わびぬれば

領家るる

わびぬれば

『 主さまへ



 主さまや

  梅ノ井は主さまに愛して頂いて、幸せでした。


  幸せで 



幸せで 




  来る朝を呪い



  大門を潜る主さまのお姿を見送るのが


辛く


苦しく


苦しくて


仕方がありませんでした。



 わびぬれど、わびぬれば、この思いは募り

 

 一人で居ては主さまへの思いが溢れて溺れるほど愛しく


しかしそれは窒息するほどに苦しく、



 他の客を取って気を紛らわしたとて、違う腕に抱かれる夜は辛く、



  尚も苦しく、



 梅ノ井はもう、とうに、仮初めの夫婦ではいられなくなってござんした。







  主さまも気づいてござんしょ?



あの日、床に着かずに火鉢に当たって過ごした夜から

主さまはわっちを一度も抱かず



触れず


愛さず 


そんな日々




ーーーーーただどうしてか、 それでも尚も通ってくださって、


どの花にも目をやらずにわっちの手を引いて部屋に上がってくださるもの

だから、



いつかまたあの頃のように仮初めの夫婦の契りを交わせるのかと、



熱く、

深く、

愛してくださるのかと、

期待して



張見世の格子から主さまのお姿を見つけるたびにこの胸は熱く高鳴り






終ぞそれは叶いませんでした。







主さま



待ち身というのは辛く、苦しいのです


あの浜松湖に立つ澪つくしのように


いつまでも帰らぬ船を待つことはできませぬ。





せめて最後に歩いた思案橋のその下りで、


愛しき日々を胸に沈みます。






 某年 梅ノ井   』






 小波が囁く湖のほとりはしんと静まり、誠二郎の息せき切る呻りだけが辺り

に響いた。月がぽっかり浮かぶ、睦月半ばの引け四つ。雲が落ちたような白い

息が、風に流れて消えていく。

 堀留川の中流に構える店から思案橋を駆けた時には、店に迷う役人たちを照

らす提灯があんなに明るかったというのに、川沿いを走ってこの浜名湖に近づ

くにつれ、灯りは減りついには星明かりのみが湖面を照らすようになってい

た。海と間違うほどに広い浜名湖を周回し、船着き場を通り過ぎたところで湖

面に立つ影を見つけた。まさかと思い湖の畔まで駆け下りていったとき、それ

が地平線に突き立てたように起立する澪つくしだと気づいた。まるで誠二郎を

おびき出す為の目印にも見えた。足下には、梅ノ井が脱ぎ捨てたと思わしき草

履が並んでいる。湖岸の水辺の際で、あと少しで水に濡れるというところ。次

なる一歩は俗世を脱ぎ捨てる覚悟で踏み込んだに違いない。誠二郎への愛だけ

を、まるで我が子のように優しく慈しみながら抱いて、この湖の沖へと向かっ

ていったのだろう。


 梅ノ井は花魁にしておくにはあまりに優しい女だった。誠二郎にわざわざ文

を届けに来た禿 ーー名を、より葉というーーも、他の新造も、楼主でさえ、

梅ノ井を慕っていた。何よりも俗世というものをよく理解している女で、誠二

郎に婿入りの話が来ていることを知ってもそれを問い詰めることも、嫌みを乗

せて軽口を叩くこともしなかった。『仮初め』の夫婦ということをよく理解

し、嫁として男の後ろに控えていた。その距離感が心地よくて、誠二郎はずっ

と甘えてしまっていた。

 だから梅ノ井の思いに気づけなかった。一滴ずつ溜まる侘しさという「毒」

に気づかなかったのだ。愛されたいと願う思い、それはこの郭では毒なのだ。

性病よりも恐ろしい破滅をもたらす毒。だから誰も口にしないというのに。



「・・・・・・くそ、」


 誰も口にしないことを、なぜ自分に伝えたのか。




「畜生、梅ノ井のやつふざけやがって・・・・・・!」


 誠二郎は肩を振るわせる。他人事のように立つ澪つくしの陰が水面で揺れて

いる。それが無性に腹立だしかった。


(こっちは、ようやく手に入れた縁談だったんだぞ・・・・・・! 次男坊がどんだ

け苦労してっか知ってるくせにあのクソ女郎、わざわざ禿まで寄越しやがって

・・・・・・! 明日にも結納だって時にわざわざこんな文を寄越(よこ)して死ぬ

ことあるかよ・・・・・・!)


