の見守先生にその可能性はないと教えてもらってということは伏せておいた方がいいだろう。見守先生には言いたくないことを言わせてしまった感があるしな。

「先生が保健室で診てもらう訳ではない。となると、誰が診てもらっているのか。他の先生でしょうか。いや、誰か先生が怪我した、しかも保健室に足繁く通っているともなれば、生徒の間に噂になるはずです。《○○先生最近見かけないよね》《ああ、怪我したみたいだよ》と。そうなると生徒が保健室で診てもらっているという考えが現実味を帯びてくる。生徒が保健室にいて、彼もしくは彼女に会うために本真先生が保健室に通っているのだという現実が見えてきたわけです」

 長々と話してしまった。一息ついてから、本真先生の様子を伺う。

「……そう。その通りよ。私は生徒の見舞いのために保健室を訪ねている」

 しかし、ここからがもっと重大だ。これからの推理が最も賭けだ。一歩間違えれば、文化祭云々という話だけにはとどまらず、相談部存続の危機という状況にまで陥ってしまいかねない。得られるものは大きいかもしれないが、その分上手くいかなかったときの損失はとても大きなものとなる。賭けるチップの額がこれまでの推理とは違う。高額だ。

 俺は先ほどよりも大きく深呼吸息をしてから、再び話し始めた。

「ここで問題となってくる、というよりも気になってくるのは、先生がだれの見舞いをしているのかということです」

 そこまで踏み込んだ話をされるとは思っていなかったのだろうか。本真先生の目が急に泳ぎ始めた。

「毎日のように見舞いに行くような生徒。まず考えたのは、先生ととても近しい関係にある生徒という線です。例えば、先生の子供とか。しかし、本真という苗字は緑坂高校にはいないようですし、先生の子供がこの高校に通っているという話も聞いたことがない。この可能性はないと考えました。次に近しい関係と言えば、担任をするクラスの生徒です。しかしながら、本真先生はクラス担任を受け持っていませんから、この関係性はそもそも存在しませんからあり得ません。では、その次は――先生の子供ではなく、クラスの生徒でもない生徒で、それでも先生が定期的に見舞いに来るような近しい関係にある生徒とは一体どういう生徒なのか。一つの可能性が思い浮かんだのです。ただ、それはあまりにも俺たちにとって身近過ぎて、そんな身近な関係が関係しているかもしれないとは考えられず、無意識のうちに始めから除外していた可能性でした。俺たちと本真先生との距離が最も近くなる場所、点と点を結ぶ直線の役割を果たしている存在――相談部。その相談部の生徒こそが、先生が見舞いをしている人物である。俺はそう考えています」

 この推理には穴があり過ぎる。推理というにはいささか不適格だとさえ感じる。穴があったら入りたい気分だ。

「ちょっと待って」

 秋月が俺の方に駆け寄ってくる――顔の距離が近い、顔の距離が。

「相談部の生徒って、一体どういうこと? 私たちはここにいるじゃん。ピンピンしているじゃん。元気いっぱいじゃん」

 《じゃん、じゃん》言うたびに、じゃんじゃん顔を近づけてくる秋月に、体を反らしながら顔の距離を一定に保つ。

 秋月の言う通り、俺たち相談部四人は保健室に見舞いに来てもらうような容態ではない。そもそも保健室にはほとんど行っていない。先ほどの保健室への訪問を除けば、俺は自転車事故のときに一回見てもらっただけだし、冬川も同じく一回だけらしい。秋月と晴人に関しては、さっきの訪問が初保健室だったみたいだしな。

「何も俺たち四人の中にいるとは言ってないだろ。それと……ちょっと離れてくれ」

 顔が近くて恥ずかしいとは恥ずかしくてとても言えない。秋月の体を軽く両手で押して遠ざける仕草をする。《あ、ごめん》と言って、何ともなかったような表情を浮かべながら一歩下がった秋月は、明後日の方向を見てぽつりとつぶやく。

「……別にいいじゃん、私は気にしないし」

 俺は気にするんですよ秋月さん。秋月からなんだかいい香りがするし、そんな近くに長時間いたら、俺の頭が爆発しそうだ。推理に支障をきたしてしまうじゃないか。そうか、それだ。なんと説得力のある考えだろうか。

 そうやって己を納得させ、秋月のことは納得させず、再び本真先生に向き直る。

「秋月の言う通り、俺たち相談部四人は特に怪我などをしておらず、保健室にもあまり行ったことがありません。では、どうして俺は相談部と言ったのか。保健室にいる相談部の部員とは一体だれなのか。そう、ここまで聞いたら本真先生以外の人ももしかしたらと感じたかもしれないけど――」

