お出かけ警部のグルメ日記
柚月伶菜
第1話 和菓子は繊細な味よ 前編
「辞令が出たぞ」
その声をもとに、警視庁捜査一課職員が見つめるのは、掲示板に貼られた異動の辞令。
一枚の紙に、ひとりの名前と異動先が明記されている。
「えー」
と驚きを隠せない者もちらほらいる。
警視庁捜査一課きっての敏腕警部の秋田茂が、警視庁管轄東京北署に異動との知らせであった。
「来た」
「来たぞ」
職員たちの視線の中に、秋田は軽い足取りで現れた。
「秋田さん」
そう駆け寄るのは、捜査一課刑事の石川。
「どうした?」
「どうしたって、秋田さんが異動だなんて」
「定例の異動だ。仕方ないことだろう」
掲示板をチラッと見ると、特に何もなかったかのようにデスクに向かう秋田に、石川が食らいつく。
「定例なわけないでしょ。どう考えても時期外れですよ。この前秋田さんが警察OBの息子を真犯人で捕まえたのが気に食わなかったからって、こんなことするとは呆れたもんです。それでも警察かって、言ってやりますよ」
今にも上層部のもとに飛び込みにいきそうな勢いだ。
「まあまあ、そうごちゃごちゃ言いなさるな」
デスクに着く秋田を囲むように、刑事たちが集まってくる。
「僕、秋田さんがいたから……」
そう泣き出しだしたのは、新米刑事。
「こついだけじゃありません。秋田さんがいたから、多くの事件が解決できたんです」
「そうです」
面倒見がいい秋田は、たくさんの部下に慕われているのだ。
「これからは君たちの力で頑張ってくれたまえ。私は田舎へ帰るとするよ。東京北署の近くには、観光名所の江戸の滝がある。その麓には温泉があって、腰痛に効くそうだ。この腰も治るといいのだが。それに、江戸温泉まんじゅう。おいしいと有名なんだそうだ。食べたことあるか?」
「ありませんけど」
「これを食べなければ、死にきれんな」
これは、秋田の口癖である。
「そうです、秋田さん。警視庁舎の裏に新しく讃岐うどん屋がオープンするんですよ。これは、食べなきゃ死にきれませんよね?」
「なんという店だ?」
「確か、讃岐一番うどん」
「それなら食べに行ったことがある。月見うどんがおすすめだ」
「警部は異動に納得しているんですか?」
「してるとも。おいしいものを用意しているから是非、という歓迎の言葉もいただいた」
そう話す秋田はご機嫌であった。
数時間後。
石川が捜査から戻ると、秋田のデスクはきれいに片付いていた。
「あれ? 秋田さんは?」
「警部なら、北署に行きました」
石川だけでなく、他の刑事も悲しい表情を浮かべた。
石川は、警部のデスクに寄り、座っていた秋田を思い浮かべた。
「石川」
先輩の刑事が石川を宥める。
「秋田さんなら上手くやるさ。そしてまた、戻ってくるよ」
「そう、ですね」
秋田は、タクシーで北署に向かっていた。
窓からの景色は、高層ビルに囲まれた窮屈な薄暗い風景から、次第に緑が広がりをみせてきた。
警視庁から高速を乗って1時間。一般道に降りると、樹々の中に民家が数えるほどあるだけの道を行く。
すると、ぽつりと歩道にのぼりが現れてきた。
「いいところですねー」
なんて運転手に声をかけてみる。
「ここら辺は、源泉が豊かでね、水はおいしい、野菜もおいしい」
「ほう、水、野菜ね。地場産品の売ってるお店にでも寄ろうかね」
「それなら、この先の道の駅はどうですか?」
「そちらに寄ってくれたまえ」
先ほどののぼりは、この道の駅を指していたようだ。
タクシーが駐車場に入ると、待ちきれない秋田は足がばたついていた。
駐車場は満車で、露店に人が溢れ、何とも賑わっていた。タクシーから降りると、一目散に向かったのは、漬物屋。
「どうだい? 名物の源泉漬けだよ」
「源泉で漬けてあるのかい?」
「味がしみこんでいて、ほのかに江戸温泉の香りもするんだよ」
「ひとつ、もらおうか」
「ありがとうございます。500円ね」
タクシーに戻り、運転手に漬物を自慢すると、もらった温泉卵を運転手に渡した。
「いいんですか」
「ええ。おいしいものを教えていただいたお礼と安全運転のお礼です」
「東京北署まで、安全に運転いたします」
