宵闇誘いの章 其ノ八
障子窓から見える、夕暮れの広大な水辺。だが夕日は拝めず、代わりに透き通った大きな月が水平線に浮かんでいる。遠くで名も無き魚が跳ねたが、それに目をくれるものはいなかった。
屋形船の中、志乃は再び服の中の針を掴んだ。
サラシに仕込んだ妖怪殺しの針である。
(思った通りだった。謝罪に私たちを呼んだ? 違う、そんなもの始めからタテマエだったのよ)
先程のあさぎの言葉、それが志乃の考えを固める決定打となったのだ。
(己の力を見せ付け、私の行動を牽制しようとしている! それどころか取り込もうとしてるんだわ!)
あさぎの目的は聞き出せないが、志乃が妖怪を討伐するのが邪魔なのは明らか。
では何故すぐ志乃を殺してしまわないのか? それは利用価値があると判断したからに過ぎない。興味を惹かれたなど
「オラたちがあさぎの仲間になったとして、オラたちに何させんだ? 人間と戦わせるのか?」
「嫌ねぇ、そんなことさせないわ。
「……やっぱし話しちゃくれねぇんだな。もしオラたちが断ったら?」
「敵になる、かもわかりませんわね。
今の一言には流石のイロハも眉をひそめた。
「……」
「勿論、私はそうならないことを願ってますわ。いずれにしてもまだ先の話、その時になってみないと判らないものよ」
「……」
どうする? 今、あさぎの息の根を止めるか? 今居るのは敵の陣中、万が一殺せたとしても自分たちは生きて戻れるのだろうか? そもそも殺せるのだろうか?
だがこんな機会は二度と訪れないかもしれない。思うに、今あさぎは油断している。イロハは刀を置いているし、志乃は錫杖を持って来ていない。
何か一瞬の隙さえあれば……!
ゴトンッ
「あっ」
他所見をしたイロハがうっかり自分のグラスを倒してしまった。すぐ立て直したがグラスにはまだ中身が残っており、テーブルの上に麦茶が広がる。
「あー……」
「あら大変」
あさぎはポケットからハンカチを取り出し、テーブルへ前屈みになる。
志乃の目の前にあさぎの伸びた首筋が視界に入った。
次の瞬間、志乃の右手は服から抜かれていた!
針の握られた右手をあさぎの首元へ突き立てた!!
(とった!)
……妙な違和感を感じた。あさぎに針を突き立てた感覚がまるで無いのだ。
見ると自分の手首から先が無くなっているではないか?!
そしてあさぎがこちらを向いていた!
あさぎの見ているのは志乃の顔ではない、視線は志乃の胸元である。
視線につられ自分の胸元へ目をやる。
手が浮いており、その手は針を握って志乃の胸元に突き付けていたのだ。
そう、それは切り離された志乃の右手そのものだった!
志乃はあさぎに突き立てる筈だった針を自分に突き付けていたのだ!!
(な……!?)
事に気づき青ざめていく志乃。
その顔を
──殺される!
パチッ
パチパチパチッ!
(痛っ!)
頭の中を弾けるような感覚、そして激しい頭痛が襲った。苦痛に歪む志乃にあさぎが何か言っているような気がしたが、それが何なのかわからなかった。
恐れと苦痛で志乃はうずくまり、意識が遠くなっていくのを感じた……。
「……志乃? どしたんだ志乃?!」
イロハの声がすぐ横で聞こえはっとする。気が付くと志乃は椅子に座ったままぼーっとしていたのだ。
「……イロ……ハ?」
すぐ横に覗き込むようなイロハの顔があった。
どういうことだろうか?
先程のことは夢? それとも幻?
テーブルの上を見ると倒れた筈のグラスが何事も無かったかのように立っている。さっき溢れた中身はそのままだ。
「どした? 黙ったまんまボケっとしちまって」
「……私が? っ!」
ズキッ
頭痛が走る!
