第5話 ⚪雨が降ったら傘をさせ。

⚪雨が降ったら傘をさせ。


【川口竜二】当日

 巨大銀行の金庫室のような心の奥深くに閉じ込めていた感情が、重厚で緻密に作られた扉の僅かな隙間から滲み出してくるような気がした。才能の決定的な差異に恐怖以外のものを感じなくなってから、ひたひたと静かに溜めていた負の感情。川口竜二は市街中心部に向けて渋滞する車の脇をすり抜けながら自転車のペダルを漕ぐ足に力を込める。踏み込む度に速度を増す車体とは全く違う自分に情けなくなる。自分が努力に努力を重ねても到底追い付けない才能を持つ同僚の中尾。人を魅了する才能。商品知識や、セールストークを磨くまでもなく容易く業績を伸ばし続ける。自分は踏み込めば踏み込む程に顧客や友人の機嫌を損ねて欲しいものが離れていく。

「大した事なんてしてない癖に……死ね!」

 雨に濡れながら呪詛を漏らした昨夜の帰宅路。自分の哀れさに悔しさが倍増した。コミュニケーションの難しさに絶望して絶叫したくなった。『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』伊坂孝太郎は小説の中で主となるキャラクターに言わせている。置き換えるなら臆病風を吹かし陰口で対峙する奴の心理を操って来た自分と、真っ直ぐな感情と朗らかな人当たりで周囲を明るく照らす中尾の対照的な役割は益々自分の無力さを助長させる。

「死ね。死ね。死ね……」

 川口は声にならないように叫んで自転車を漕ぐ足に力を込めた。市街地の混雑を駆け抜けて自身の会社が入るビルの前に辿り着いた時に自転車用のグローブの中に微かな滑りを感じる。視界も心なしか桜色に染まっている気がする。

「汗か?」

 独りごちてタイトなサイクリング用スーツの袖口で額を拭う。無意識にそれを眺めると黒いスーツの上に桜の花びらを乗せたようなピンク色が点々と浮かんでいる。

「花びら……」

 言いながら花びらを摘まむように指先で触れると、それは油に浮く水滴のようにスルリと川口の指先から逃げた。

「なんだよ」

 呟いてグローブを外した手で再度ピンク色の液体に触れると、今度は汗でふやけた指先を包み込む様にそれは絡み付いた。そして、そのまま指先を呑み込むように一瞬でピンク色の液体が増殖する。それは空気中の水分を刹那に吸い寄せたようにも見えて実際は自分の身体中の体液が各細胞から絞り出されていくのを感じる。一瞬で全身の水分が何か別のものに変化していくのを感じる。

「幻覚だろ……」

 呟いたが、それが声になっているのか川口自身にも判別できなかった。





 



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