見えないけれど見えるもの・神無月

第22話 精一杯


 翌日から、遥人のいない会社は少しだけ忙しくなり、それでもいつもと同じように修介は事務所を守る。

「サト、これから出発か?」

「そう。よろしくね」

 積み込まれた荷物の伝票を受け取り、ドライバーズチェックを受けた後カウンター業務のための出発記録を残す。それは、いつもの手慣れた一連の作業だった。

「サトコ!」

 毎朝登校する子供たちの集団の中から中学生の剛史が事務所に飛び込んでくる。今朝は出発が早いし、明日からは長距離になるので暫く送迎には関わらないシフトを吉住は組んでいた。

「どうしたの?もうすぐ出発じゃん?」

「当分、送迎の車を運転しないって聞いたから。どうしたの?」

「私の大事なおじさまが死にそうなの。ハル兄のお祖父さんなんだ。だからハル兄は今日から特別シフト。ドライバーが不足するから、カバーに入る。だから子供たちの送迎運転のシフトに入れない。そう言うことよ。至ってシンプルな理由。大丈夫、よっちゃんが上手にシフト組んでくれているから皆無理はしていないしよ、心配ないよ」

「そういうことじゃなくて。この間くだらない悪戯したからそのせいかと皆気にしているんだ。だから送迎のドライバーを止めたんじゃないかって」

「何?子供たち何やったの?」

「シートにゴキブリの模型を置いた。俺達は軽い気持ちだったんだけど、サトコに嫌いな人は動揺が運転に出るから絶対にやるんじゃないって一喝された。サトコがあんなに怒ったの初めてだったし」

 剛史がそう白状した。

その言葉に事務所のメンバーが呆れた。

「ああ、そりゃ他愛ないいたずらだが、サトじゃなくても叱る。ゴキブリは苦手な人間が多いだろう」

 山本が苦笑しながら剛史にそうこぼした。

「だから、叱ったのは本当だけど、送迎車運転しないのは別問題。シフトの関係だから。安心しなさい」

「そうそ、それは保障する。第一、サトはゴキブリハンターだよ?一撃必殺」

 吉住が笑った。ひどいなぁ、と言いながら聡子も笑っている。事務所の空気がふわりと和んだ。

「ほら、行くよ。」

 剛史の頭をぐりぐり撫でると、怒ったように剛史が頭をよける。

「あ、かわされた」

 ぷっと笑った。

「心配して損した」

「そう言う剛史、大好きだよ。安心して行っておいで」

 その言葉に剛史の動きが止まった。

「うん。…ハル兄は…長いの?」

「1週間か10日か。事情があって、大学卒業後は一緒に暮らすはずだったのに、一緒に暮らせなかったからね。せめてちょっとの間でも一緒に暮らして欲しいと、私は思う」

「1週間か10日かって…」

「そのじーちゃん、皆の顔見る度に『精一杯生きているか?後悔してないか?』って聞くの。ハル兄にも私にも。だから、私は胸張って大丈夫だよって、笑って答えられる人生にしたい。笑っていられる人生にしたい。きっとハル兄も同じだと思う。大丈夫だよって、笑っていられるよ、じーちゃんが好きだから笑えるんだよ、って言いたいと思う。そう言う時間を過ごしてほしいなって」

「皆に言うの」

「言う言う。ボケ老人かって思うくらい、同じことを聞いてくるのよ。大人にも3歳児にも、年齢関係なく皆に聞くの。それでね、一生懸命考えた答えがもし間違っていても、絶対に笑ったりしないしバカにしたりしなかった。そういう遠回りは必要だし大事なんだよって言うの。難しくて子供に言う話じゃないよね」

 剛史は黙ってサトコを見上げた。

「大丈夫だよ、俺、ガキじゃないもん。行ってきます」

「おう、充分ガキなんだからハル兄に迷惑かけりゃよい。そのための連絡先交換でしょうに。どんどん電話してやりなよ」

 聡子はニヤニヤしながら剛史の強がりに答える。学校では決して成績優秀ではない、影の薄い存在で、剛史自身も何か悩みを抱えているようなところがある。何度か遥人に相談していた姿も見ていたし、遥人自身が自分の携帯番号やメールアドレスを教えていたことも知っている。