 実に業腹だった。腹の底で燃え上がる業火が体中の水分すべてを沸騰させる

ようだ。誠二郎はわなわなと震える体から今まさに咆吼するように口を開けて

息を吸い込む。すると、喉が随分と潤んでいることに気づいた。燃え上がる身

を急激に冷ます外気を飲み込むと、何も発せずに奥歯を食い締めた。


変だこんなの。動悸が止まない。


息づかいが荒いのは、先ほど走ってきたことだけが理由ではなかった。頭がぐ

らぐらして、俯く。



「ちくしょう・・・・・・っ!」



 何度も反すうした言葉がさらに口をつく。誠二郎はあの澪つくしを睨み付け

た。これでもかと目を細めて睨んでも、視界が滲んで焦点が合わなかった。



「泣くな、ちくしょう・・・・・・っ!」



 大粒の滴が一つ、梅ノ井の草履を濡らした。





 (これがこの町の、遊びじゃねぇか)



(惚れた方が負けだって、誰だって知ってんじゃねぇかよ)




 



 いつの日からか、梅ノ井の顔が見られなくなった。

床に背を向け火鉢に当たる自分の背後で、帯を解く衣擦れの音を聞くたびに頭

がカッと熱くなり、当然のように夫婦を気取る梅ノ井に腹を立てることがあっ

た。そしてそれがなぜだか分からなかった。

 何もせずとも朝は来て、裏口から馴染みとともに大門へ向かうその時も、は

しゃぐ同僚をよそに気分は優れなかった。大門から見送る梅ノ井の存在を無視

し、悶々と悩みながら帰る昼。そして再び遊郭に通う夜、同じ道を通うからこ

そ当たり前に姿を現す思案橋。





『行こうか旅籠町 帰ろうか、うちえ ここが思案の思案橋』





 橋の中腹で足を止めた誠二郎の背を押した同僚が、そんな歌を歌いながら連

れ出してくれた。「上手いこと言うな!」とすれ違う町人に冷やかされ、唇を

噛んだのを覚えている。

 見立番付に掲載されたことで、江戸~東海道経由の旅路はニーズを問わず流

行となった。浜松の旅籠町辺りは郭遊びも盛んな一角で、思案橋はいつも郭の

客が行き交っていた。歌の内容に同調する多くの輩にとってその内容は、もっ

ぱら高級な店か安上がりな旅宿の飯盛女かの選択でしかなかったが、誠二郎に

とっては表現そのままだった。


 今日で止めるか、まだ行くか


 婿入り次男坊の誠二郎、だなんてすぐに広まる話だ。婿入りしたら嫁の顔を

立てて郭通いは控えることになるだろう。梅ノ井にはきちんと説明してや、切

り出すことが出来なかったのは遊びの範疇を超えて惚れ込んでいたからじゃな

いのか。

「なんで、言ってやらなかったんだ・・・・・・」

 梅ノ井は愛が冷めたと勘違いしたのかもしれない。もしくは、楼主から聞い

てお役御免と思っただろうか? どちらにせよ、こんなことをさせる前に出来

たことはあったはずで、後悔先に立たずとはこのことだ。誠二郎は膝をつき、

梅ノ井の草履を握った。滅多に外に出なかった遊女の草履は真新しいかのよう

に固かった。いくら涙が落ちてもふやけない。静かに立つ澪つくしが墓石のよ

うに誠二郎を見下ろしていた。





**




『わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむと思うふ』




 最後に二人で過ごした夜、梅ノ井が詠んだ歌が聞こえた気がした。一行に振

