堕ちる



 久しぶりの豪雨だった。

 彼に連れられて行ったイタリアンの夕食もまずまずの味だったし、彼が車内でかけるクラシックの曲も別に嫌いじゃなかった。気分はそこまで悪くなかった。彼が人気のない路地に車を止めて、何の前触れもなく「別れよう」なんて口にするまで。

「どうして?」

「別に君を嫌いになったわけじゃない。他に好きな人ができたんだ」

 つまらない、よくあるありきたりな返答。

「ああ、そう」

 私はそれだけ言って窓の外を見た。窓の外を見ようとしたところで外の景色なんて見えやしない。だって、豪雨ですもの。

 雨が代わる代わる窓を叩いていた。

「家まで送って」

 気がつけば口が勝手に動いていた。彼はああと短く返事をして車のエンジンをかける。彼には今まで私の家の場所を教えたことはなかった。初めてが終わりになってしまうのね、なんて悲観に浸りながら私は彼に指示を出す。右、そこは左へ、まっすぐ進んで。彼は気まずいのか一言も話をしなかった。だったら、別れ話なんてしなければいいのに。「ああ」なんて言わなければよかったのに。

 車はどんどん私の指示する方へと進んでいく。だけど、――――車が急に止まった。

「どうしたの?」

「どうやら前輪が泥濘にはまったらしい」

「ああ、そう」

 彼は車を必死に進ませようとする。でも、中々泥濘からは出ることができなかった。

 今日は久しぶりの豪雨だった。雨は窓を叩いて視界を悪くする。もしかしたらこの雨は泣かない私のために代わりに泣いてくれるのかしら、なんて悲劇のヒロインぶってみる。

 彼が隣で小さく舌打ちをした。

「焦ることはないわ。時間はたくさんあるんですもの」

 そうだな、と彼は返事をしたけれど少しも落ち着く様子はなかった。そればかりか腕時計に頻繁に目を向けている。きっとこのあと別の女とでも約束をしていたのね。

「時間、そんなに気になるの?」

 彼は少し黙って、それから「いいや、別に」と腕時計を外した。

「ああ、そう」

 私はまた窓の外に目をやる。雨はまだ止みそうにない。

 前進ばかりを試みる彼が不意に前進することを止めた。なんだか、車体が少し浮いたような気がした。窓の外を覗き込んでみる。豪雨が洪水を生み、いつの間にか車体の半分までの水嵩になっていた。何故、車内に浸水してこないのだろう。そんなことが頭を過ったけれど、すぐに私は、ああ、と納得して背凭れに身を委ねた。

 彼が車を少しだけ後進させて、前進を始めた。隣に座る彼の姿を横目で見れば、彼は焦点の合わない眼で遠くを見つめていた。私はそんな彼が愛おしくて仕方ない。思わず零れる笑いを隠すことなく、ふふ、と笑って前を向きなおす。

 水嵩は時間と共に高くなる。そして、私たちはどこまでも堕ちていく。

「ねぇ、何処まで行こうかしら」

 私はとても幸せだった。彼となら何処へだって行けるもの。私はそれを知っている。

 私はとても、幸福で満ちている。


 さぁ、このままずっと、私とどこまでも、何処へでも逝きましょう―――。



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