第4話 お父さん、ありがとう
深い山々を越えて吹く木枯らしが、白骨化した杉林を撫でる。ただの風の音だろうか。大災害によって失われた人々の物悲しい泣き声だろうか。
私は倒れている。地球の重力のなすがまま。頬を通して凍えた大地の冷たさが伝わる。麻痺して首さえ動かせない有り様だ。固定された視界の中にいるのは、苦しそうに横たわる父。
「ミコの9 mm弾な、お父さんのリアクターに当たったんだよ。ミコのまぐれは凄いな。本当に凄い」
『奴ら』の構造は人を模してあるが、高度に発達した未知の技術が使われている、全くの別物。中空セラミック製の人体骨格に白いプラスチックのような人工筋肉が張ってある。その上を生きた人間の細胞組織が覆っている。内臓の代わりにリアクターと呼ばれるリンゴ大の動力源。原理は全く不明。そして細胞組織を維持するための生体維持装置。
「お父さんは今、予備動力で動いてるから、あと7分30秒で停止するんだ」
『奴ら』には特に優れた武器があるわけでもない。筋力も人間並み。明らかに人を殺すために作られた物ではないだろう。リアクターは外部から位置を特定するのが難しいので、私はいつも頭を狙うのだが、当然動力源であるリアクターが破壊されれば『奴ら』は死ぬ。いや、活動を停止すると言った方が正しいだろうか。
「お父さんはもうすぐ死ぬの?」
手足は痺れていても、口は大丈夫のようだ。喋った自分が驚いた。
「生物としてのお父さんはな、もうとっくの昔に死んでしまったんだ。トランスクライバーで脳のコネクトームを転写する時、クロスリンクといって、分子と分子を繋げて脳の構造を固定させるんだけど、その時に脳細胞は全部死んじゃったんだ」
父はそう寂しそうに言う。死んだ本人から死んだと告げられると混乱する。今、私は何と話しているのだろうか?
「そう、やっぱり…死んじゃったんだ。お父さんの魂は?脳は死んでも魂は、魂は残るんでしょ?」
祖母は毎日仏壇の前で念仏を唱える。母は十字架の前で涙して祈る。小さい頃から私には永遠の魂があると信じて生きてきた。死んでも天国で永遠に生き続ける魂が。
「ミコ…実はミコにも魂は無いんだ。ごめんな。当然お父さんにも無い。今こうしてここで考えているミコの意識は脳の活動の一部なんだ」
そう言って、父は静かに目をつむる。父の頭部が左右にゆっくりと展開する。中からは全ての光を捕まえて離さない漆黒の正八面体が現れた。それは輝くことのないダイヤモンドの結晶のよう。
「お父さんの意識はさ、脳みそもうなくなっちゃったから、コンピュトロニウムの結晶というハードウェアの上を走るソフトウェアなんだよ」
もう父の唇は動かない。顔の表情も変わらない。なのに声だけはしっかり聞こえる。頭部を展開し使った分、不要な動力の浪費を抑えなければならないのだろう。
「そしてミコの意識も、生の脳みそというハードウェアの上を走るソフトウェアなんだ」
なんだか吐き気がしてきた。私はここに存在する。確実に存在して、心もあって、意思もあって、感情もあって、魂もあって、断じてソフトウェアなんかじゃないと言える。そう感じるんだ。確かな感じ。でもどこかで何となく分かってる。それが『感じ』だけなんだって。
「お父さん、もうやめて!そんなこと聞きたくない!」
しばらく父は沈黙した。さっきは残り7分半と言った。父の時間は、あとどのくらい残っているのだろうか。
「ミコ、この間お母さんが持ってきた缶詰はもうそろそろ無いんだろ?」
私は沈黙を保ったまま。
山小屋の地下室に隠してある最後のスイートコーンの缶詰、それを食べたのは昨日の朝。他には何もない。だから当てもないのに食料を探しに歩き続けていたのだ。太陽光を遮る厚い塵の層は、植物を飢えさせ、動物を飢えさせた。白骨化した森をいくら探しても食べられるものなど見つからない。
「こんな状況じゃいつ死んでもおかしくないんだよ。ミコだって分かってるはず。それでは遅いんだ。そしたらミコは永久に消えてしまうんだ。永遠に…」
動力の絶えた顔面からはもう父の表情は読み取れないが、声からは娘を失いたくないという切実な思いがくみ取れる。
「私…死んだら永久に消えちゃうの?」
話しかけてからすぐ後悔した。このまま黙っておけばよかった。
「ミコの脳がトランスクライバーで転写されて、施設のトランスレーターでソフトウェアに翻訳されれば、飢えも苦痛も無い、病気にもならないし死ぬこともない意識になるんだ。永遠に生きられるんだ」
ソフトウェアとして生き続ける?いまいち意味が分からない。それは生きていると言えるのだろうか?