り向かない誠二郎の背に頬を添えて寄り添い、それだけ告げた後におやすみな

さいと囁いて彼女は寝付いた。なぜだか誠二郎は火鉢にそっと涙を落としてい

た。それは自分の心中を察して詠んだのだろうか? そんな訳はなかった。婿

入りの話は彼女にしなかった。ならば誠二郎に歌を経て伝えたいことがあった

のだろう。今思えば、悲痛の叫びだったのか。

 その歌が小波に紛れてなぜ、届くのか。顔の粘膜も鼻の頭も真っ赤に染めた

面を持ち上げると、黙って立っている筈の澪つくしが揺らめいた気がした。


「・・・・・・、梅ノ井?」


 細長い影がぼやけ、それは確かに女の影に見えた。水面に落ちる影が揺れて

長い黒髪を思わせ、静かにこちらを眺めている。誠二郎は草履をつかんだまま

身を乗り出し、ばしゃりと音を立てて湖に駆け込んでいった。


「梅ノ井!!」


 梅ノ井に近づくにつれて水深が増してくる。水は冷たくてかじかんで、途中

から足の感覚もなくなった。水を吸って重たい着物を振り乱し、けれど瞼は愛

しい女だけを見ていた。




 梅ノ井、梅ノ井、



 なんで一人で死んじまうんだ

 どうせ二人で居られない世なら、



 二人で逃げ出したって良かったのに






 真っ黒な影が月に照らされて、その口許だけ映えていた。何かつぶやくよう

に開いた唇に瞼を持っていかれ、あの甘い声で「主さん」と呼ばれるんじゃな

いかと期待して答えるように手を伸ばし、あと少しで梅ノ井を掴めると思っ

た。


 だがそのとき、ずるりと足を持っていかれ、誠二郎は湖面に倒れ込むことに

なった。ばしゃりと音を立てて腕を振るい、掴めるものを探す。しかし冷たい

水を掴んでも泡となって消えていく。悲鳴を上げかけてそれも気泡となって湖

面に上がっていった。



 真っ暗な水の中、あと少しで掴めるところにいた筈の梅ノ井の姿が無い。し

かし、一寸先に広がる真っ暗な闇を見て、誠二郎は背筋が凍った。それはまる

で湖面を覆い尽くす黒髪の様で、その闇に呑まれては二度と水面に上がってこ

れぬと思った。


 慌てて腕を振るって足を付こうとするが、ずるりとまた滑りゆく。



 何かが足に絡まるような気配を感じて、誠二郎はとにかく両足を振りまくっ

て暴れた。すれば足は浮いて腰が沈む。どんどん闇に呑まれていく恐ろしさに

悲鳴が漏れ、自分の体から抜けていく気泡と魂の区別も付かぬ光景を目にしな

がら、最後の力を振り絞って両手を掻き出し、水面から体を引き出した。

 左手が何かに振れ、誠二郎はとにかくそれに捕まった。捕まってよじ登り、

次には足場を見つけて体を起こし、水面から這い上がることが出来た。それは

茶柱の様に湖面に起立するあの澪つくしだった。


「はぁ、・・・・・・、あ・・・・・・? なんで・・・・・・?」



 はじめから幻だったのだろうか? 人の気も知らずに傍観していた澪つくし

に抱きつきながら、収まらない動悸と鼓動の早さに胸をひたすら打たれつつ、

誠二郎は朦朧と地平線を見ていた。まだ世が開けない。水面は波紋を生んで揺

蕩っている。どこにも梅ノ井の姿はなかった。



「・・・・・・、狐に化かされたわけじゃねぇだろうに、・・・・・・俺は何やってんだ・・

・・・・」


 

