88.手を伸ばせ380000km


 夜の寮は暗く、廊下を照らすのは淡い月明かりだけ。軽く見回すと、同じく部屋を出てきたばかりであろう神谷と目が合った。黒い瞳はまるで水晶のような輝きを放っていて、眩しくて思わず下を向いてしまう。

 そうやって俯いていると、ぺたぺたとこちらに近づいてくる気配。

 目の前に神谷が来ても、園田は顔を合わせられない。勇気を出してきたものの、何を話せばいいのかわからない。どんな顔をすればいいのかもわからない。


 そうやってまごついていると、左手に温かい感触。

 驚いて手を見ると、神谷の右手に握られていた。

 みどり、と呼ばれた気がして神谷の顔を見る。すると『行こう』と唇の動きだけで、そう言った。


 夢を見ているかのようにふわふわしていた。左手に感じる温かさだけが現実感を与えてくる。

 手を引かれたまま一階に降り、玄関で裸足のまま靴を履いて寮を出る。

 暗い藍色の空は星と月が支配しているかのようだった。緩やかな風を受けながら、まだ歩を進める。どこへ行くつもりなのだろう。わからない。

 でも神谷と一緒なら、どこへだっていけるような気がした。


 寮を離れ、林を抜け――その間も、手を引く神谷は何も言わない。振り返ることもしない。

 すぐに見えた金網のドアを開き、運動場に出る。そのままさらに歩き続けて――中央で止まった。


「初めて話したのはここだったよね――といっても向こうの世界で、だけど」


 振り返る神谷は、笑っていた。

 目を弓なりに細めて淡い笑顔を浮かべていた。

 

「あの時は……あは、こんなことになるなんて思いもしなかったな。色んな意味で」


 異能を得て、怪物と戦って――そして、神谷沙月は園田みどりと出会った。

 最初ははっきり言って、大多数のその他大勢と変わらなかった。偶然居合わせただけ。それでおしまいのはずだった。


「あの時、ここで会って、初めて話して――それで終わり。無かったことにするはずだった。それなのにみどりはぐいぐい迫ってきて……その上わたしのゲームを手伝うなんて言い出すし」


「沙月さん、私は……」


「でも嬉しかった。嬉しかったんだよ、本当に」


 つう、と神谷の頬を涙が伝う。

 きらきらと輝く大切な思い出が流れ落ちてゆく。


「もうみどりはわかってると思うけど、本当はあの時からわたしはずっと不安だったし怖かったんだ。自分一人で戦っていけるのかって……実際負けちゃったしね」


 プラウ・ツーとの戦いで、神谷は一度敗北している。

 そこで代わりに戦い勝利したのがあの時ゲームに迷い込んだ園田だった。


「だから本当に救われたような気持ちだった。なんて強い子なんだろうって思って――その時からわたしの中でみどりの存在が大きくなっていったんだ」


 すでになくてはならない存在だ。

 それは戦いにおいても、それ以外においても。


「みどりのおかげで今までプラウに勝ってこられた。わたしが諦めかけた時も、みどりは信じて待っててくれた。振り回してばっかで、どうして愛想つかさないんだろうって思ってたけど……」