「……っ」
「志乃?」
「どこか具合でも悪いの?」
「……!」
あさぎが心配そうに志乃を伺う。
しかし志乃はあさぎの声が耳に届くなり、恐怖した!
「イロハ、すぐ帰りましょう。急用を思い出したわ」
「え!? 志乃?!」
直様立ち上がりイロハを連れて帰ろうとした。
このままここにいては危険だ!
殺される!
「あら、もうお帰り? もっとお話したいことがありましたのに」
「おい志乃?!……おっと刀刀。ごめんな、ご馳走様」
「残念だわ。また会いましょうね」
見送るあさぎの姿をまともに見ることができない。
一刻も早く、ここから立ち去ることだけを考えていた。
(……少しやり過ぎたかしらね)
船の外では花梨が腰掛けて頬杖をしていた。どうやら別の意味で船を漕いでいたようだが、志乃が出てくるのに気がつくと慌てて立ち上がった。
「あれ、もうお帰り?」
「急いで船を岸につけてくれる?」
「志乃待ってよ!」
すると花梨は笑いながら答えた。
「ふふ、この船は始めから動いてはいないよ。恐らくあさぎ様の幻術だろう」
言われて辺を見渡すと、暗いながらも岸がそこにあるのがわかった。
「おろ? ほんとだ、どうなってんだ?」
「お帰りはそこの木の間から。元の森に帰れるだろう」
「わかったわ、ありがとう」
「またな花梨! 今度会ったら一緒に剣術の稽古すべ!」
「是非とも! 帰り道気をつけて」
志乃は花梨に言われた通り、二本の木の間をくぐり抜けていった。
ギチギチ……
リリリ……
木の間を抜けるとそこは森の中だった。
近くで虫の鳴き声が聞こえる、辺りはやはり暗く何も見えない。
「何とか無事に帰って来れたわね、イ……」
言いかけ振り向いた瞬間、背筋が凍りついた。
イロハが居ない!
「イロハ……?」
一緒に後からついて来たものとばかり思っていた。
しかしそこにイロハの姿は無かったのだ!
それだけではない!
始めに見た
やられた!
慌てて辺を照らそうと印を切ろうとする。
ズキン
(っ! ……く!)
意識を集中しようとした瞬間、また頭痛が襲ってきて思わずしゃがみこんだ。
不意に背後から人の気配!
『さっきは急に慌ててどうしたの? 急用なんて本当は無いのでしょう?』
あさぎだ! 志乃は恐怖のあまり頭の中が真っ白になった。
今この状況で襲われたら一溜りもない!
武具はすべて神社に置いてきてしまった。
あるのは御札数枚と例の針だけ……。
「危うくこのまま帰してしまうところでしたわ」
今度はすぐ後ろから声が!
「ひ……!」
志乃は思わず悲鳴を上げた!
反射的に針を取り出そうとした手を掴まれてしまったのだ!
「嫌っ!!」
恐怖に思わず目を瞑る志乃!
このまま爪で引き裂かれ自分は喰われてしまうのか!?
(……?)
恐る恐る目を開ける志乃だが、あさぎに何かされた様子はない。その代わり掴まれた手に何かを握らされていたのだ。
「はいこれ。帰ったら読んでおいてね」
「……これは?」
手渡されたそれは書物の様だった。
「手に入れるのに結構骨が折れましたのよ。でも本来貴女が持っているべき物、差し上げるわ。……私は暫くこの地を離れます。また会う時までには全て読めるようになっていてね、誰かに見せたり渡したりしては駄目よ」
呆気にとられる志乃を他所に、あさぎはくるりと後ろを向いて歩いて行った。
「綺麗な花に
あさぎの姿はそのまま闇に溶けるように消えていった。
あさぎの姿が見えなくなっても志乃は動けなかった。それは恐怖心とは違った何か、敢えて言うならば圧倒的な力の差に押し潰された、と言うべきか。手の内を見透かされていただけではない、自分は生かされたのだ。
志乃を探しに来たイロハの声が聞こえるまで、あさぎの消えた辺をじっと見ていた。
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