 幻想に踊らされたのか、それとも、



「それとも、死んでやれなかったから、愛想尽かしてあの世に帰っちまったの

かい・・・・・・」



 二人で逃げてやっても良かったと思えた一瞬のあの恋情は、梅ノ井が抱いた

愛しさよりも弱かったのか。

 今、自分は生きたいと願ってしまった。あの世に連れて行かれる恐怖から、

逃げてしまったのだから。



 情けなさでいっそ死にたい。けれど、死ねなかった。死ぬ度胸なんてなかっ

た。




 誠二郎は澪つくしに抱きついたままボロボロと涙を零し、どうにもならない

己の情けなさにひたすら泣いた。泣いて泣いて、赤子の様なその泣き声はいつ

までも浜名湖に響いていた。







***






 わんわん泣いて泣いて声も枯れた頃、冷え切った誠二郎の体に触れるわずか

な温もりがあった。水を吸った着物の裾をクイクイと引かれ、見下ろすとそこ

には船に乗った禿がいた。梅ノ井の文を運んできた『より葉』だった。

 より葉が乗ってきた船によろよろと降り立ち、船の真ん中にへたり込む。す

るとより葉は船を漕ぎ始め、澪つくしから離れていった。


「なんで澪つくしに抱きついておるのや」


 素朴な疑問をぶつけられ、改めて何であったのだろうと思う。憔悴して白く

なった表情をより葉に向け、誠二郎は「梅ノ井がいたんだ」と枯れた声で答え

た。より葉は手を休めず船を進めながら、まっすぐな瞳で誠二郎を見ていた。



「あれは澪つくしじゃ」



 もっともな切り返しだった。それ以上に何にも見える筈が無い。


「だが、梅ノ井に見えたんだ。そんで走って行った。そしたら湖の中に引きず

り込まれて、地獄の底に連れて行かれそうになった・・・・・・」


「・・・・・・」


 より葉はじっと誠二郎を眺めていた。どう返したものかと考えているのか、

しばらくそうして船を漕いだ後に、フンと鼻を鳴らして憤りを見せた。

 

