世界最終戦線カルロス
巴の庭
プロローグ
失われた世界へ
2020年 7月
兄の葬儀が終わった会場で、一人遺影の前に立っていた私のもとに、一人の男がやって来た。
振り向くと男は、私と同じように兄の遺影を見つめていた。眠っているかのように細い目をしたその男が、どんな目で兄の遺影を見つめているのかが私にはわからなかったが、しかしその瞳は、慈悲と慈しみに満ちているように、私には感じられた。
白人のその男は、アメリカ人、いや、ロシア人のように見えた。白髪が混じった金色の長い髪を後ろで一つに纏めていた。歳は四十代後半から五十代、といった見た目だった。
屈強な体格をした彼は、どう見てもただの一般人ではなかった。どこかの兵士か、もしくは引退した格闘家と言っても通じるだろう。
私は彼の正体が前者であることを知っていた。兄の葬儀にはそうした関係者は多かったし、彼のことを事前に知らされていなくとも、私はこの場にいる頑強な男性は皆軍関係者であると判断していた。
その男は、兄の葬儀の参列者のなかにいた男だった。自衛隊員らしき参列者のなかに混ざっていたが、彼が自衛隊員でないことは明白だった。
私は隣に立つ男の顔を見た。横から見ると男の胸板の厚さは際立った。顔の老いた印象とは対照的に、彼は今日の参列者のなかで最も屈強な肉体を持っていた。
黒い礼服に包まれ彼の肉体は僅かしか拝めなかったが、その僅かに見える肌にさえ幾つもの傷痕が窺えた。彼の手には生々しい縫合の痕があった。右の瞼の上にも、大きな切り傷があった。
私が彼の横顔をまじまじと見ていると、やがて男は遺影から目を離し、私のほうを向いた。三十センチほど高い目線から、彼は私のことを見下ろした。
私はその見えない瞳に、兄を見ていたのと同じ慈しみの色を感じた。
「はじめまして」
初めに、男はそう言った。私はまだなにも言わずに、彼のことを見上げていた。
「私はカルロスです。桐山透さんの妹さんですね?」
私は一瞬、カルロスと名乗った男から葬儀会場に目を移して、答えた。
「……はい」
もう一度見たカルロスの顔は、柔らかなやさしさに満ちていた。私は彼の左目が失われていることに、初めて気づいた。
カルロスは屈むようにして、柔らかな声音で言った。
「私のことは聞いていますか?」
終始紳士的な態度をとるカルロスの日本語は達者で、きっとほかの国の言語も同じように流暢に、そして丁寧に話すのだろうと想像できた。黒衣を纏った彼は理想的な中年紳士に見えた。
「はい、聞いています」
私は兄の遺影を仰いだ。
「……兄を、ありがとうございました」
間が空き、カルロスが何も言わなかったので、私は彼のことを振り向いた。兄の遺影に向けられた彼の眼は、先ほどとは違い、悲しみに似た感情が見え隠れしていた。
私は、彼は見た目よりもずっとわかりやすい人なのかもしれないと思った。
「いいえ」と、カルロスはようやく口を開いた。僅かな間でしかなかったが、その間は私にとっても彼にとっても永遠のように長かった。
「……彼を生きて返すことができず、申し訳ありませんでした」
その謝罪に返す言葉を見つけ出すことができず、私は黙った。その気がなくとも、何を言ったとしても彼を追い詰めることになるのはわかっていた。確かなのは、彼はきっといつまでも私に謝り続けるだろうということだった。
私が何も言わないでいると、彼が再び口を開いた。
「今日はお会いしていただき、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ……」
今度はちゃんと言葉を返すことができた。私は彼と会話できることにほっとした。
「少し、よろしいですか?」と、カルロスは言った。
私はここでカルロスを待っていたわけではなかったが、席を外す準備はできていた。話す場所は彼が用意している筈だった。
「はい。いつでも」
カルロスは笑っているのか無表情なのか判然としなかった。彼の顔は地で笑っているような印象を与えた。
「では、行きましょうか」
彼が出口のほうへ促し、先導して歩いた。私は彼の後ろをついて歩いた。
「全てを話すと、少々長くなるかもしれませんが……」
遠慮がちな口調でいるカルロスに、私は言った。これから先も、遠慮なく話してもらうために。
「いえ、かまいません。兄のことと……それに、他の皆さんのことも、お聞きしたいですし」
私は、まず何よりも、彼のことを知りたいと思った。今日、兄を送り出すこの日、ここに現れた、カルロスという男のことを。
この大戦いちの功労者と云われるこの男のことを。
慈しみと悲しみに満たされた瞳で私を見つめる、彼のことを。
彼がどんなひとで、どんな気持ちで私の前に現れたのかを。
きっとこの話を聞くうちに、知ることができるだろうと思った。
「では、お聞きしていただけますでしょうか」
「……はい」
彼は話し出す、この大戦のことを。この1年間に起こったことの全てを。
私の兄は、1年前に死んだ。兄の正式な葬儀が1年後の今日執り行われたのは、つい先日まで、世界中のどこにも誰かを丁重に弔っている余裕がなかったからだ。
この1年間、私たちは人類史上最大の大戦の渦中にいた。
それは、人類の存亡をかけた、壮絶な戦いだった。
彼が語り、私が聞くこの物語は、その大いなる大戦の記録となる。
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