自宅警備員 明四津日乃出
沢田和早
第1章 事業の内容案内と沿革
志望理由と採用に至る経緯
「
「婆ちゃん、何を弱気になっているんだい。孫の花婿姿を見るまでは死ねないっていつも言っていたじゃないか。大丈夫、きっと良くなる。気をしっかり持ってくれ。母ちゃんと父ちゃんも頑張っているんだから」
集中治療室のベッドに横たわる祖母の手を握り締めて、日乃出は励ましの声をかけた。ここへ運ばれて来た時には既に事切れていた両親については教えていない。まだ生きていると思っているのだ。
そして事故を起こした車に同乗していた祖母の命も、もはや風前の灯であることはその苦しそうな息遣いから見て取れた。握り締められた手を弱々しく握り返しながら祖母は再び口を開いた。
「これだけ長生きできれば十分。思い残すことは何もないよ。ただ……」
「
傍らに立つ看護師が話を遮った。その横の医師も渋い表情をしている。患者の命を一秒でも永らえさせるのが医療関係者の使命。体力を奪うお喋りを早く切り上げて欲しいと思うのは当然だ。しかし祖母は構わず話を続ける。
「日乃出や、最後に婆ちゃんの頼みを聞いておくれ。おまえは江戸時代より続く明四津家のたったひとりの跡取り。今住んでいる家はお爺さんを婿養子に貰った時に親が新築してくれた大切なお屋敷。どうかあの家を、明四津家を、未来永劫守り通してくれないかい。それだけが婆ちゃんのたったひとつの望み……」
「わかった、婆ちゃん。約束するよ。あの家は必ず守り抜いてみせる」
日乃出の返事を聞いた祖母は口元をわずかに綻ばせて微かな笑みを浮かべた。それから大きく息を吐くと、為すべきことは全て終えたというように静かに目を閉じた。
「先生!」
看護師の切羽詰まった声。心電図モニターの脈拍が平坦になっている。
「君、離れて!」
医者に言われて握り締めていた手を放し、ベッドから遠ざかる日乃出。祖母の周りで忙しそうに動き回る医師と看護師。どれだけの時が経過しただろう。やがてその動きが止まると、低く重苦しい声が日乃出の耳に聞こえてきた。
「十月二日午後六時三分、お亡くなりになりました」
その言葉はまるで夢の中から聞こえてくるように思われた。あまりに突然だった。昨日までは死の影とは全く無縁だったはずの祖母。それが今はもう生きていないと宣告されたのだ。現実とは思えなかった。とてもすぐには受け入れられなかった。
「婆ちゃん……」
日乃出はつぶやいた。祖母は目を閉じたまま返事をしない。まるで眠っているようだ。
「婆ちゃん、婆ちゃん、婆ちゃん」
呼び掛け続ける日乃出。それは祖母へではなく自分への呼び掛けだった。もう祖母が生きてはいないことを自分自身へわからせるために呼び掛けているのだ。
「婆ちゃーんっ!」
「はっ!」
日乃出が目を開けると目の前には見慣れた天井があった。寝汗をかいている。日乃出は寝たまま汗をぬぐった。
「またあの夢か。もう8年以上も前の話だっていうのに、眠っていると浮かび上がって来やがる」
カーテンのない窓からは弱い曙光が差し込んでいる。そろそろ夜が明ける時間のようだ。
まだ覚め切っていないぼんやりとした頭で、日乃出は思い出していた。あの事故が起きるまでの自分。そして事故が起きてからの自分。良くも悪くもあの出来事が日乃出の人生にとって大きな転機になったのは間違いなかった。
平凡な暮らしだった。晩婚の両親はなかなか子宝に恵まれず、40近くになってようやく日乃出が生まれたのだ。その時には祖母は既に60を過ぎ、ずっと勤めていた小学校の教師の職を定年で退職していた。祖父は既に亡く、婿養子で会社員の父と専業主婦の母との4人での生活が始まった。
元教師ということもあり祖母は躾にはうるさかった。言葉遣い、行儀作法、事あるごとに小言を聞かされながらも日乃出は祖母が好きだった。その言動の端々に孫を思う愛情を感じたからだ。
叱る時は厳めしい顔をしていても、褒める時にはこれ以上ないほどの笑顔を見せてくれる。何を言われても反発を感じず素直に従えたのは、誰にでも愛される祖母の人柄ゆえであったのだ。日乃出はすっかりお婆ちゃんっ子になっていた。