タクシーが発車すると、傾斜の急な山道を登っていった。
「この山を下ると、東京北署に到着します」
それから20分くらいだろうか、道路沿いに、『江戸温泉まんじゅう』の旗が見えた。
「そうだった。江戸温泉まんじゅう」
「名物ですね」
「そこにも寄ってくれないかな」
「かしこまりました。江戸温泉まんじゅうは、江戸庵という和菓子屋で作られているんです。昔はそこらじゅうに売っていたのですが、今では江戸庵でしか食べられないんですよ。東京北署から歩いて5分ほどの店です」
「そうであれば、その店で降りるとするよ。北署までは歩いて向かうとしよう」
しばらくすると、タクシーは停まった。
「ご苦労さん」
スーツケースを持って降りたところは、江戸庵の前。
大きな店構えで、黒を基調とした老舗の和菓子屋である。
暖簾をくぐり中に入ると、これはこれは美しい、絵のような和菓子が展示されていた。
『ご試食どうぞ』の貼り紙を見るなり、箱の中の小さな和菓子をひとつ爪楊枝でいただく。
「うーん、これはおいしい」
店の隅では、若い男がふたり、店主あろう老いた男性と話をしていた。
スーツ姿のふたりは、警察関係者でなくても刑事だと分かるような鋭い目つきである。
「あのー」
と秋田は話を割って入った。
「あー、いらっしゃい」
「この和菓子、おいしいです。これはご主人が作っているんですか?」
ふたりの刑事は、客の邪魔にならないよう横で静かにしていた。
「いえ、それは孫が作ったものでして。半人前ですが、やる気だけはありましてね。味は確かなんですが、売り物にできるほど見た目が良くないもんだから、試食用として出したんです。まあ、親バカならぬ、じじいバカでしょうか」
「そんなことはありません。大変ようお味です。ではご主人、こちらの和菓子、いただけますかな」
「はいよ。よかったら、食べていかれます?」
「そういたします」
秋田は、椅子に腰かけ和菓子を待った。
その間も刑事たちは、陰でひっそりとしていた。
「お待たせしました」
店主が和菓子とお茶を持ってきた。
「これはこれは」
「お茶は、家内が用意いたしました」
「どうも。ではさっそく」
秋田は、お茶を一口、もう一口飲んだ。
「よいお手前で」
「ありがとうございます」
「そういえば、あの刑事さんたちに、何を訊かれていたのですか?」
「いやー、そのー、お客様に話すようなことでは」
「好奇心旺盛な年寄でございまして」
店主は、小さな声で話そうとした。それに、秋田が耳を傾ける。
「すぐ近くでね、殺人事件があったんですよ。その話で」
小声で話す店主の前で、秋田は通常の声で返事をする。
「ほう、殺人ですか。ご主人は参考人か何か?」
「それが、その……」
そこに、刑事が話に入ってくる。
「失礼ですが、あなたは?」
「私は客です」
「だったら、知る必要なんてないでしょ」
「随分と鋭い目つきで聞き込みをされていたようで、まさかご主人が疑われているのではないかと心配しているのです。このようなおいしい和菓子をお作りになるご主人が疑われているなど、この店の客という立場から放っておけません」
温かい言葉に揺られたのか、店主は話し出す。
「私じゃないんですよ、孫なんです」
「お孫さん?」
「なんでも、孫が若い女性を殴り殺したというんです。でもね、孫は優しい子で、それが故にいじめにあうような子なんです。殴られることはあっても、殴ることはしない立派な子だと思ってます」
「素晴らしい。あなたのお孫さん、絶対に殴り殺してなんかいませんよ」
秋田は持っていた盆を置き、店主の手を握り締める。
「お客さん」
神様でも見るような、温かいまなざしだ。
「あのー、いいですか」
先ほどの刑事である。
「あなた、犯人でも見たんですか?」
「いいえ」
「では、事件当日、ご主人のお孫さんといたとか」
「いいえ」
「では、どうしてお孫さんが犯人でないと言い切れるんですか?」
「それはね、和菓子がおいしいからです」
「は?」
ふたりの刑事はため息をついた。
「とにかく、お孫さんに会わせてください」
「だから、孫が会いたくないと言ってるんだ」
「そんなに会いたいんならね君たち、逮捕状でももってきなさい」
