誘惑、そして決別
読み進めたら気分が悪くなってしまい、私は日記を元に戻した。
先程、後悔した罪を再び見せつけられてしまった。
気分が悪くなったのは、それだけではない。
私が読んだ個所は、ちょうど一年前の日付だった。
確かに、
その件で、私とよく口論になった。しかし日記では、私だけではなく一番上のお姉様とも口論になっていたらしい。
私の心臓が痛いほど速くなっていた。
いくら深呼吸しても、なかなか落ち着いてくれない。
私は、また無意識に左手首のブレスレットを掴んだ。
ぬるり、と嫌な感触がした。触った指先を見てみると赤く染まっていた。
「いやああああぁ!」
手首からは赤い血が滴っていた。
赤いブレスレットが、鮮血で更に赤くなっていて。
それを認知した瞬間、手首から痛みが響いた。
慌てて手首を押さえて、止血をする。
どうして切れているのか。全く心当たりがない。
手当てをしようと改めて左手首を見たら、かさぶたがいくつも出来ていた。
見知らぬ傷に内心取り乱しながらも、私の手先は自然と処置を行っていた。
幸い、血がすぐに止まってくれた。
アルファの方を伺うと、悲鳴を上げたにも関わらず、全く私の方を見ていなかった。まだ写真を見つめて、何か物思いに耽っていた。
心配して貰えないことに少しガッカリしながらも手首の傷を隠す為に、自然な仕草で後ろで手を組んだ。
エリカお姉様の部屋は、あらかた探索し終えた。
記憶らしい記憶を取り戻した実感は無かったが、これ以上此処にいても何も得られない気がした。
「ねえ、アルファ?」
「どうした? 何か見つけたのか?」
「いいえ。もう、この部屋には何もないと思うわ。
だから私、三階の部屋に行きたいの」
この屋敷内で、まともに探索していないのは三階だけ。
日記を見てから……私は何かしていないと落ち着かない、謎の焦燥感に駆られていた。一刻も早く真相を知り、胸にあるしこりを消してしまいたかった。
アルファは、腕を組んで唸っていた。
ついさっき三階に行く事を反対された彼に、わざわざ三階に行きたいと再び進言したのは間違いだったかもしれない、と後悔し始めた頃……。
「ちょっと待て。何だ、この音……」
アルファが口の前に人差し指を当てて、呟いた。
彼の返事を待っていた私は、一瞬わけがわからなかったけれども、黙っていると確かに……静かだった屋敷のどこかから微かな音が聞こえた。
音を注意深く聴いて、すぐに私が持ち出したオルゴールが奏でている音だと気付いた。しかし、あれは蓋が開かなければ音楽を奏でない。
誰かが、蓋を開けたのだ。
アルファがすぐ隣にいてくれることを確認してから、私はドアを開けた。
私の部屋があった壁の前、立ち尽くす青年。
自然な色合いのブラウン色の短髪、お気に入りの白いシャツに黒パンツ。
一目見てわかった。
目覚めてから、ずっと会いたかった最愛の人が目の前にいた。
「明亜……!」
振り返った彼は、端正な顔に、いつもの優しい微笑を浮かべていた。
「やあ、
「ごめんなさい、明亜。今、探し物をしていて」
「そう? 茉莉花に会えて本当に嬉しいよ。
さあ、茉莉花の部屋で映画を見ようよ。
見たいって言っていたDVDを借りてきたからさ」
明亜の背後の壁からは、消えたと思っていた私の部屋のドアが現れた。
私が一番好きな顔。大好きな恋人。
どんなに嫌な事があっても、彼の顔を見れるだけで幸せを感じられる。
彼は、とても魅力的な誘いを毎回してくれる。
……しかし、私の足は前に進まなかった。
彼の顔よりも、彼が抱えているオルゴールの方が気になった。
美しい名曲≪アメイジング・グレイス≫を奏でる、オルゴール。
明亜は、私の視線に気づいて、ゆっくりと蓋をしめた。
唐突に止む音楽。静寂が、廊下を包んだ。
「コレは、此処では必要ない物だから。僕が捨ててくるね」
まさかの言葉に反射的に両手を伸ばした。しかし明亜は、頭上高く私の手が届かないとこまでオルゴールを上げてしまった。
思わず首を横に、何度も振っていた。
「だ、駄目です、駄目! 捨てないで下さい!」
「どうして?」
「どうしてって……それは」
「もう要らないでしょう? 此処には、僕と君しかいないんだから」
いつもと変わらぬ笑顔で。明亜は断言した。
「でも、そのオルゴールは」
「此処には、僕と君だけ……ねえ、ずっと望んでいたでしょう?
僕と、いつまでも一緒にいたいって。
二人だけで。邪魔者がいない世界で。ずっと永遠に、一緒にいたいって」
「それは……はい」
「此処でなら茉莉花の念願が叶うんだよ? それなのに何故?
どうして、このオルゴールに今更、執着するの?」
「だって、このオルゴールは……みんなのお気に入りで」
「その《みんな》を捨てたのは、誰?」
「………………」
「茉莉花だよね? 今更、どうして取り戻すの?
多くの苦しみを経験して、やっと捨てたのに……どうして?」
「全て思い出さなければ帰れないから」
「帰らなくていいじゃないか。僕と、ずっと一緒にいよう?」
ずっと一緒にいよう――――。
その言葉を聞いた瞬間、私の瞳から意図せずして涙が零れた。
それは、私がずっと待っていた言葉。ずっと聞きたかった言葉。
胸が締め付けられたように苦しくなって、舌が言う事をきかない。
何とか絞り出した言葉は、自分でも何を言っているのか、わからなかった。
「明亜……この世界では、あなたの恋人は、私しかいないからでしょ?
私は、現実世界で、その言葉を、ずっと聞きたかったのよ……」
そして、私は隙を突いて、明亜の両手からオルゴールを奪った。
明亜は愕然とした表情のまま、みるみる姿は薄れていき……消えた。
涙が、ポロポロと零れて、止まらない。
その場に膝をついて、私は涙が流れるままに任せた。
しばらく泣いていると、服の袖が引かれた。
振り向くと、アルファが小さなハンカチを差し出していた。
「……ありがとう、アルファ」
「…………涙が止まったら、三階に行くぞ」
アルファは、すぐに背を向けた。泣いているところを見ないでくれた。
私は、貰ったハンカチで涙を拭いた。
そして涙が早く止まるように、深呼吸を繰り返した。
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