第11話 ⚪牙を磨け。必要になる。
⚪牙を磨け。必要になる。
【川口竜二】二カ月と十六日後
白々と夜が明けようとしている。川口竜二に時間の認識は既に無い。だが、鳩の忙しい鳴き声は朝の訪れを明確に示している。どこから自分が歩き始めて、どこに向かっているのかも解らない。日中の喧騒とは相反する閑散としたビル街を数時間掛けて歩いていることだけの認識。混濁とした意識の中、気が付けは川口は中央区にある自宅マンションの前に呆然と立ち尽くしていた。
どうやら日中の時間に強くイメージすれば、夜には肉体が微弱に反応して動くらしい事が解ったのは一週間前だった。その日、趣味の自転車をイメージした川口は、翌朝の巣穴で気付くと何処で見付けて来たのか解らない自転車のペダルを、歯の抜け落ちた口に含んで赤子の様にしゃぶり続けていた。
「ヴェ……ヴ…ェ…」
タイムラグはあるものの、思惑通りに自分の肉体が動くことに気付いてから目指していた十四階建の白いマンション。家族が待つ安住の地。
「ヴェ…ヴェ……ボヴェノヴェ……」
川口は、強烈な浮遊感に意識を固定出来ぬまま、もう一度呟いた。「俺の家」言葉は喉を駆け上がること無くひび割れて押し潰される。遅めの結婚と、遅めの子宝に歓喜した日々から十数年。今年の春には娘の高校入学に合わせて、妻子の為に小さなサプライズを用意もしていた。それなのに何故。どんな理由で、自分が自分でなくなってしまったのかも解らない。気が付けば全てが桃色の世界の中にあった。濃い霧の中にあった。川口は、見上げたマンションの十二階部分の自分の自宅窓を睨み付けて娘の名前を呻く。
「ガナゴ……」
呻いた後に意味も無くその場で爪先だけのゆっくりとした小さな跳躍を繰り返す。やはり、身体の反応は意識とは完全にシンクロしていない。望まない行動衝動に駆られる。
「ヴ、ヴェ……」
すぐ隣で自分とは違う呻き声が聞こえて川口は左右に頭を振る。だが、白く霞んだ視界に誰も見付けることが出来ない。確実に聞こえた筈の声の主が居ない。微かな意識が疑問符で埋め尽くされて、川口は自分の手のひらを目の前に翳した。
「ヴ…」
翳した筈の手のひらが視界に飛び込んで来ない。確実にある筈のものが消えている。視線を自分に向けて姿を確かめる。存在している筈のものが正体を消している。混濁した意識が更に困惑する。在るべき形が消えている。その現実を認識出来なくなる。
「ヴェ、ヴ…」
再度響いた自分以外の呻き声の方向に川口は漫然と動く手を差し伸べる。
その指先が見えない何かに触れて、そこから火花のような刹那に弾ける強烈なイメージが流れ込む。
見たこともない景色と、見たこともない人々、抱き合い、泣いて、笑って、愛し合う。自分の経験したことのない世界が一瞬で自分の中に注入される。それは、映画のような客観的な安心感も、傍観者的な無責任さもない、現実に体験した者だけに残る痛烈な感情。
川口は自分が泣いていることに気付いて、透明な指先で涙を拭った。
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