「でも…」

「そういうふうに遠慮するのがガキの証拠」

 またぐりぐりと頭を撫でる。

「おー、このぐりぐりの感触最高、テンションあがるわ。先に行くよ」

「あーっ、聡子、このーっ」

 剛史が怒りながら事務所を出る。

「ホント、兄弟かね、あの二人」

「でも、正直ああやって誰かに相談できるから剛史君も腐らずに学校に行けているみたいで…。剛史君が特別じゃないけど、こういう会社の雰囲気というのかなぁ…。俺も憧れます」

 出入り業者のアルバイトの男性がそう言った。

「社長も聡子も父親を亡くして親戚のオジサンや近所のオジサンオバサンに育てられたくちなの。そう言うの、いやだって人も多いけど、あの二人はそれで助けられたところが大いにあるから何でも話せる雰囲気じゃないと落ち着かないらしいよ?」

 伝票チェックしていた清水がそう言い、先程倉庫で確認した数と間違いがないので事務処理をする。

「まぁ、個人情報どこへやら、だけどね」

 吉住が笑った。視線の向こうでは送迎車の前でまだ聡子と剛史がじゃれ合っていて、周りのスタッフたちが笑っていた。



 聡子は予定通り長距離の運転を終え、出発翌日の午後2時過ぎ、定刻に戻ってきた。

 出迎えたのは山本だった。

「聡子、お前明日休みな」

「ん?出勤じゃないの?」

「ハルから連絡があった。聡子のお袋さんが、帰って来いと言っているって。聡子ならそう伝えれば意味が分かると言っていたよ」

「ああ、うん、ありがとう」

 つまり、鎮静剤を使うということだ。

 末期がんの場合、最後は痛みにのたうちまわる可能性が高い。倫人も例にもれず、かなり強い痛みを伴っているという。

 だが、本人はギリギリまで意識を保ちたいという。けれど、痛みのコントロールには限度がある。痛み止めの限度は越えつつあるというのが登紀子の見解で、そのうち本人の意識を薬剤を使って意図的に落とす「ターミナルセデーション」という医療行為を行うことになるだろうと推測し、既に必要書類にはサインしてあるという。

 鎮静剤を使えば、痛みは取り除かれて心も体も楽になる。一方、鎮静剤が切れれば地獄の苦しみが待つことになる。だから、眠り続けられるように鎮静は続けられる。だが、一度そうしてしまえば、お互いに意思疎通することはできなくなる可能性が高い。