「ならば心中は出来ぬ男だったんだな。姐さんも不憫じゃの」


 誠二郎には返す言葉が無い。


「澪つくしっていうのは、船が無事に帰ってこれるように立てる目印のことじ

ゃ。深い溝から浅瀬にかかる段差の際に立つんじゃ。だから澪つくしは地獄の

入り口じゃ無(の)うて、帰る場所に作るものなんじゃ」

「・・・・・・帰る場所、?」

「この先、何ぞ姐さんを思う時、此処に来て思いだしなんし」



 誠二郎は振り返り、遠くなる澪つくしを目にとめた。景色に同化することな

く、きちんとそこに立っていた。


 梅ノ井が去った場所として、誠二郎の記憶の中で生きていくあの澪つくし

を、今後は献花台にするべきだろうか。梅ノ井はあの澪つくしをどんな思いで

通り過ぎたのだろう。


「・・・・・・それは良いとして、早う船から上がりまし」


 気づけば船着き場まで戻っていた。すでに桟橋に乗り上げたより葉がじっと

誠二郎を見下ろしている。誠二郎はふらりと身を起こして船から下りた。そし

て改めて辺りを見渡す。ここは先ほどの澪つくしとは反対側の湖畔だった。堀

留運河の商人たちが使う対岸の船着き場だった。



「早う、夜が明ける前に連れて行ってやるから、付いてきなんせ」

「ついて行くって、どこに」

「姐さんのところじゃ」

「!」



 誠二郎は息を吹き返したように顔を上げた。より葉の言葉の意味がよく分か

らない。


「姐さんは湖になんかおらんのじゃ」




 より葉に連れられて夜道を歩いているうちに、冷え切った体が生きる気力を

奪っていったのか、足取りが重かった。しかしそれは精神にものしかかる二重

の重さを持っている。より葉が向かっている「姐さんの所」というのが墓場で

あると道中で察したからだ。それは旅籠町を抜けた辺りで気づいた。

 遊女の死に様はどの地域でも無法地帯であるのは有名な話で、かの吉原でさ

えも投げ込み寺を構えている。御座に来るんだ遊女の死体を穴に投げ込んで済

ますのだ。墓を建てられる遊女などほぼ居ない。梅ノ井が務める郭一体を檀家

に持つ寺も同様だったが、比較的、通り沿いに位置していることから気配りの

為か”棺桶”を用意する方法をとっていた。通常『棺桶寺』と呼ばれており、

近郊の遊女の遺体は設置されている棺桶に放られる。まるでゴミ箱の様だと誰

かがあざ笑っていた。

 梅ノ井は水死体となって浜名湖を揺蕩っていたのだろうか。湖面に戻された

それを商人たちが引き上げてここに放ったのかもしれない。何にせよ、より葉

が認知しているということは梅ノ井の在籍していた店の楼主も認知していると

いうことだ。つまりは店の主人たちの墓の横に小さく石を積んで墓に見立て、

無縁仏は回避できるものの、風のように忘れ去られていくのだろう。とてもじ

ゃないが、向き合えなかった。罪人でもないのに遊女という生き物は何故こん

なに悲しいのか。そして、梅ノ井をそうしてしまったのが自分だと思うことが

耐えられなかった。


「せめて手を合わせてくれなんし」


 より葉に連れられて棺桶寺の門を潜り、寺の裏に広がる墓石の群れを抜けて

いくと、その先に棺桶が一つ見えた。見返り柳を連想させるしれりと垂れた柳

の下にぽつんと置いてある。誠二郎は一度足を止め、もう一歩踏み出すまでに

時間を要した。よたりと体を揺らして引きずるように近づいていき、棺桶の蓋

に手を掛け、しかしそれを開く前に膝から崩れ落ちて棺桶にもたれ掛かってし

まった。


「梅ノ井・・・・・・」


 情けない声だった。あんなに枯れるほど泣いたのにまだ涙が出て、もうそれ

以上は何も言えなかった。枯れた泣き声が静かに響く。



 そのとき、コツンと棺桶から音が聞こえた。

そして次の瞬間、棺桶の蓋が持ち上がった。



「・・・・・・主さんっ!」



 ゴトリと棺桶がずれ落ちて、中から顔を出した白装束の女は紛れもなく梅ノ

井だった。あの甘ったるい声で元気よく呼びかけ、つぶらな瞳が星空の様にき

らめいている。かたや誠二郎は大きく目を見開いて固まっていた。


「・・・・・・は?」


 情けない声が漏れた。


「主さんっ! は? じゃ無いのよ! 梅ノ井でござんす!」


 棺桶から身を乗り出した梅ノ井に抱きすくめられ、誠二郎は現状が正しく飲

み込めない。勢いを受け止めるように腕を回して背中を抱いてやると、確かに

温もりを感じた。自分が冷えているからよく分かる。互いに寒空の下にいたこ

とを差し引くと、生きている暖かさに違いない。


違いないけど、



「・・・・・・何で、生きてんだお前、・・・・・・」


「主さんの気持ちが知りたかったから、梅ノ井は芝居を打ちました」


「はぁ??」


「元々は、主さんが婿入りの話をだんまりしていたことが始まり。梅ノ井は騙

され続けていたんじゃ。このくらいは許してくれなんし」


「許し・・・・・・!?」


「主さん、」


 言いたいことが頭の中で大渋滞を起こしている。どこから聞いたら良いのか

収集が付かずに一つ一つ問い詰めてやろうとしたが、これ以上は梅ノ井の呼び

かけ一つで悟されてしまった。それを野暮と言うのだと、郭遊びをする者は知

っている。



「愛してるから、梅ノ井は全部捨ててきなんした。一度死なねば、あの郭から

死ぬまで出てはこれぬ。ただの女に戻り棺桶で待つ間、ずっと賭けておりまし

た。主さんが来てくれたら、わっちは此処で生まれ変われると。主さんと一緒

に生きる人生が始まると。わっちは喜んで良ござんすか?」



「ーーーーーー、言ってることが無茶苦茶だろうが、お前・・・・・・」


「だって、どうしようも無いもの」


 梅ノ井の黒髪が頬に触れる。柔らかで暖かいそれをとくのが好きだった。

 あんな冷たい水面に広がる闇ではないのだ。どうして間違えてしまったの

か。

 

 額が触れる暖かさに瞼を閉じ、降りてくる唇を迎えた。

 その甘さに夢中になった。




 それだけで後のことはどうでも良かった。


 









『わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむと思うふ』


解釈:”愛しているから、どうしようもないんです”


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