 そう言って、周りの三人の顔を順に伺うと――秋月だけが首を傾げ、あごに人差し指を当てたポーズ、如何にも分かっていないであろう雰囲気を体全体で表現していた。

「……もしかしたらそうでない人もいるかもしれないけど、結論を言えば、保健室にいる相談部の生徒で、先生が毎日のように見舞いに行っている生徒とは、俺たち四人の先輩ですよね、本真先生」

 以下のような質問が出てくるのが当然だと思う。《え、桜井先輩?》

 残念ながらと言うわけでもないのだが、そうではない。

 晴人曰く、桜井先輩とは親同士が仲が良く、勝手に情報が入って来るようで、どうやら特に病気を患っているわけではないそうだ。

「その相談部の先輩とはいったい誰なのか。……それは俺にはわかりません。桜井先輩以外の誰か、としか今の段階では言えません」

 俺たちはその彼もしくは彼女に会ったことがないのだから。会う機会がなかったのだから――病気を患ったため。正確には怪我をしてしまったため。

 ここが最後の折り返し地点だ。本真先生のことを思えば、ここで引き返すべきなのかもしれない。おそらく傷つけてしまうだろうから。本真先生を、もしくはまだ知らぬ《相談部の先輩》を。

 途中から本真先生の顔を直視できずにいた俺が、彼女の心の奥まで踏み込むような真似をしてもいいのだろうか。その資格は俺にはないのでは――。

「山内くん、どうして《彼女》はずっと保健室にいるのだと思う?」

 俺の背中を押してくれたのは他でもない――本真先生だった。

 これほど心強い押しはないであろう人物からの言葉は、俺のことをとても力強く支えてくれる。反して、その言葉を俺が先生に言わせてしまったことに遅まきながら気づいてしまう。

 そうと分かってはいても、俺は先生の言葉、問いかけに答えなければならない。

 それが恐らくは先生がこの場でいちばん求めているものであろうから。

 ここまで来て、ここまで背中を押してもらって、それでも踏み出せないようであれば、それは意気地なしや臆病者といった類のものではなく、もっと悲惨で憂うべき《自己中心的人物》、自分のことしか考えていない奴だろう。

 《自己中心的》

 ――俺が大嫌いな考え方。過去に決別しようと心に誓った概念。

 この場面で口を開き、言葉を、文章を紡がなければならない。それが自分を、そして、他人を救うことにつながると信じて。

「それは、相談部の活動の中で《彼女》が怪我をしてしまったからです」

 証拠も何もない。ほころびだらけの解答だと思う。それでも、核心だけはついているはずだと思う。そう願いたい。正しい答えという《事実》に少しでも近い物語を語ることができればと思う。

「正確には、本真先生が企画した、もしくは先生が個人的に《彼女》に勧めた行動によって、《彼女》が怪我をしてしまったのではないかと考えています」

 そうでなければ、例えば、普段の相談部の活動中に《彼女》が怪我をしてしまったのであれば、部活運営の方法に問題があるという形で、学校側にも少なからず責任が問われたはずなのだ。その関係の議論がなされたのかどうか、吹奏楽部の二、三年生の先輩や顧問の雨宮先生に確認してみたが、そういった話し合いは行われていなかった。

 考えられるのは、あくまでももっと個人的な――それこそ彼女の行動を促したと先生が気がつかないほどの軽い一言が、《彼女》を動かし、怪我へとつながってしまう一因となったのではないかという可能性だ。

「……ここからは私が話すべきよね。山内くん、言わせてしまってごめんなさい」

 先生はゆっくりと上半身を前に倒して、俺に頭を下げた。続いて先生の言葉が屋上の空気を震わした。

「山内くんの言うように、私の言葉が、考えが、提案が、彼女――河原町みずきさんを怪我に導いてしまったの。ちょうど半年前、あなたたちが入学してくる一ヶ月前のことだったわ。あの日のことは今でも鮮明に覚えている。放課後に河原町さんは職員室にいた私のところにやってきたの。《河原で水遊びをするシーンが上手く書けません。どうしたらいいですか》と言って。その頃彼女は小説を書くことに熱中していたの。あなたたちと同じように、来年度の文化祭では小説を出してみたいって意気込んで頑張って一生懸命に小説を書く練習をしていたの。だからあなたたちが小説を書きたいってやってきたときはとても驚いたわ。ごめんなさい、話が逸れてしまったわね。……河原町さんの問いかけに対して、そのときの私は冗談交じりにこう答えたの。《実際に河原で遊んでみたら、いい描写が書けるかもしれない》とね。もちろん当時は三月で、寒さが残る時期で水も冷たいだろうから、《今はやめておいて方がいいとは思うけど》と伝えもしたんだけどね。……だから当然彼女は河原に行くことはあっても、水の中に入ることまではしないと思ったの」

