2. 悲しい絵
★
「俺、何も知りませんよ」
ドアから顔を出したのは、いかにも芸術家肌の線の細い男だった。その男が開口一番、言った言葉がそれだ。
俺は相方の白瀬と目配せした後、できるだけ愛想よく言った。
「はい、そうでしょうが、念のためお話を。奥田愛海さんはあなたの後輩でファンだったと伺っておりますので」
「ファン……?」
困った顔でそう呟くと、彼、河合拓未はじっとこちらをみつめる。
「そう言われても、本当に何も知らないんですよ」
「あの、ちょっと中に入れて貰えませんか。ここで立ち話しというのも……人目もありますし」
このマンションの住人らしき親子連れが、何か特殊な雰囲気でも感じるのか、じろじろこちらを見ながら通り過ぎて行った。河合の方もそれに気付いて渋い顔になる。
「……判りました」
彼は仕方なさそうにドアを大きく開いた。
「どうぞ、中に入ってください。変な噂が立ったら困るんで」
ちらちらと周囲を伺う。よくある反応だ。
俺は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
白瀬とふたりして部屋の中に入ると、ほおっと声を上げそうになった。壁という壁には色とりどりの絵画が掛けられ、机の上には画材の類がきちんと並べられている。ちょっとしたアトリエだ。
描きかけらしいキャンバスを興味深く眺めていると、河合が手を伸ばして裏返した。
「すみません。下手くそなもので」
「あ、いえ。いい絵だなと思いましたよ?」
「これは習作です。自分のオリジナルではなくて、既にある画家の絵を真似して描いているだけなんです。だから、見て貰うようなものではなくて」
「そうですか。失礼しました」
「ああ、いえ、とんでもない」
ふたりして頭を下げ合っていると、白瀬のあっけらかんとした声が聞こえてきた。
「いかにも絵描きさんの部屋という感じですねえ」
あたりを見渡しながら白瀬が言う。
「個展も定期的に開催されているんですよね? すごいなあ」
「ちっともすごくなんかないですよ。こんなの趣味で描いているだけです。俺は普通のサラリーマンですから。あ、こちらにどうぞ」
促されてソファーに座った。お茶を用意すると言ってキッチンに向かおうとする河合を制して、彼にもソファーに座って貰う。
「お邪魔しては何ですから、早く済ませてしまいましょう。先ほど、玄関先でも少し申し上げましたが、改めまして、私はS警察署から参りました野間と申します。こっちは同僚の白瀬。
今日、私たちがこちらにお伺いした理由は奥田愛海さん失踪の件です。既にご存知のことでしょうが、父親に対する傷害の件で話しを伺いたく、彼女を捜しています。単刀直入に申しますと、河合さん、あなた、奥田さんの居場所をご存知ではありませんか?」
「父親はどうなったんですか」
「はい?」
「愛海は父親を殺せたのかと聞いているんです。昨日見たニュースでは重体と」
「……意識不明の重体。そこは変わっていません。なので亡くなってはおりませんよ。それは、奥田さんにとっても良いことだと思いますが、なんだかあなたはがっかりされているような」
「まさか」
顔を上げると彼は白々しいほど明るく言った。
「殺人よりも傷害罪の方が罪が軽いことぐらい、誰だって知っています。ただ」
「ただ?」
「愛海は……すべてを消してしまいたかったのだろうとそう思って、それを果たせなかった愛海が可哀そうというか」
「すべてを消す? それは父親を殺すことで、ですか?」
「ああ、すみません。俺、ちょっと混乱してて。知り合いがこんな事件を起こすなんて……」
「ですね。判ります。あの、それで、奥田さんの行き先に心当たりはありませんか? 私どもが心配しているのは彼女の安否です。自殺の恐れがあるのです。ですから、何かご存知のことがあるなら伺いたいのです」
「自殺……」
「ええ。心当たりはありませんか?」
俯くとしばらく河合は何かを考えているようだったが、不意に顔を上げると言った。
「すみません。俺と愛海は確かに先輩後輩の間柄ですが、でもそれだけで特に親しいというわけじゃないんです。彼女の交友関係とか行きそうな場所とか、俺にはさっぱり。お役に立てず、すみませんが」
「そうですか」
「ただ」
「はい?」
「自殺の心配はないと思いますけど」
「……何故ですか?」
「父親が死んでいないなら、愛海も死にませんよ」
「どうしてそう思うのですか?」
「愛海の真面目な性格からして自殺なんかしないと、そう思っただけです。あの、もうよろしいでしょうか?」
「ああ、そうですね。……はい。どうもお邪魔しました」
俺たちは素直に腰を上げると、河合拓未の部屋を後にした。
「……野間先輩」
と、マンションを出た辺りで白瀬が言った。
「何だか、あの男、違和感があります」
「うん?」
「そんなに親しくなくても後輩ですよね、しかも個展には必ず来てくれる貴重なお客さんでしょう? もっと安否を気にしませんか。なのに、父親は死んだのかなんて妙なこと聞いてくるし。かと思えば愛海は自殺なんかしないとかなんとか。何か知っているんじゃないですかね? 実はもっと親しい関係にあったとか」
「そうだなあ。だけど事前の調べでは、先輩後輩の関係しか出てこなかったろ」
「そうですけど、秘密の関係とか……あれ、野間先輩? 何だかぼんやりしていませんか? 何考えているんです?」
「ああ、いや。あの描きかけの絵がさ」
「描きかけの絵?」
「うん。他の絵を真似して描いているんだってさ。裏返されてしまったんだが」
「あ、あれですか。ちらっと見ましたけど、あれってあれですよね」
「あれって、なんだよ」
「ほら、有名な絵ですよ。ええっと、フェルメールの『青いターバンの少女』とかいうやつ。勉強のため、模写しているんですよ」
「うん? 青? 白かったぞ?」
そうだ、確かに女性の肖像画だったが、白い服を着て、白い布を被っていた。青くは無かった。
「これから色を塗るんじゃないですか? 描きかけの絵なんでしょ?」
「ふうん、なるほどな。俺は絵のことは判らんが、しかし」
「何ですか?」
俺は空を仰いで言った。
「悲しそうな絵だったんだよ」
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