「ミコ…お母さんやおばあちゃんも待ってる。ここに居れば食料は無くなり飢え死にするのは時間の問題だよ。気温は更に下がってくる。次に太陽が見えるのは多分10年後ぐらいだ。」
もう後がないのは私が一番分かっている。助けが来ない事も何となく気づいていた。多分もう生きている人は僅かだろう。地球はもう人間を養っていくことができないんだ。
「だけど脳みそ転写されると私は死んじゃうんでしょ?さっき死ぬって言ったじゃない」
永遠に生き続ける為に死ぬという矛盾がどうしても受け入れられない。
「確かに今の生物としてのミコの意識とソフトウェアとして再構築されるミコの意識とは連続性は無いんだ。つまり、ミコの意識は死んで、別物として蘇る。でも…」
「でも?」
「でも、今日のミコの意識と昨日のミコの意識って本当に連続性あるのかな?」
「私は昨日の事はちゃんと憶えてる」
昨日も、その前も、ずっと山小屋の地下室で凍えながら一日中泣いていた。それだけは覚えている。他には何をしていたのだろうか。
「それは、昨日の経験をした記憶があるってことだよね?でもドライブレコーダーのように全てを憶えている訳ではない。なぜだろう?昨日の夜、ミコは寝たはずだよね」
毎晩、津波で濡れなかった家々の瓦礫の中から回収した毛布たちを幾重にも重ねて眠る。空腹を押し殺しながら、無理やり何も考えないようにして。
「寝てる間に意識が消えるけど、脳の活動が止まるわけではない。脳は一生懸命に心に残った記憶を拾い、長期記憶として組み立てているんだ。それをもとにしてミコの意識を再構成する。新しい価値観を持つ別物として作り変えるんだ。意識の連続性は無いのかもしれない」
「どういうこと?良く分らない」
「つまり、寝ている間に古いミコの意識は死んで、朝起きたら別物として蘇ってるんだよ。毎日ミコは死んで生き返っているっていうことさ。ミコの脳がトランスクライバーで転写されて意識は一度死んで、ソフトウェアとして翻訳されて生き返るのとさほど変わりは無いんだ。だから怖がることはあんまりないよ」
父は最後の動力を振り絞って、展開していた頭部を閉じる。父の表情が戻る。安らかでいてどことなく寂しさを感じさせる笑顔。
「ソフトウェアとしての意識も連続性はないんだよ。もうすぐお父さんはここで死ぬ。ジャミングのせいで同期出来ないから、数日したら施設のバックアップが起こされる。でもバックアップはここでこうやってミコと話しているお父さんとは別物なんだ。なにせ昨日のお父さんなんだからね。今ここにいるお父さんは、消えてしまうんだ。死んでしまうんだ」
父の笑顔は止まったまま。私は暖かい涙が冷たい頬を流れるのを感じた。
「ごめん、お父さん。私もうちょっとだけ、生きていたいの」
「久しぶりにミコとゆっくり話せてとても幸せだったよ。さよなら、ミコ…」
そして父は何も言わなくなった。
「ありがとう、お父さん」
たぶんもう聞こえていないであろう父にそっと呟いた。
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