5:覚める夏の日(5-10)

 ポタリと涙が地面に落ちる音がして、秋人は漸く我に返った。


 はっと気が付くと、青年の姿は朝日に照らされた通路の何処にも見当たらない。

「……!」

 止められなかった。

 先程までの混乱が嘘のように冴えた頭が現実に追い付いて、地面に付いた両腕からがくりと力が抜けた。


 ――止められるはずがなかったのだ。最初から。

 彼はきっと、僕が弱くて、彼しか頼るもののない善人だと思ったから助けに来てくれたわけではない。仮に僕がもっと強くて、あからさまな悪人だったとしても恐らくは同じことだったのだ。

 目の前で誰かが落ちていくなら、自分が落ちることも構わずにその手を掴む。彼はそういう人だ。そういうことができてしまう人なのだと、ずっと、心の何処かでは分かっていた。

 けど、けれど――


 点々と、秋人の足元から校舎の裏まで続く血液の跡が、アスファルトに赤黒く足跡のような染みを作っている。


『大丈夫だから』


 ぐちゃぐちゃの身体を引き摺るようにして立ち上がる青年の姿が脳裏を過って、相も変わらず五月蝿く脈動する心臓は針で刺されるような痛みを覚えた。

 そんなのって、ない。バカバカしくて、不毛で、付き合っていられない。そんなことをしていたら、いつまでも自分だけが損をして擦り減っていくだけなのに。


 ――いつまでも、君だけが傷付いてしまうだけなのに。


「……っ……!」

 立ち上がろうと地面に付いた指に力を込めると、伸長した腕の筋にびきりと電流のような痺れが走る。呆気なくバランスを崩した上半身は前のめりに倒れ込んで、強かに地面に擦った肌がざらつくアスファルトの表面に触れた。

「は、……っう、……」

 冷たい通路に顔面を打ち付けて、乾いた唇から思わず力ない呻き声が漏れる。乾き切った口内に砂が入って、噛みしめた歯がジャリ、と嫌な音を立てた。

 折れた骨も、裂かれた肉も、体温を取り戻した身体は何処もかしこもじんじんと焼け付くように熱くて、痛かった。地面に付いた手をぎゅっと握り締めると、上腕から垂れてきた血液が掌と黒手袋の隙間へと流れ込むのが見える。

 ――もう一度。起こそうとした身体は、やはり呆気なく地面に崩れ落ちた。


 別に、諦めてしまったっていいじゃないか。

 再び朦朧としてきた頭の中で、聞き慣れた誰かの声が聞こえる。


 諦めてしまっても、鎧戸くんはきっと僕を責めないだろう。僕が何もしなくたって、彼は無事に帰ってくるかもしれないし、その内柊くんか春日江くんが助けにきてくれるかもしれない。

 大体、彼を追いかけていったところで、自分に何ができると言うんだ。ずるりと地面に擦れたベルトケースは空のまま、ただ虚しく腿に吊り下がっているだけで、ナイフを落としたのだ、と思い出して、自分の愚図さに思わず涙が出るところだった。

 唯一の武器すら失った身体で、身の程知らずも甚だしい。勘違いも大概にしろ。荒事なんて、それが満足にこなせる人に任せておけばいいだろう。

 逃げて、隠れて、起きた結果が駄目だったとしても、それは僕のせいじゃない。

 それが卑怯だなんて、臆病だなんて、今更なことだ。僕はいつだってそうやって、卑怯な生き方で人生をやり過ごしてきた。そうやって人を盾に、道具にして、今日まで生き残ってきた。どれだけ格好悪くたって、それは弱い僕が生きていくために考えた最善の手段だった。そういう人間を、自分の頭で選択してきた。


