9.熱狂と成長
ユリーシャ・マーレイの足取りは早かった。
そして、立ち止まる気配もなかった。選ぶ道にも迷いもない。ジェフが名前を呼んでも振り返らず、反応らしい反応も示さない。歩くうちに、後続の
もしかするとユリーシャに無視されているのかもしれない、とジェフが気づいたのは、三分ほど経ってからだった。
しまいには、焦れたスノウが飛び立った。
「そろそろ、立ち止まってくれませんかね」
翼を羽ばたかせ、ユリーシャの肩に止まる。
出たな、と、ジェフは思う。これはスノウの奥の手だ。耐えられる人間は滅多にいない。
「私は疲れましたよ。ねえ、お腹が空いちゃいませんか? 休憩しましょうや。今日は実にピクニック日和だ。もっと気分よくいきましょう。なんなら私が歌でも歌いましょうか、ぜひリクエストしてくださいよ。得意ですぜ。『緑の子どもの歌』なんてどうです? それとも――」
「やめてほしい」
ついにユリーシャは言葉を発した。
足は止めないまま、溜め息交じりに喋り出す。
「ジェフ。これはきみの使い魔か。言葉を話す使い魔とは珍しいが、よくこの軽口に耐えられるな」
迷惑そうに肩を揺すり、スノウを振り落そうとする。が、その程度でスノウを追い払えるはずもない。彼はただ、からかうように甲高い笑い声をあげた。
「俺も別に耐えられるわけではない」
ジェフは正直に告げた。
「いつも苦労している」
「自分の使い魔だろう。言うことを聞かせられないのか、きみは」
「友人だからな。頼むことはできるが、命令はできない」
ユリーシャの背中を追いながら、言葉を探した。彼女を止めるための何かだ。
「――よって、きみにも頼むことしかできない。止まってくれ。一人では危険だと、エレノアが言っていた」
「私はきみの友人になった覚えはない」
振り返ったユリーシャの横顔は不機嫌そうで、ジェフは間違ったと思った。
だから、もう少し有効な言葉を探す。説得だ。いま、その能力が求められている。
「私見だが、ユリーシャ」
ジェフは結局、思いつく限りの対話材料を並べることにした。
「きみは肩に力が入りすぎていると思う。優秀な魔導士見習いだと聞いているが、それでは本来の実力が発揮できないだろう」
ユリーシャの反応はない。これも無効だったか――別の方向性が必要なのだろう。そう判断したジェフは、さらに続ける。彼は諦めるという方針を知らない。
「きみの身に何かあると、きみの姉も悲しむはずだ。コーデリア・マーレイ――」
「黙ってくれ」
先ほどまでよりも、よほど強い語調だった。そこには明白な拒絶の意思があった――それ以上に、怒りも。
「姉上の名前は出すな」
「おおっと!」
やや乱暴に肩を撫で払われて、スノウもユリーシャの肩から飛び立った。非難がましい声をあげる。
「もう、若、なんでそうヘタクソなんですか。ちょっとは相手の気持ちを考えて発言しないと。私を見習ってくださいよ」
「そうか――いや」
ジェフは思わず顔をしかめた。どうやら、失敗したらしい。
思い出すのは、老師の言葉だ。
「そうだったな。人は自分の欠点を正確に指摘されると、不愉快になるケースが多いんだった。俺自身、いまスノウにからかわれて不愉快になった」
「ひどいじゃないですか、若。私のは真心からの忠告ですよ」
「そうは思えない」
片手を振ってスノウを追い払い、またユリーシャに声をかける。
「すまない、ユリーシャ。無遠慮にきみの欠点を指摘してしまった」
「……ジェフ・キャスリンダー」
ひどく呆れた様子で、ユリーシャが振り返った。なぜか、少し笑ってしまったようにも見えた。
「なんというか、きみは会話というものを――」
その瞬間、ユリーシャの足が止まった。
ついに説得が功を奏したのか、とジェフが錯覚するのも一瞬。
彼もほぼ同時に気づいていた。右手側の木々の茂みから、近づいてくる気配がある。大きく、そして素早い。木々の小枝がへし折れる音。かなり乱暴な接近。
ジェフは瞬時に判断する。
(野生の動物ならば、もっと密やかに近づいてくる)
が、これは、そんなことを気にしていない。相手に悟られることを意に介していない、ということだ。
(つまり、この相手は)
生まれてから天敵に遭遇したことも、狩猟をしたこともない。この大陸には、人間を除けばそんな生き物は一種類しかいない。
「異形だ、ジェフ」
ユリーシャが苦々しく吐き捨てた。その目がジェフを睨んでいる。
「だからきみにはついてくるなと――いまさら、遅いか」
「まさしく、大変ですな。いかがです、若」
スノウが呑気に笑った。
「お手伝いしましょうか?」
「いや」
否定して、黒檀の杖に添えかけていた手を放す。
スノウも、魔法も、抜きでやる。そうでなければ訓練にならない。タイウィン・シルバとの約束を破ることになる。
ジェフは意識を集中することにした。
鬱蒼とした木々の奥から、自分よりも頭二つ分ほど大きな巨体が飛び出てくる。
大きすぎる胴体、それに繋がる四肢。全身が黒々とした体毛に覆われている。四肢が異常発達した大猿、といった見た目だ。実際、彼らは猿から作り変えられた存在だった。
彼らは、トロールと呼ばれている。
『熱狂』と『成長』の《しるし》によって生み出される、旧帝国陸軍の遺産。