両親と祖母の愛を一身に受けて何不自由ない生活の日乃出ではあったが、唯一不満に感じることがあった。老朽化した家だ。戦後すぐに建てられた平屋は外観も内装もひどく見すぼらしいものだった。
幼い時は殊更意識していなくても、小学、中学と上がって同級生の家を訪ねたり、テレビや映画で家庭内のシーンを見たりするうちに、自分の住んでいる空間が如何に時代遅れであるかがわかってきたのだ。
「そうまで言うなら少し手を入れるか」
高校生になった日乃出の意見を聞いて、父はリフォームを決意した。ちょうど町の下水化計画が明四津家の地域にも適用され、浄化槽を下水管へ交換する必要が生じていた。そのついでに台所、便所、風呂の水回りと、外壁、屋根などの外観をリフォームすることにしたのである。
「ああ、これは綺麗になったねえ」
祖母も母も大喜びである。しかし日乃出は納得していなかった。六畳一間の自室は依然として畳敷きの和室。収納は押入れ。建て付けが悪く開け閉めする度にガタピシと音をたてる襖。内装には全く手を付けてくれなかったからだ。
青春アニメでよく見かけるカーペットの敷かれた洋間、いつでも寝転べるベッド、オシャレな洋服で一杯のクローゼットという空間とは雲泥の差の自分の部屋。
「家を出よう」
日乃出は猛勉強を開始した。都会の大学へ進学して一人暮らしを始めるのだ。そうすればこの貧相な空間から、時代遅れの家から逃れられる。男同士の熱い友情も女子との甘い恋愛も、一切無縁の高校3年間を過ごしたおかげで日乃出の望みは叶えられた。希望通りの大学に合格したのだ。
家を出る日、見送る祖母も両親もさすがに元気がないように見えた。日乃出自身も少々胸は痛んだが、新しい生活への期待の方が大きかった。選んだアパートは新築で日乃出が最初の入居者だった。真新しい内装と清潔感が漂う設備。思い描いた通りの自室の風景を見て、これまでの苦労が報われる思いがした。
ただ、それも長くは続かなかった。日が経つにつれ日乃出の心の中には寂しさが募り始めたのだ。
「初めての一人暮らしなら当たり前だ。そのうち何とも思わなくなるだろう」
見知らぬ土地と慣れない都会暮らし。軽いホームシックなどよくあること。住めば都の諺通り、この生活に馴染んでしまえば寂しさを感じることもなくなるはず、そんな日乃出の甘い見通しは夏休みの頃にはすっかり打ち砕かれていた。
日乃出は人付き合いが苦手だった。小学校の頃から親友と呼べるような友人は持ったことがない。中学も高校も休憩時間は一人で過ごし、昼食の弁当も一人で食べ、必要最低限の言葉以外は発しないようにしていた。当然、大学でもサークル活動には参加せず、積極的に友人を作ろうともせず、コンパの誘いにも乗らず、バイトもせず、キャンパスとアパートを往復するだけの日々である。
孤独には強いつもりだった。一人の寂しさには平気なはずだった。しかしそれは違ったのだ。実家で生活している時には、外でどれほど孤立していても帰宅すれば祖母がいた、母がいた、父がいた。見た目はボロボロでも自分を温かく迎えてくれる家があった。
けれども今は違う。見た目は美しいアパートの部屋は自分を歓迎していない。そこには無機質で寒々とした空間が広がっているだけなのだ。
「まるでコンクリートの檻に入れられた動物みたいだな」
家を出たのは間違いだったと日乃出は思った。卒業したら地元で就職しよう。働いて金を貯めて自分の好きなようにあの家をリフォームしよう。今度はそんな考えを抱いて大学生活を送る日々。四年生になり就職活動が始まると、地元に本社や支社のある会社を片っ端から訪問した。
だが時期が悪かった。バブル崩壊後の就職氷河期が続いていた上に、前年末にアメリカで発生したサブプライム住宅ローン危機の影響で、どの会社からも色よい返事を貰えなかった。地元での就職を強く希望したことも会社側の心証を害したのだろう。就職活動は全滅だった。
落胆する日乃出。しかし捨てる神あれば拾う神あり。滑り止めのつもりで受けておいた地方公務員試験に合格したのである。内定は出ていないが地方公務員の場合は合格イコール採用と考えてよい。しかも余程の僻地への勤務でなければ自宅からの通勤が可能である。
