第30話 ラッキーという女 2

 ……え?

 チハルは首を傾げた。今なんと言ったのだろう。この家に入る時に表札をちらと見たが、そんなに珍しい苗字ではなかった気がする。それとも、ニックネームか何かだろうか。

 チハルが怪訝そうな顔をしているのを見て、サカグチは「ああ、すみません」と謝った。


「ラッキーさんというのは彼女のハンドルネームです。掲示板やフォーラムなんかで使っている……。我々は投資仲間なんですよ」

「投資仲間……ですか」


 その言葉に一層胸がざわついた。投資を趣味にしている人たちが集うオフ会の話を、鹿野から聞いたことがある。火事が起きた直後には、彼が仲間内の誰かから恨みを買っていたのでは、と思ったこともあった。


「その投資仲間の中に、もしかして鹿野さんという方がいましたか?」


 チハルが尋ねると、サカグチは静かに頷いた。


「はい。彼は『バンビ』と名乗っています。あのアパートのことは、彼がオフ会の時に話していたので知りました」

「なるほど……鹿野さんはどんな風に話されたんでしょうか」

「去年お父さんが亡くなったと言っていました。それで、アパートをいくつか相続したと。その中にものすごく古いアパートがあって、ほとんどの部屋が空室になったままだと聞きました」

「それで忍び込もうと思ったんですか? それだけの情報でよく探し出せましたね」


 なんて身勝手な――チハルは顔が強張ってしまうのをなんとか堪えていたが、どうしても言葉の端々に怒りが籠ってしまう。

 『客がどんなに理不尽なことを言っていても、こっちは絶対に冷静でいなくちゃいけないよ。けんかの仲裁に入るなら、中立の立場でいなくちゃならない。一緒に怒ってしまったら、何も見えなくなるからね』――黒磯が常々言っていることだ。まったく彼の言う通りだということが、最近になってチハルにも少しだけ分かってきた。


「アパートの場所はネットの情報で調べがつきました。あれだけ古いアパートは貴重らしくて、マニアがそういう建物ばかりを集めたサイトを作っているんです。あとは法務局に行って、登記簿を閲覧して持ち主を確認しました」


 チハルは眉を顰めた。現代はコンピューターでなんでも調べられる時代だが、登記簿の閲覧を一般人が知っているのには驚いた。自分がこの業界にいなかったら絶対に知らなかったことだ。


「で、部屋に潜んでいたのは、あちらの女性――ラッキーさんと言いましたっけ。彼女ひとりですか? サカグチさんは?」


 いやいや、と焦ったように彼は首を振った。


「私はただ彼女の相談に乗っていただけです。私には家庭がありますので」

「部屋の鍵が交換されていたようですが、それはあなたが?」

「はい、私です。日曜大工が趣味なもので」


 そうですか、と言ってチハルはひとつ深呼吸した。尋問しているようで自分でも不快になる。火事の時にいろいろ尋ねてきた消防や警察も、こんな気持ちだったのだろうか。


「何か事情がありそうですね。それもすべてお聞かせいただけるんでしょうか」

 サカグチが顔を上げた。そこへちょうど、隣の部屋からラッキーが戻ってきた。

「あなた、不動産屋の方?」


 そうです、とチハルは頷いた。「やっぱりね」と言いながらラッキーは椅子に座った。


「そうじゃないかとサカグチさんと話してたのよ。アパートの近くで何度か見掛けたわ」

「鹿野荘を管理しております、七福不動産の瀧川と申します」


 ぺこり、とチハルは律儀に頭を下げた。サカグチがテーブルの上に身を乗り出した。


「瀧川さん、ラッキーさんを責めないでやってください。さっきも言ったように、彼女は被害者でもあるんです。あの部屋はラッキーさんにとって唯一の慰みでした。それに、楽しみにしていたデイトレも、ノートパソコンが焼けてできなくなってしまって」

「パソコンが焼けてしまったことはお気の毒に思います。ですが、そもそもどうしてあの部屋に潜んでいたんでしょう。他人の所有する建物に勝手に忍び込んだら、住居侵入罪に当たりますよ?」

「それは分かります。分かってはいましたが――」


 サカグチは口をつぐんで下を向いてしまった。その寂しい頭頂部をチハルはじっと睨みつけた。潜伏していたのはラッキーひとりのはずなのに、どうして彼が言い訳をするのか。これほどまでに肩を持つのは、よそに家庭を持っているというサカグチとラッキーが、不倫関係にあるということだろうか。