その個体は、ジェフとユリーシャを認識して、大きく口を開いた。
そこから声は出ない。雄叫びもない。そうした能力は削がれている。ただ、猿であった頃の名残で、叫ぶような行動をとることがあった。
異様に長く伸びた腕で、興奮したように地面を叩く。
そして、跳ねた。
(十分に危険な敵だ。いまの俺にとっては)
ジェフは静かに戦力を計算する。
(魔法無しで無力化するには――)
そう考えかけたときには、すでにユリーシャが迎撃に移っていた。
彼女の魔法の《しるし》は、滑らかに起動した。
「活性」
呟けば、杖の先端に火花が散る。音高く放電する。赤色の《しるし》が閃く。
「射出」
白い雷が、飛び掛かるトロールを撃った。
分厚い胸部を貫き、巨体の動きを止める。正確な射撃。そのままゆっくりと崩れ落ちた。
「上手いな」
ジェフが浮かべた感想は、まずはそれだった。
おそらく杖に予め《しるし》を刻んでいるのだろう。『雷撃』の《しるし》。言葉をキーワードにして、
消耗を最小限に抑え、起動も素早い。彼女には自分に見合った工夫と、それを実現するだけの技術があるのは間違いない。
しかし振り返ってみれば、ユリーシャは困惑の表情を浮かべていた。
「――なぜだ?」
呟いて、彼女はトロールの巨体を見下ろす。油断なく杖を構えているが、もう動かない。それでもユリーシャの表情は晴れなかった。
「トロール。本来、この森にはいないはずの異形だ。凶暴で貪欲――見境がない。こんなやつがいれば、森の生態系はすでに破壊されている」
その言葉の裏には、かすかな不安が覗いていた。
「旧帝国の陸軍部隊として使われていた習性で、トロールは群れで行動する生き物だ。はぐれたのか?」
「いやいや!」
スノウが翼を羽ばたかせ、飛び上がるのがわかった。
「こいつ、仲間がたっぷりいますぜ。連れてきてる。弱いやつほど群れるってわけですな」
「なに?」
顔を上げ、ユリーシャは唇を噛んだ。木々の奥から、無遠慮な騒音が近づいてくる。接近を隠すつもりもない足音だった。それも、かなり多い。
「ジェフ! 下がっていてくれ。これは何か妙な事態だ。ヴァネッサ先生に連絡を取らなければ――」
言いかけたところで、黒い巨体が飛び出してくる。今度は、トロールが一度に二匹。後方からもまだ続いている。
「活性」
ユリーシャの舌打ちと、杖を構えるのはほぼ同時だった。
「射出」
再びの雷は、正面のトロールを射抜いた。心臓を撃たれれば、もう動けない。
だが、二匹目には間に合わない。毛むくじゃらの手が伸びてくる。これを避けるべく、ユリーシャは後退しようとして、そのまま転んだ。
「う」
呻くような、あるいは悲鳴のような短い声。
ユリーシャは明らかに焦っていた。落ち着けば、距離をとってもう一撃分の《しるし》を準備できたはずだ。ジェフは頭のどこかでそう思った。
思った時には、動いていた。
「軽いな」
ユリーシャへ伸びた、トロールの腕を掴む。引き抜くような力のかけ方だった。相手の加速と体重を別方向に逸らす。
竜殺しの技は、魔法の《しるし》だけではない。
この種の格闘技術も含まれる。
「竜よりも、だいぶ軽い」
トロールの巨体を投げる、というよりも転倒させる。腕を掴んだまま頭から落とす。トロールはこの突発的な事態に、どのように反応すべきかわからないようだった。
そして、わからないまま死んだ。
地面に叩きつけた瞬間に、自重で首の骨がへし折れている。
異形は生命体のあるべき形から逸脱した存在だ。
その自滅的な体重。一部の反射行動の欠如。そうした要素により、陸軍の『生体兵器』として意図しない使い方をすれば、簡単に自滅することもある。
「いまのは。いや、きみは――」
ユリーシャは何か言いたげにジェフを見上げた。聞いている暇はなかった。後続のトロールたちが向かってくる。
「いまのは、対竜白兵迎撃だ。二匹、三匹と多数を相手をする手段ではない。あくまでも、一時的に杖を手放したときの緊急避難になる」
律儀に説明しながら、ジェフはユリーシャを抱え上げた。先ほど倒れるとき、足を妙な方向に捻ったのが見えたからだ。
「うぅわっ? 待って――ジェフ、何をする!」
ユリーシャは裏返った声をあげた。
「逃げる」
短く答えて走り出す。ジェフの見たところ、トロールたちの足はそう速くない。自分の全速力なら引き離せる。
そういう算段があった。
「ジェフ!」
ユリーシャがジェフの腕の中でもがいた。
「暴れないでほしい。走りにくい」
「待ってくれ、このままでは」
「窮屈だろうが、堪えてもらわなければ困る」
「違うっ、そういうことではなく! この方向は――」
「む」
「あっ」
ジェフの体が前のめりになった。バランスが崩れる。
唐突に視界が開けた――木々がない。足元は急斜面だった。ほとんど崖のような。
「遅かったか」
ユリーシャの諦めたような呟き。
転げ落ちながら、ジェフはせめてユリーシャを強く抱え込んだ。視界が回転する一瞬、スノウがはるか上空へ飛び立つのが見える。
翼の影は、まるで嘲笑う口元のようだった。
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