日乃出は安堵するとともに大いに喜んだ。働き場所が決まったことよりも、再びあの家で暮らせる喜びの方が遥かに大きかった。
「あとは卒論を仕上げて無事に卒業できれば万々歳だ」
日乃出の行く手はバラ色だった。もう何の不安もなかった。そしてそんな時にこそ思わぬ悲劇がやって来るのである。
祖母は季節の節目に行楽地へ出掛けるのが好きだった。春のお花見、夏の高原、秋の紅葉狩り、冬の雪景色。その日も父の運転する車で行き慣れた山へ向かっていた。そこで事故に遭ったのだ。
警察から連絡が入り、日乃出が急いで病院に駆け付けた時には両親は亡くなっていた。祖母もまた意識を失って生死の境をさまよっていたが、日乃出が声を掛けるとそれを待っていたかのように目を開け、声を発し、最後の言葉を伝え、そして逝ってしまった。
日乃出が受けた衝撃は並大抵のものではなかった。この世にたった一人取り残されたような孤独感。それは初めて一人暮らしを始めた時の数十倍の大きさとなって日乃出を襲った。母は一人娘だったため、母方にはおばもおじもいとこもいない。父には兄弟がいるが実家が遠方にあるため親戚付き合いはこれまでまったくしてこなかった。実際、葬式に来てくれた父方の親類は父の母ひとりだけだった。文字通り、天涯孤独と言ってよい状態にいきなり突き落とされたのである。
日乃出に残されたのはこれまでほとんどの年月を共に暮らしてきたボロ屋と、祖母が最後に言った「どうかあの家を、明四津家を、未来永劫守り通してくれないかい」という言葉だけだった。
卒論を書きながら日乃出は自問自答を繰り返した。家を守る、明四津家を守る、そのために何をすればよいのだろう。自分に何ができるのだろう。このまま公務員になって祖母の願いを叶えられるのだろうか……
「そうだ、オレは婆ちゃんに約束したんだ。家を守ると。それこそが生涯を懸けてオレがやらなきゃいけない使命、オレに与えられた天命なんだ」
日乃出は決心した。公務員の採用を断り自宅警備員になる、それが祖母の願いを叶える唯一の道だと確信したのである。もちろん、就職担当の教員は日乃出の申し出を聞いて翻意を試みた。
「明四津君、そう性急に結論を出すものではあるまい。公務員として働きながら家を守るという選択肢もあるだろう」
「いえ、それは不可能です。残業はほとんどなく、有給は自由に取得でき、カレンダー通りにきっちり休日があり、夏季や年末年始など充実した休暇制度があるお役所仕事といっても、労働を提供する以上、家は単なる休息の場となってしまうはずです。寝て食事をするだけの場所と化してしまっては家を守っているとは言えません」
「それなら嫁を貰えばいいのではないかな。公務員なのだし、選り好みさえしなければすぐに見つかるだろう」
「そんな不確かな賭けはできません。それに私はこれまで彼女を持ったことが一度もないのです。すぐに結婚できるとは思えません」
「いや、しかし、せっかく合格したのに……勿体ないとは思わないのかね」
「祖母の願いを叶えることこそが私の使命。勿体ないかどうかなど関係ありません」
「そうかね。ならば好きにしたまえ」
あまりにも頑なな姿勢に担当教員も匙を投げてしまった。だが日乃出は満足だった。自分の選んだ道に一片の疑いも差し挟まなかった。
無事に大学を卒業し地元に戻って来た日乃出は、葬式以来数カ月ぶりに足を踏み入れた我が家を見回した。薄汚れた壁、擦り切れた畳、染みのある襖。あれほど嫌っていた貧相な家が今は心の底から愛おしく感じられる。今日からここが自分の住処。心と体を寛がせる空間。同時に全身全霊を尽くして己を捧げる労働の場となるのだ。
「婆ちゃん、見ていてくれ。オレは立派にこの家を守り抜いてみせる。日本一の、いや世界一の自宅警備員に、オレはなるっ!」
にえたぎるような熱い闘志が体の底から沸き上がって来るのを日乃出は感じていた。無収入で暮らしていくことに不安が無いとは言えない。しかし収入があるからと言って完全に安心だとも言えないのだ。ならば開き直って無収入に徹しよう、それが日乃出の結論だった。
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