 逃げることは、見ない振りをすることは、どれほど愚かで無様だとしても。

 きっと何も、――なにも、悪いことじゃない。

「……」

でも、でもそれは――


『おまえは、初めから、俺なんかよりずっと』


 瞳の奥に、最後に見た笑顔が焼き付いている。


『優しくて、勇敢な奴なんだから』


「……いやだ……」


 君には、君だけには。傷付いてほしくないと思った。


「……っ」

 それがたとえ、誰に否定されようのないことだとしても。

 それが、君自身にとってすら怖いことじゃないとしても。


 じわりと滲んだ涙で視界が霞む。ざりざりとアスファルトの地面を這いずる自分の姿は何処から見てもひどく滑稽で、きっとものすごく格好が悪い。手足を一歩前に動かそうとする度に、ざらつく地面に擦れた皮膚がずるりと剥がれていくのが分かった。

 崩れ落ちそうな足を引き摺って、立ち上がる。軋む身体の痛みを忘れる強さが、後から後からこぼれ落ちてくる滴を止める術がなくても、それでも今だけはきっと、もう一度走れると思った。


 何もかもがすぐに濁るこの世界でも、

 もう一度、見たいと思うものを見つけたから。



 身体に纏わりつく生暖かい風を切って、先程墜落した建物の入口へと走る。


 ――異形は、此方まで降りてくるだろうか。日の光に染まる通路を駆け抜けながら、夏生はベルトケースに仕舞ったナイフの柄をそっとなぞった。

 向かい風が当たる皮膚の表面を裂いていた傷は、いつの間にか元通りに塞がっていた。時折身体の中で軋むような音を立てる手足の骨までは修復しきれていないのだろうが、頑丈な身体は前方へと踏み出す気力さえあれば動かせる程度まで回復している。

 完全とまでは言えないけれど、落下した直後の状態に比べれば格段にマシになっている。この分ならきっと、途中で力尽きることもなく先程仕留め損ねた個体の元へ辿り着けるだろう。


 能力の出力に関する話を聞いた時、あの人が話していたこと。当時は何のことか見当もつかなかったけれど、今ならば少しだけ理解できるような気がする。

 阪田の能力の発現を妨げていたのは恐らく、阪田自身の自分に対する意識だ。出来るわけがない、と呟いた男の顔が脳裏に浮かんで、数分前のことなのに随分と懐かしいような気持ちになる。

 阪田自身が見た彼の『限界』は、そのまま無意識の制限となって、彼に観測された彼の範囲を超えることを阻んだ。自分はそんなものを扱える人間ではないと、自分でも気付かない内に思い込んだ。誰にも悟られないほど静かに、見かけによらないほど強く、とても頑固に。

 だから、つられて一緒に勘違いをしそうになった。

「っ……、」

 けれど、もう自分は見失わない。他でもない、彼自身のおかげで。


 未だ手首に残る少しの体温の残滓を思い返して、夏生はより一層強い力で地面を蹴った。

 ――あいつの意志は、心は、自分などに庇護されなければ潰れて消えてしまうような弱々しいものではない。

 俺なんかを助けるために、あんな風に手を伸ばしてくれる男だ。このまま『強化人間』として機関で戦うことを選択するとしても。もしも、それ以外の道を選ぶとしても。きっと、彼が本当に手にしたいものを見つけたなら、どんな暗闇の中でも踏み出すことのできる勇気を、阪田はもう持っている。


 網膜の裏に、朝焼けの光を映す瞳の色が焼き付いている。


 こぼれ落ちそうな涙を湛えて前を向く人間の瞳が、あんなにも強くて美しいことを、夏生は生まれて初めて知った。

「……」

 知れてよかった、と思う。きっと、此処に来なければわからなかったことだ。


 震えながら立ち上がれる人間は勇敢だ。死ぬことすら恐れられない人間よりもずっと。

 だからもう、迷いはない。


 見覚えのある入口まで息を切らして走って、開け放しにしていた扉を潜る。

 薄暗い屋内に足を踏み入れた途端に鋭利な気配が肌を焼いて、夏生はふっと深呼吸するように息を吐いた。


「――ァアア――……」

 物音を頼りに駆け降りてきたのだろうか。床を揺らすような声量で吠える異形の赤黒い肌の表面に、先程の戦闘で負わせた筈の傷はもう見受けられない。此方の怪我が時間の経過とともに癒えだしているのと同様、飛び出した眼球をぎょろりと動かす巨体も、出遭った時と変化のない姿へと戻りかけている。

