85.好きの模様はウサギかカニか


 恋愛と友愛は何が違う?

 確かに言葉としては分けられている。社会でも、概念の上でも、違うものとして捉えられている。

 だが、強く相手を想うことに違いはあるのか。 

 それらを分けるものは何なのか。

 交際という口約束以外の違いはあるのだろうか。


 そんなことを、神谷はあれからずっと考えていた。




「け、こ、こあ、こい……あった」


 何をしているかと言えば、自室で辞書を引いていた。

 入学時に買った国語辞典――大して使っていないので新品同然だ――を取り出し、単語を調べている。

 幼い子どものような行動ではあったが、まずは言葉自体の意味から知らなければならない。

 何しろ、恋というものについて神谷は何も知らないのだから。


 あの話し合いから三日。

 結局、何も結論を出すことはできなかった。

 和解することはできた。が、園田の一世一代の告白は流れてしまった。


 それからあの場にいた三人の間にその話題が出ることはなく、彼女たちはぎこちないまま日々を過ごした。

 表面上は取り繕っているが、園田もアカネも神谷もどこか上の空で、沈黙が流れることも少なくなかった。

 

「『恋』――『特定の相手が好きで、いつも会いたい、一緒にいたいという気持ち』……かあ」


 辞書ってこういうふわっとしたことも書くんだ、などと思いながら、次の単語を目指しページをめくっていく。


「れ、れん、れんあ……『恋愛』――『一組の人間が互いに恋すること』……一方的なのは恋愛って言わないの……? わかんないな……」


 曖昧だ、と思う。恋が何なのかどうしても実感が湧かない。そもそもこんな頭でっかちな方法で知ろうとすること自体が理解できていない証拠なのかもしれない。

 ふと思い立ち、別の単語を探す。


「『友情』――『友人に尽くそうとする気持ち』『友達との間の情愛』……情愛は、ええと……『情愛』――『慈しみ、愛する心』」


 調べれば調べるほど、という感じだった。

 考えるほどに違いがわからなくなる。

 立場や肩書以外の違いがどこにあるのだろう。

 辞書を放り出し、ベッドに全身を預ける。


「特定の相手が好き、いつも会いたい、一緒にいたい……そんなの、みんなに思ってるよ」


 ならこれは恋なのか。

 園田にも、光空にも、アカネに対してもそう思うのなら、三人全員に恋をしているのか。

 

「わかんない…………」


 辞書は何も答えてくれない。





「恋ってなに?」


「……いきなりなに?」


 とりあえず光空の部屋をを訪ねることにした。

 今から寝るところだったのか、Tシャツにハーフパンツで髪を下ろしている。

 初めて見るわけではないが、この状態だと昔の面影が強く出ているな、と思う。

 そこ座って、と差し出された丸々としたひよこのクッションを敷いて腰を下ろす。


「わたし、恋愛がなんなのかよくわからないんだよね。したこともないし。だから教えてもらおうと思って」


「な、なるほど……? 私はてっきりまた……まあいいや。恋愛……って何かあったの?」


「何ということはないんだけどね。ふと思っただけ」


 誤魔化すような態度の神谷を見て、何かあったんだろうな、と光空は思った。

 神谷はそんなことでわざわざ訪ねてきたりしないからだ。


「でさ、陽菜は恋愛ってしたことある?」


「ぐいぐい来るね……ん、まああるにはあるけど」


「あるの!? いつ!? どんな人!?」


「え、えー……恥ずかしいなあ……中学の部活の先輩が、まあ、当時好きだったというか」  


 さすがに少し恥ずかしそうな光空だったが、神谷の方は興味津々に目を輝かせ身を乗り出していた。改めて話すとなると気が進まないようだ。 


「どんなきっかけがあって好きになったの?」


「入部してわりとすぐ気が合って仲良くなったんだよ。で、よく絡んでて……気が付いたら好きになってたって感じ。でも先輩が卒業したら疎遠になっちゃってさ。そしたらいつの間にか気持ちが恋じゃなくなってた」


 少し遠い目をしていた。想いを馳せているのだ、というのが傍から見てわかる。少し寂し気な眼差し――しかし嫌な思い出というわけでもなさそうだった。


「結構好きなはずだったんだけどね、今はもう……」


「告白とかしなかったの?」


「しないしない。不思議と付き合いたいって思わなかったんだよ」


 そういうこともあるのか、と理解はしつつ腑に落ちなかった。

 好きとなったら付き合いたいと思うものではないのか。だから告白しようとするのではないか。

 園田のように。

 そんな考えが表情に出ていたのか、光空は苦笑する。


「一口に恋って言っても人それぞれなんじゃないかな」


「付き合いたい好きも、そうじゃない好きもあるってこと?」


 光空はこくりと頷き、


「私は、その時は先輩が仲良くしてくれるだけで満足だった。その関係が好きで、自分に合ってるって思ってた。でもそうじゃない人だってもちろんいるよね。関係を変えたいって思う人もいる」


「そう、だね……でも、好きな相手の唯一になりたいって思わないのは、恋なの? 友情じゃなくて?」


 少し失礼かも、踏み込みすぎたかも――口に出してからそんな風に不安になった神谷だったが、光空は柔らかくほほ笑む。


「うん。私はあれが恋だって思ってる。一緒にいるだけであったかくなって、合わない間は、今頃何してるんだろうとかそんなことばかり考えて……あはは、改めて言うと恥ずかしいね」


 そんな風に照れつつも、でもね、と続ける。


「逆に友達相手でも、今沙月が言ったように『特別なたったひとり』じゃないとやだ! って子もいる。というかいた」


「えと、それは……」


「中学の時の同級生にいたらしいんだよね、私は伝聞でしか知らないけど――友達がほかの子と仲良くしてるとヒステリー起こして、最終的に、死んでやる! ってカッターで手首切った子が……その事件のあと転校したけどね」


「おお……」


 なかなかに壮絶なエピソードに、うまく言葉が発せない。

 世の中にはバイオレンスな友情もあるものだ、と感嘆にも似たため息をついた。


「ていうか私も似たようなものだよ。沙月が園田ちゃんと仲良くなってメンタルべこべこになったことあるでしょ?」


「ああ、うん」


「もしかしたら私もあのまま『死んでやるカッターぶしゃー!』してたかもしれないね、あっはっは」


「笑えないよ! そんなことになったら死んでも止めるから!」


 あの時は本当に切羽詰まっていて、実は今でも、真夜中に光空が倒れるまで走るのを見ているだけという内容の悪夢をたまに見るのだが、本人が笑い話にできているならそれでもいいかなと思った。

 

「あはは、ええと何の話だっけ……そうそう、友情と恋の違いだった。正直難しいよね」


「うん」


「さっきも言ったけど人それぞれって面はやっぱり強いし、相手によって好きになり方も違うし」


 ふと、神谷は園田の告白を思い出す。

 彼女は神谷のことを愛していると言った。

 告白をして、そして――どうしたかったのだろうか。

 ただ想いを伝えたかっただけなのか。今のままの関係を望んでいたのか。

 それとも、やはりまた別の、他の友人たちとは違う特別な関係を望んでいたのだろうか。

 

 彼女の恋はどんな形をしているのだろう。


「でも私が思うのはね。自分の気持ちが恋だって思えたら、それが恋なんじゃないかな。その気持ちがどんなものでもね」


 目の前の光空は、少しだけ大人に見えた。

 大切な幼馴染の言葉――それは神谷にとって、いちばん納得のいくものだった。


 それを決めるのは自分自身。

 なら自分はどう思っているのか。

 

 好きの形は、いまだ雲に隠れてよく見えない。

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