第3話 この水、源泉水だね 前編
ここは、警視庁管轄東京北署捜査一課。
ここにいる刑事全員が、警部のデスクを見ていた。
「もう昼だぞ」
「連絡がとれないんですよ」
「寝坊ですかね?」
「スーツケースここにありますよ」
異動の際に持ってきたスーツケースが、デスクの横にあるままであった。
「家、どこだ?」
「まだ決まってないって言ってたような」
「宿にでもいるんですかね」
秋田のデスクの上には、未処理の報告書がどっさり積み上げられてる。
もう置き場所がないほど、デスクはいっぱいだった。
そのとき、捜査一課に入電の知らせが入る。
千葉と福岡は、現場に直行した。
事件現場は、温泉宿の江戸旅館。創業100年以上の老舗旅館である。
その客間で、男が刺傷され亡くなっていた。
「随分深いですね」
「第一発見者は、パートの小峰恵美さんです」
小柄で若い女性。事件現場ではまず、第一発見者を疑うものであるが、この小柄な女性ひとりでは、こんなにナイフを深く刺せそうにない。
「昨夜、南田様から午前10時に起こしてほしいとのご要望があり、本日10時にお伺いいたしました。そのときに、ご昼食を午後1時に持ってきてほしいとのことでしたので、お持ちしたのです。そうしたら……」
「亡くなっていた、ということですか」
「はい」
「10時に起こしにきたときは、南田さんは生きていたんですね?」
「はい」
「ということは、死亡推定時刻は10時から1時の間ってことか」
「南田さんは、ひとりで泊まっていたんですか?」
「はい」
証言する小峰は、おぼつかないような様子であった。
遺体を見てショックを受けているのか、それとも。
女将の聴取をしていると、ある姿があった。
「警部!」
「近くを通りかかったんだが、何か事件か?」
「何してたんですか。出勤してくださいよ」
女将は、秋田を知っていた。
「先ほどはありがとうございます」
「いえいえ」
「江戸の滝は、いかがでしたか」
「ダイナミックでね、心を打たれました」
「もしかして警部、江戸の滝を見に行ってたんですか?」
「ええ、まあ」
「あのですね、警部。警部の仕事、山ほど溜まってますよ」
「コツコツとやるとするよ。とりあえず、この事件から」
とまあ、秋田を交えながら聴取を続けた。
「ご遺体を見に行こうか」
「それならもう、運びました。写真なら、これです」
千葉は、秋田に写真を渡す。
「うーん」
果物ナイフが背中に斜め横向きに刺さっている。
「果物ナイフか。何を切っていたんだろうね」
「桃、じゃないですか? ほら、ここに」
写真に、桃が写っていた。
「おいしそうだね。私は、お腹がすいたので署に戻るとしよう。君たちは南田さんと小峰さんについて調べてくれたまえ。では」
秋田はさっさとその場と立ち去った。
「よく遺体の写真を見てお腹がすいたなんて言えるな」
「ですね」
千葉と福岡は、現場を隈なく調べていた。
「入口はここだけですね。窓開けると崖なので、外からの侵入はできません」
窓を開け、そこから顔を出す。
窓の外は急な崖になっていた。
「屋根からも無理そうだな」
「建物もガタがきてますね。窓も開けにくいし。あれ、閉まらない」
窓をがたがた言わせながら、やっとのことで閉めた。
「何かひっかかってんのか?」
「その窓は、立てつけが悪いんです」
と話すのは小峰。
「ああ、そう」
「立てつけが悪いのに直さないんですか?」
「すぐ崖で危ないからそのままでいいのではないか、ということらしいです」
「まあ、開けないほうが安全だな」
窓から過って崖に転落でもすれば、それこそ命はない。それほど危険な崖である。
「よくこんなところに建てたもんだ」
ふたりが署に戻ったころには、秋田は宿直用のベッドで寝ていた。
「食ったら寝てますよ」
しかし、意外にも秋田のデスクの上は片付いていた。
「おい」
と千葉は近くに刑事を呼ぶ。
「報告書、どこいったんだ」
「あー、警部が処理しましたよ。ほとんどはやり直しですって。私も今、自殺として処理したのをやり直せと言われました」
「犯人がいるってことか?」
「そうらしいんですが、疑う余地がなくって」
「そうか」
「千葉さん、亡くなった南田のブログですが、見てくださいこれ」
南田の亡くなる前日のブログ。これが最後の更新となったわけだが、意味深な内容である。
「私は殺される。これは運命なのだ」
その前の日付。
「天は私に死を命令した」
その前の日付。
「会社をリストラされた」
「会社をリストラされて、殺されたってことですか?」
「会社関係者をあたってみるか」
そこに、聞き込みから戻った愛知が秋田のデスクの未処理箱に書類を入れた。
「いやー、まさかだったな」
と話す愛知たちに、千葉が話しかける。
「やり直しだったのか?」
「ええ。まあ、細かいところなんですよ。でも、起訴されたときに裁判官の心証が違うからって警部が」
「ふつうは気づきませんよ」
「なあ福岡」
「はい」
「……なんでもない」
千葉は、何かを言いかけてやめた。それは、秋田への信頼なのか、それとも不信感なのかは、誰にもわからない。
「千葉さん」
鑑識の男に声をかけられる。
「南田ですが、死亡推定時刻は午前5時から10時と思われます」
「え? 10時?」
「おかしいですよ。小峰さんは10時に生きている南田と話しているんです」
「しかし、遺体の腐敗具合からそれ以降ということは、考えられませんね。あと、秋田警部の言っていたナイフの周辺の水ですが、読み通り江戸温泉の源泉水だと思います。」
「なんで、水?」
「さあ」
「っていうか、警部が源泉って言ったの?」
「はい。たしかあのとき……」
鑑識の男は、事件現場で「この水、源泉水だね」と秋田言っていたのを覚えていた。
「なんで、源泉水だと……」
「さあ」
千葉は、源泉水のほかに、ある疑問を抱いた。
(あの時、警部は遺体を見ていないはずだ)
「警部、遺体を見たのか?」
「はい」
(警部がきたのは遺体を運んでからではないのか?)
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