 鼻をすするような音がして、チハルとサカグチは同時にラッキーを見た。彼女は目に大粒の涙を溜めていたが、いよいよ堪えきれなくなってエプロンで顔を覆った。


「本当にすみません……。私が全部いけないんです。私が弱かったために、いろんな人に迷惑をかけてしまいました」

「……わけを話していただけますか?」


 チハルはできるだけ優しく問い掛けた。こくり、と頷いてラッキーは顔を上げ、静かに語り始めた。


「鹿野荘の話をバンビさんから聞いたのは、半年くらい前の話です。確か、アパートを八棟と、駐車場を五つ、その他に地方にある商業用ビル――というんですか? それを一気に相続したと言っていました。最初はどこか遠い世界のお金持ちの話として聞いていたんですが、バンビさんが『物件を一度も見ていない』と言うのを聞いて、気持ちが揺らぎました」

「と、おっしゃいますと?」

「はい。……そんなにたくさんの空き部屋があるなら、そのうちのどれかひとつに自分が住んでも分からないんじゃないか、って」


 がたっ、と大きな音が響いて、ラッキーとサカグチは弾かれたように顔を上げた。チハルは思わず立ち上がっていた。固く握った拳は震え、心臓はばかみたいにがなり立てている。そんな勝手な料簡がまかり通るものか。他人と自分の所有物を区別できないなんて、赤ん坊と同じじゃないか。

 仁王立ちするチハルを見上げながら、ラッキーは両手で口元を押さえてがたがたと震えた。


「だって、だって、私どうしてもひとりになりたくて――」

「だからといって、人のアパートに勝手に入っていいということにはなりません」

「もう限界だったんです……! 静かな環境でゆっくりしたかった! ……私はこんなに苦労してるのに、バンビさんはたいして面倒も見なかったお父さんから不労所得を貰ったんです。ひと部屋くらい、使わせてくれたっていいでしょう!?」

「それで鹿野さんを逆恨みして、アパートに火をつけたんですか?」


 ラッキーは顔を上げて、きっ、とチハルを睨みつけた。


「それは違います。火事のことは私は知らない! 一切無関係なんです。確かに死にたい気持ちはあったけど、火をつけるなんて、そんな……そんな……!」


 テーブルに突っ伏して、ラッキーはさめざめと泣きだした。その頭頂部をよく見れば、白髪がだいぶ目立っている。髪も女にしては薄いし、指先はぼろぼろに荒れている。

 チハルは一気に疲労を感じて腰を下ろした。ラッキーを見ていると、『心神耗弱』という言葉が頭に浮かぶ。介護に疲れきった人が正常な判断力を失うのはよくあることだ。


「……辛かったんです。たったひとりで毎日毎日母親の世話に追われて、誰にも相談できなくて。あんなに大好きだった母に対して、死んでもらいたいと思ったことも一度や二度じゃありません。……正直、今だって――」


 チハルはラッキーの手を握った。


「それは言わないであげてください」


 しかしラッキーは突然カッと目を見開き、チハルの手を振りほどいた。


「あなたみたいに若い子に何が分かるっていうの!? どうせ聞きかじりの同情でしょう? 感動的に仕上げたドキュメンタリーやドラマとは違うのよ!?」


 とそこへ、例の金属音が隣の部屋から鳴り響いた。ラッキーは、はっとして急いで立ち上がった。


「はーい、ちょっと待ってねー」


 彼女はエプロンで涙を拭いながら駆けていった。今度はチハルもその後ろ姿を追いかける。

 和室の入り口から覗いてみると、棚のあいだからベッドが見えた。布団の中に埋もれていた老人が、もぞもぞと動いていた。


「どうしたの。どこか行きたいの?」


 ラッキーはもがく母の身体を支え、抱きしめてやり、背中をさすった。老人は立ち上がろうとしているのだろうか。しかしその身体はふらふらしていて、とても自力で支えられるようには見えない。

 老人はもごもごと何かを言った。チハルには聞き取れなかったが、ラッキーには分かるようだ。


「え? トイレ? お母さんしばらくトイレではしてないじゃない。できる? するの?」


 ちょっと待ってね、と言って、部屋の隅に置いてあったポータブルトイレをベッドの際に寄せた。ラッキーは母親の脇と膝の下に手を差し込んだ。母親の身体が持ち上がりかけたが、「あっ」とラッキーが小さく叫び声をあげるとともに、バランスを失った。


「危ない!」


 チハルは思わず勢いよく飛び出していた。体勢を低くして、ラッキーの身体ごとふたりを支える。その拍子にベッドの柵に肘を強かに打ち付けたが、すんでのところでふたりが転ぶのは回避したようだ。


「ああ、びっくりした」

「あ、ありがとう……あなた、けがはない?」

「大丈夫です。ラッキーさん、もしかして腰痛めました?」

「ううん、大丈夫よ」


 安心して老人を見ると、きょとん、とした目つきでチハルを見ている。


「こんばんは。ホームから来た介護職員です。今日もお元気そうですね」


 チハルはにっこりと笑い掛けた。スーツを着た介護職員なんてどうかと思うが、この際よしとしよう。ラッキーの母は、こんにちは、とようやく聞き取れる声で返してきた。ラッキーをスプーンで呼びつけているのは、あまり大きな声が出ないせいもあるかもしれない。