「……」

 変わっているのは恐らく、互いの体内を巡る血液の残量。それから此方を睨む赤い 瞳に宿る殺意の強さ――仕留める直前で逃した獲物への執着だった。

 揺れる空気から伝わる気迫が、汗で張り付いたシャツに冷やされた肌を粟立てる。不気味に血走った瞳と目が合って、怪物は一瞬だけ時が止まったかのように静止した。

 一人と一体の間。三メートルにも満たない距離に、ふっと生暖かい風が吹き抜ける。

「――」


 ひとつ、瞬きをする。再び瞼を開けた視線の先、真っ直ぐに此方を見据えた巨体が糸を解いたように動き出しても、頭の中は不思議と穏やかな波のような落ち着きに満ちていた。

 ナイフを抜く。靴底で地面を叩くように踏み切って、赤黒い身体に真正面から飛び込んだ身体はこれまでよりもずっと軽く感じた。

 折れないように保護しなければ、壊さないよう遠ざけなければ。そう思い込んで、不相応に肩肘を張っていた先程のような焦りはもう無い。


 今日の自分がするべきことは――したいことは、ただ、少しだけ、あいつが進むかもしれない道を遮るものを片付けておくことだ。


 空中で振り上げた刃を、大きく口を開けた異形の頭目掛けて一気に振り下ろす。

「ガァアア――――!」

 渾身の力を込めて放った初撃は大きく吠える獣の前脚に呆気なく弾き返されて、それでも敵を見据えた瞳の焦点がぶれるような動揺は湧かなかった。


 ――たとえ上半身を喰い千切られたとしても、意識を手放す前に上顎から脳漿を突き刺してみせる。

 再び地を蹴る身体は、脳裏に強く残る風景への希望に湧き立っていた。



 一歩踏み出す度に軋む足を引き摺って花壇の傍まで辿り着いた所で、いつか読んだ童話で見たパン屑のように彼の居場所を知らせてくれていた血痕は途切れていた。

途方に暮れて立ち尽くしていると、カキン、と金属が擦れるような高い音が昇降口の方向から聞こえる。

「……っ!」

 続けざまに響いた破壊音に直ぐにでも走り出そうとして、改めて自分が丸腰であることを思い出した。――どうしよう。このまま行くのか? きょろきょろと辺りを見回しても、地面に落ちているのは細かい硝子や壁の破片だけで、武器に出来るようなものは何もない。

 そうしている間にも硬い物がぶつかり合うような音は止まなくて、秋人は再びがくがくと軋む足を音が聞こえる方へと向けた。

「……っああ、もう!」

 そんなのは後でいい! 迷っている時間が惜しくて、心配性な思考を振り払うようにして走り出す。地面を蹴ると同時に足首がぐきりと嫌な音を立てて、血と汗塗れの身体は一歩進むごとに悲鳴を上げる。後先を考えない行動がいつもの自分らしくないことは自覚していたけれど、それももう何だか構わなかった。


「……!」

 開け放たれた昇降口の扉を潜って、土足のまま強く床を蹴る。先程よりも近く衝突音が響く室内は先程よりも埃っぽくて、秋人は思わず右手で口を覆った。


 煙幕のように舞い上がった埃の中で、二つの影だけがゆらりと動いている。


 一歩、二歩と、近付こうとする度に身体が軋む。

 それでも、それは歩みを止める理由にはならなかった。

「――」

 生理的な涙でぼやけていた一人と一体の輪郭は、足を進めるごとに少しずつ克明になっていく。薄靄の中に浮かんだ曖昧なシルエットは、生々しく赤黒い異形の巨大な体躯と、それに真正面から切り付けようとする青年の身体に形を変えていった。

「……っ!」

 埃の中で煌めくナイフの刃が、異形の硬い前脚とガチガチと音を立てて噛み合っている。

 自分の倍程もある巨体と渡り合う青年の腕は、目の前の獲物を今にも押し潰さんと迫る異形の力に圧されてわなわなと震えていた。キン、とナイフが弾かれる音がして、僕よりはずっと逞しい――けれど怪物と並べば随分と小さく見える人間の身体は、反動で呆気なく壁際まで吹き飛ばされる。