 倫人は、最後の最後まで意識を保ちたいと言った。だから鎮静という選択は最後の最後だと決めている。延命措置にも反対しているのだ。

「ああ、わかった」

 聡子は頷いて、無事に帰着したと書類にサインした。

「送ろうか?今から出れば向こうで一泊出来るじゃん」

「いいよ、自分で行くから。少し休んで夜に出て行く」

「わかった」

「じゃぁお先に」

 聡子はタイムカードを押してスケジュールを確認してから部屋に上がった。



 ちょっとだけ家事をして仮眠して、空腹で目が覚めた午後7時。

 夕飯を食べてから、敦子へ差し入れ用の冷凍カレーをバッグに詰めて如月家に向かう。

 途中、寄り道をしながら、しかし10時過ぎにはカーポートに車を入れた。

「あ?」

 何故だか、かつての実家には明かりがついていた。

 がらっと、かつて聡子の部屋だった窓が開く。

「聡子?」

「ハル兄?どうして?」

「おう、サトちゃんか」

 後ろから顔を見せているのは岩井だった。

「ありゃ?」

「じーちゃんの元同僚の人が何人か来て、教え子と一緒に酒盛りしてったから、今夜は落ち着いて眠った。…お前どこに泊まるつもりだ?」

「伯父さんちのリビング。客間は引っ越し荷物で使えないから今日はリビングだって敦子に言われたのよ。上等でしょ?」

 ぽんぽんと寝袋を叩いた。

「野性児め」

 岩井がおかしそうに笑っていたが、かつては大学の山岳部で鍛え、今でも寝袋で寝るのが平気な岩井には言われたくないと心の中でごちた。

「明日の夕方には帰る。明後日は朝と夜に短距離2発入っているから」

「おう、よろしくな」

「それから、剛史に連絡してやってよ。すっごく心配していた」

「あ?」

「ん、そういうこと」

「わかった」

 遥人は頷いた。

「じゃぁおやすみなさい」

 聡子は当たり前のように手を振って、本家に向かった。



 翌朝、敦子と一緒に台所に立ち子供たちの弁当の支度と朝食の支度を手伝っていると、直也の妻貴子は洗濯を終えて朝食を取る。

「ごめんね、サトちゃん。本当は客間のほうが良かったんだけど」

「大丈夫よ、お母さん。聡子は寝袋持参だからその辺に転がしておけば」

「やだねぇ、枕くらいちょうだいよ、敦子」

「いやいや、その辺の新聞束で充分だから」

「和也も」

 同級生三人組はきゃいきゃいと朝を迎えていた。

「今日は皆仕事なの?」

「私は休み。思い切って今月は休んじゃった」

 敦子はフリーランスの仕事なので融通がきくと言うのでそうしたらしい。

「俺は遅番だから8時にここを出る。親父も仕事。定時で上がるようにするけど」

「私は早番だから4時には戻れるわよ」

「あー、私はその前に帰るかも。ありがとうね、伯母さん」

「大丈夫かよ、お前」

「大丈夫よ。子供たちから元気もらえるからね」

 和也と敦子の子供は小学生と保育園生で、小学校は集団登校で学校に行き、保育園の送りは、今日は貴子らしい。

「じゃぁ、あっちゃん、よろしくね」

「了解です」

「ああ、サトちゃん、登紀子さん連日のことで疲れているみたい。出来るなら暇を見つけて休んで欲しいんだけど」

「ああ、言っとく。大丈夫よ」

 聡子は請け合った。朝の通勤通学でバタバタ時間を過ごしながら慣れた手つきで送り出しながら朝食を取り、和也を送り出した。

「うわっ、ゴミ出しの時間」

 敦子と笑いながらゴミ袋を抱えてゴミ集積所まで運ぶ。途中、近所の一人暮らしのおばぁちゃんのゴミまで持って行くあたりは、敦子の融け込み様に安心する。

それぞれの暮らしは、ここで営まれている。



 恐らく、最後の別れになるだろうと母の登紀子は言ったが、聡子はいつものように倫人に別れを告げた。仕事に行ってくるよ、またね、と言うと倫人は聡子を抱きしめてくれた。

「お前は、あの頃と変わらないなぁ、優しい聡子のまんまだ。幸せになるんだよ?遥人によくよく頼んでおくからね」

「ありがとう」

「大丈夫だよ、聡子。皆がいるから」

 昔と同じ、おまじないのように諭すように声をかけてくれた。そしてそのまま、すうっと眠ってしまった。

「寝ちゃったよ…安心したのかなぁ」

 そう言いながら倫人の布団を整え、いつもと同じように如月分家を出た。



 それから三日と経たないうちに、如月倫人は息を引き取った。聡子は立ち会うことはできなかったが、優斗たち家族と、如月本家の直也一家、遥人と岩井と静子も立ち会うことができたという。静かな旅立ちだった。

 倫人の希望通り、教え子が経営する斎場で営まれた通夜と告別式には、温厚な人柄を偲んで大勢の教え子や元同僚たちが別れを告げに来てくれた。この人々のつながりは、倫人の何よりの財産だと遥人と聡子は思った。

 誰もが自分の人生を精一杯生きてほしい、笑って生きてほしい、最後は倫人の口癖で、喪主の挨拶は締めくくられた。

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