 彼女、河原町さんは入ってしまったのだろう。水の中へ、川の中へと入っていったのだろう。

「始めは彼女も入るつもりはなかったみたい。川の中へは入らずに河原から眺めるだけにしようと考えていた。それでも、実際に川を前にしたら入ってみたくなったんだって。それこそ私が《実際にしてみたら》という言葉が本人の頭の中に残っていたんでしょうね。河原町さんは川に入った。転んだりしないように十分に気をつけながら。そのとき、川の中へと進んでいる途中に彼女はいい描写を思いつくことができた。ふっと気が緩んでしまったと彼女は言っていたわ。不安定な底に足をとられて、そのまま転倒。川の底に打ちうけてしまった左脚は骨折。運よく近くにいた住民が救急車をすぐに呼んでくれたから、命に別状はなかったけれど。もしそうでなかったら、彼女は溺れて命を落としていたかもしれない。それほど危険な状態だったと聞いているわ」

 本真先生はそのこと、河原町さんに小説を書くのには実際に体験してみるのがいいと言ったことを悔いただろう。もし私があのときそのような発言をしなければ、彼女は川に入っていかなかったかもしれないと。そうすれば彼女が左脚を骨折することもなかっただろうし、保健室に――ん?

「……左脚の骨折と保健室にどういった関係があるのでしょうか」

 普通骨折したら病院に行って、診てもらって、ギプスなどで脚を固定したりして、回復までは松葉杖で学校に通うはずだ。何も保健室登校する必要などどこにもないのではないか。

「後遺症が残ってしまったんだ。彼女の歩き方は左脚を庇うような歩き方で、あまり人に見られたくないそうだ。特に彼女の友達には見られたくないと言っていた。幸い保健室でのリハビリの効果のためか、最近はだいぶ自然に歩くことができるようになったんだけどね」

 友達には見てほしくなかった。それがどういった感情や思いから来るものなのか、それは俺にはわからない。恥ずかしいから、同情してほしくないから、という理由なのかもしれないし、それとも、相手の友達の気持ちを考えて、友達につらい感情を抱いてほしくないから、迷惑を掛けたくないから、という理由なのかもしれなかった。それは本人以外は知る由がないことだろうし、それを本人に聞く権利を俺は有していないだろう。何せ彼女とは一度もあったことがない、現時点では完全なる他人なのだから。

「彼女は相談部も休部しているわ。名前だけの部員にはなりたくないと言って」

 初めて桜井先輩に会ったとき、部員は彼女一人だけだと言っていた。あれは河原町先輩を桜井先輩なりに守っていたのかもしれなかった。もし俺たちが何らかのアクションを起こして、河原町先輩に接触することを防ぐための嘘だったのかもしれない。現に活動していたのは桜井先輩だけであったのだから、あながち嘘とは言えないのかもしれなかった。今となってはどうしようもないくらいに過ぎ去ってしまった過去の話ではあるのだけれど。おこがましくもどうにかしようとしたとしても、どうにかしようがない話ではあるのだけれど。

 過去に干渉することはできない。そのことはこれまでの人生で痛いほどに思い知らされてきたことだった。

「河原町先輩は小説を諦めたんですか? 今年の文化祭で小説を書くっていう夢を」

 夢――少し大げさな表現ではないか、晴人。目標と言った方がいいのではないか。いや、今は希望にあふれた言葉の方が適切なのかもしれなかった。喪失感を味わってしまった彼女には希望が必要なのかもしれなかった。

「彼女は諦めてはいない。今も小説を書き続けている」

 彼女は退部したのではない。休部しているのだ。そこには戻ってくる意志があり、左脚の自由を失ってしまっても、彼女の小説に対する想いが失われてはいないことを示しているのではないか。

「河原町先輩の分のスペースも確保しておかないといけませんね」

 そう言う冬川はどこか嬉しそうで、河原町先輩の帰りを心待ちにしているようであった。

 河原町先輩――話したことも会ったこともない彼女が相談部に帰ってくる日はそう遠くはないのかもしれない――文化祭はもうすぐそこなのだから。

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