 どこまでも受け入れてくれるから、つい甘えそうになってしまう。

 都合のいい存在でないことはわかっているはずなのに。

 あまりにも温かくて、身を預けたくなってしまう。


「好きだったから、なんだね。わたしのことが」


「――――はい」


 園田は、夜空を見上げる神谷を見た。

 涙はもう乾いている。黒い瞳に星空が映って、まるで銀河のような輝きを放っていた。

 園田はこの瞳が好きだった。いつからか光を放ち始めたこの瞳を、ずっと見つめていた。


「物好きだよ」


「いいえ。私、人を見る目には自信がありますから」


 それだけは間違いなく断言できる。

 神谷沙月が園田みどりを本当に裏切ったことは一度として無いのだと。

 そっか、と神谷は静かに呟く。


「あの時は言えなかったけど……わたしを好きになってくれてありがとう。わたしを見つけてくれてありがとう。みどりのおかげで今のわたしがいる」 


「お互い様ですよ。ずっとそうだったでしょう?」


 決して一方的な関係ではなかった。

 まるでお互いの欠落を埋めあうような、救いあう二人。


 もしあの時、園田が神谷の部屋に入ってこなければ。

 もしあの時、園田が神谷の代わりに戦っていなければ。

 もし、もし、もし――いくつもの『もし』を乗り越えて、二人は今ここにいる。

 この世に奇跡というものが存在するなら、この二人こそが奇跡の体現者だった。


「みどりはわたしが好きで……それでどうしたいの?」


「え……ええと……考えてなかったです」


 神谷のことが好きで、一緒にいられれば幸せで――それ以上のことは具体的に考えていなかった。

 今回のきっかけになった暴走も、急なことだったのだ。


「付き合いたいとか、そういうのは」


「な、ないですないです」


「本当に?」


 ぐ、と詰まる。

 何も考えていなかったと言えば嘘になる。ぼんやりとでも『そういった関係』を夢想したことは――ある。間違いなく、ある。


「……ちょっとだけ」


「そっか。……恋って難しいよね。ここの所わたしもずーっと考えて、いろんな人に話を聞いて、考えて考えて考えて、やっとこれだ! って答えが出た」


 自分だけでは到底たどり着けなかった。

 こんな曖昧な気持ちに形を持たせるなど、それこそ雲をつかむようなものだ。

 それでもやらなければいけなかった。そうでなければ園田に向き合えない。


「わたしは、みどりのことが好きだよ。大好き。でもこれは……恋じゃない」


「……そう、ですか」


 わかってはいた。

 わかってはいたのだ。

 神谷がそういう風に自分のことを見てはいないだろうな、ということは。

 それでもはっきりと突きつけられるとショックだった。

 目元がじわりと熱くなる。視界が潤む。

 だめだ。こんな顔をしていては。


「でも!」


「……っ」


 張り上げたその声に、弾かれたように顔を上げる。

 神谷は、真っすぐ見つめていた。その視線は逸れることなく園田を捉える。

 

「わたしのこの気持ちが恋に劣るなんてことは絶対に無いし、そんなことは誰にも言わせない! みどりと同じ形はしてないかもしれないけど、それでも、胸を張って好きだって言える!」


「沙月さん……」

 

「みどりが望む好きはあげられないかもしれない。でもそれ以外の全部をあげるから……これからも一緒にいてよ。友達とか恋人とかはもう無理かもしれないけど、それならわたしたちだけの関係を作っていこうよ。好きならなんだってできるって、わたしは思ってるから……!」


 神谷は必死だった。

 ともすれば、告白した時の園田よりも。

 自分がおかしなことを言ってるかもしれない。都合のいいことを言ってるのかもしれない。そんな疑念を払えないまま、しかし彼女は叫ぶ。


 それは園田のことが好きだから。無くてはならない存在だから。

 自分勝手だと思う。だとしてもそばにいてほしかった。

 かけがえのないパートナーをどうしても手放したくなかった。


「……もういいですよ」


「みどり……わたしは」


「本当に、勝手です。あなたは」


「うん、ごめん」


「でもそれでいいです。私が欲しかったのは、私と同じ気持ちじゃないんです。一緒にいてくれればそれ以上はありません。だから……その、これからよろしく、ということです」


 結ばれた関係は、もしかしたら少し不格好かもしれない。

 だが、二人の目には、確かに輝いて見えた。

 好きの形は違っても、違うからこそぴったりとはまる時がある。

 だからこそ、今この瞬間はこんなにも喜びに満ちている。


「みどりに出会えてよかった」 


「私もです」


 本当に、遠回りだった。

 これを言うのにどれだけかけただろう。

 これから歩む道もきっと遠回り。それでもその先はきっと光に満ちているだろう。

 それだけは、強く確信できた。



「ちなみに、キスとかはありですか?」


「え!? えー……と……そ、そのうち?」


 そういうことも、あるのかもしれない。

 まだ未分類の関係は、どう転ぶのかもわからない。






 ねえ、いつから好きだったの?


 きっと、初めて会った時から。


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