「そうだ、お母さんトイレだったよね。もう出ちゃったかな」


 さっきと同じようにラッキーが母の身体を持ち上げようとした。が、やはりふらついていて危なっかしい。よく見れば彼女は、肩も腕も脚も異様なほどにやせ細っている。チハルはラッキーの肩に手を置いた。


「私にやらせていただけませんか?」


 でも、とラッキーは戸惑いを見せたが、さっきのことを思い出したのか「お願いします」と頷いた。


「お母さん、職員さんがやってくれるからねー」


 ラッキーが渡した手袋を装着し、チハルは老人の身体をゆっくりと抱き上げた。抜け殻のように軽い。ポータブルトイレの便座に下ろして、おむつのテープを剥がして引き抜いた。が、中心部分はあたたかかった。もう出てしまったんじゃないだろうか。

 しばらく待ってみたが、やはり何も出なかった。再び老人をベッドへと戻し新しいおむつを宛てた。電気を消すと老人はまもなく寝息を立て始めた。


「あなた、介護の仕事をしたことがあるの?」


 ダイニングに戻ってラッキーが尋ねた。チハルの目の前には、たった今入れたばかりのあたたかいココアが置かれている。


「私にも認知症の祖母がいるんです。家で介護をしています」


 ラッキーは眉根を寄せて申し訳なさそうな顔をした。


「そうなの。さっきはごめんなさい。あんなことを言って」


 チハルは首を振った。


「私は日中仕事で家を空けていられますが、ずっと一緒じゃ息が詰まると思います。母も最初は育ててもらった恩返しだと言って張り切っていました。でも、ストレスで具合が悪くなってからはデイサービスやヘルパーさんを頼るようになりました。……それでいいと思うんです。母はいつも言っています。お母さんはもう分からなくなってしまったけど、きっと私が苦しむ姿は見たくないはずだ、って。娘が辛い目に遭うことを望む親なんていないでしょう?」

「そうね」とラッキーはため息を吐く。「私もできることならそうしたいわ。介護保険サービスも毎月ほとんど使ってなくてもったいないと思うんだけど」

「限度額まで使ってないんですか?」

「母はどうしても家がいい、私がいいって言うの。ごくたまにどうしても外せない用事があるときだけ、ショートステイやヘルパーさんを頼むこともあるわ。だけど、気に入らないらしくて後で大騒ぎするのよ。兄も奥さんの言いなりで、離婚して戻ってきた私に冷たくてね。子供がいないんだから、せめて母の面倒を見るべきだって。でも、でもね……」ラッキーは唇を震わせた。「私には私の生活があるの。私だって、まだやりたいことが山ほどある。幸せになりなさい、って言ってくれたはずなのに、どうして……どうして縛りつけるの……?」


 ラッキーはぼろぼろと涙を流した。肩を震わせて、嗚咽まで上げて。断続的に泣いているせいで、彼女の白い頬は赤く腫れている。それを見ていたチハルも、堪え切れずに涙を零した。


「泣いてくれるの……?」


 ラッキーは目を潤ませたまま尋ねたが、チハルは首を振った。


「あなたのためじゃありません」


 眉根を寄せて、ラッキーは首を傾げる。チハルは頬を指で拭って続けた。


「子供はいくつになっても子供なんだって母は言います。でも、認知症になってしまったら、そうやって愛情をかけて自分の子を育ててきたことも忘れてしまう。母親がそうなった時、かつて母が私を愛してくれたように、私は母を愛することができるのでしょうか? 私もいつか、ラッキーさんのように母を疎んじるようになるのかと思うと悲しいんです」


 ラッキーは大きく目を見開いて、チハルの顔を見た。

 チハルは目を逸らさなかった。逸らしちゃいけないと思った。このままでは、いつかラッキーが母親の首に手を掛けてしまうかもしれない。彼女の献身的な介護と、追い詰められた精神状態を見て、逆に不安が募った。介護は孤独なものだ。ましてや、ラッキーのように頼れる人もいないとなれば。


「……あなたの言いたいことはなんとなく分かったわ。私――」


 ラッキーが言い掛けた時、ガシャーン! と耳をつんざく音がして一同は肩を震わせた。窓ガラスが割れたような音だ。一体どこからだろう。三人は腰を浮かせて顔を見合わせた。


「俺が見てくる」


 サカグチが立ち上がった。さっきよりも小さな、ガラスを割るような音が引き続き聞こえてくる。ダイニングと和室とを隔てる廊下の方からだ。ラッキーとチハルは固まって身体を支え合った。ラッキーの方が痩せて小柄なので、自然とチハルが守るような形になった。


「だっ、大丈夫ですよ。きっといたずらか何かです」


 チハルは励ましたが、ラッキーは震えて声も出ないようだ。用心のため、手近にあったモップの柄を掴んで彼女に押し付けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る