秋田は和菓子を食べながら、刑事にそう言った。
面倒な年寄りだと思ったのか、刑事たちは怒ったような顔で店を出て行った。
「あのじじい、何なんだよ」
「スーツケース持ってましたし、旅行客じゃないですか?」
「そんなの分かってるわ。態度のことを言ってるんだよ」
文句を言いながら、刑事は北署の捜査一課に戻った。
「さて、私もこの辺で」
後に続くように、秋田も江戸庵を後にした。
「あのー、捜査一課はどちらで?」
「2階の、エレベーターの目の前です」
「どうも」
言われた通り、エレベーターの目の前に捜査一課があった。
スーツケースを引いてくる秋田に、刑事のひとりが声をかける。
「捜査一課に、ご用ですか?」
「ええ。本日付で配属になりました、秋田ですが」
「これはこれは。長い道のりを、ご苦労様で」
「それで、私のデスクは?」
「こちらです」
と、若い刑事に案内された。
途中で、先ほどの和菓子屋で会った千葉と福岡の横を通る。
「どうも」
「あれ?」
「さっきの」
秋田は、窓際のデスクにどっしりと座った。
「うん。心地よい」
「あのー、スーツケースは……」
「これね、私物。だからね、触らないでね。あとこれ」
秋田は、ビニール袋から漬物を出す。
「切ってくれるかな」
「はい」
「まずは署長に挨拶だな」
秋田は、3階の署長室に向かった。
そのころ、捜査一課の千葉と福島は、秋田の噂をしていた。
「やばくないですか。警部に失礼なことを」
「まじかー。敏腕警部なんだろ? 怖い怖い」
「でも、あれですよね。この時期に異動してくるんだから、とんでもない変人だって噂がありますよ」
「変人なのは間違いない。和菓子屋で一服してから来るんだからな」
「そうですよね。それに今の漬物。源泉漬けですよ。きっと、途中の道の駅で買ってきたんですよ」
「旅行気分だな、あれは」
「田舎だからって、なめてるんですかね」
そこに、署長と秋田がやってきた。
「みんな、紹介する」
そこにいる刑事全員が一斉に立ち上がった。
「本日付で配属になった、秋田茂警部だ。警視庁では捜査一課警部として、多数の難事件の犯人確保に携わった。そこそこ変人ではあるが、事件解決に導く変人である。この度は、犯罪増加と検挙率の低下を重ねる東京北署を立ち直すべく、私がお願いして来ていただいた。秋田警部のもとで、しっかり学んでくれ」
「はい」
と立派な返事がとんでくる。
「よろしくね」
署長は秋田より若いが、お互い顔を知っている気の知れた間柄である。
「そういえばね、あれ買うの忘れたんだよ」
「あれって?」
「江戸温泉まんじゅう」
「あー、そこの江戸庵っていう和菓子屋で売ってますよ」
「そこのご主人の孫を容疑者にしようとしているんだよ、おたくの刑事」
「それは申し訳ない。ご指導の程、お願いします」
「事件経過見た後、まんじゅう買いに言ってくるから、あんまりブーブー言わないでおくれよ」
「早速本領発揮ですか。私は、秋田さんの自由な行動を全面的に認めますので、どうぞ好き勝手やっちゃってください」
「ありがとうね」
話が済み席に着くと、秋田は千葉と福岡を呼んだ。
「あのね、そ」
言葉と遮るように、千葉と福岡は頭を下げた。
「すみませんでした」
そんなことを気にもせず、秋田は続ける。
「捜査会議をしましょう。事件経過はどうなってるのか。といっても、最初から教えてほしいんだけれども。他のメンバーは?」
「女性殴殺事件でしたら、担当しているのは、私千葉と福岡のふたりです」
「ふたりだけ?」
「はい」
「そう。じゃあ、椅子を持ってきて、会議を始めましょう」
そこに、若い刑事が漬物を持ってきた。
「待ってたよ。食べた?」
「いえ」
「食べてごらん」
「はい」
漬物を食べる刑事の顔を、嬉しそうに眺める。
「おいしいです」
「だろー? 道の駅で買ってきたんだよ」
それを聞いて、千葉たちはやっぱりといった顔をする。
「さてさて、事件が起きたのは……」
漬物を頬張りながらの捜査会議が始まった。
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