 強かに背中を打った男の唇からつうと血が流れるのが見えて、秋人は思わず息を大きく呑んだ。一瞬だけよろめいた青年の輪郭は、しかし次の瞬間にはまた懲りずに赤黒い怪物の身体へと切りかかっていく。

 ――押し切られて、弾き飛ばされて、殴られて。いつ倒れてもおかしくない程に血だらけなのに、痛みなどまるで感じていないような顔をして。

 そんな君の心は、やっぱり僕にはよく分からない。


「……!」

 再び壁際に追い詰められる男の姿を見つめて、秋人は左肩に付けたベルトケースに手を掛けた。プラスチックの留め具を手探りで外して、取り出した機械の本体を右手に強く握り締める。


 君と僕とは、違う人間だ。

 だけど、だから、


「……鎧戸くん!」


 もう一度呼びたいと思えた名前を、確かめるように大声で叫ぶ。


「阪田……!?」

 情けなく裏返って掠れた声は、それでもどうにか本人の元へ届いたようだった。壁に付いていた肩がびくりと震えて、漸く此方の姿を認識したらしい男の瞳が驚愕と心配に見開かれる。『危ない』の形に動かされた唇に、それは僕の台詞だと場違いな可笑しさが込み上げた。

 手の内に強く握った機械を、強く高く振りかぶる。いつかは他人事のように眺めていた風景に、今度はもう一歩、足を踏み入れた。


「――――ア?」


 綺麗な放物線を描いて飛んだ通信機は、カン、と間抜けな音を立てて異形の後頭部に直撃した。


 ぐるんと此方を振り向いた赤い瞳と、今また、はっきりと目が合う。

 視線から伝わる殺気にがくがくと震えた両脚は、けれどもう一歩も背後に退こうとはしなかった。

「――ァアアアア!」

 標的を変えた異形の身体が、脇目も振らずに此方へ飛び込んでくる。突風と共に床に積もる埃が舞い上がって、数メートルはあった筈の距離は一瞬で詰まった。

 赤黒い肌が視界一杯に広がって、鋭い牙の生え揃った口がパックリと開く。生臭く暖かい息が顔に掛かって、獲物を呑み込もうと大きく開いた真っ赤な喉奥がすぐ目の前に迫っていた。

 肌が粟立つ。声が震える。それでも、もう目を閉じようとは思わない。

「――来て!」

 赤茶けた牙が瞳に近付いて、視界が真っ赤な口内に呑まれようとしたその時。


「……ッ……!」

 赤黒い後頭部に強く突き立てられた刃が、異形の動作を寸での所で止めていた。

 柄の部分だけが飛び出たように深く刺さったナイフが、目の前の怪物の硬い皮膚とその中身をギチギチと切り裂いていく。先程まで此方を睨んでいた赤い目玉の焦点は刃が動くごとに失われて、やがてぶるりと震えた後外向きに固まった。

「ァ、ア――」

 閉じられることのない口から微かな呻き声が漏れて、鼻先に掛かる息遣いはいつの間にか停止していた。

 硬い皮膚は刺し貫かれた傷の傍から流れるようにゆるゆると融解していき、その形態を液体に変えていった。――視界を塞いでいた赤黒い巨体は、見る見る内に溶け出してはゆっくりと失われていく。


 徐々に形を無くしていく障壁の向こうに、息を切らして立つ青年の姿が見えた。


 ――もう、目を閉じようとは思わない。

 君がいる世界なら、もう少し、見ていたいと思うから。




 すっかり埃塗れになってしまった薄茶色の髪が、朝の光を浴びて柔らかく光っている。


「勇敢だって言ってくれて、うれしかった」


 東の空に昇る太陽をその目に映したままぽつりと呟いた男の声に、夏生はただ黙して頷いた。

 突如飛び込んできた阪田が気を逸らしてくれたお陰で、俺はどうにかあの異形を殺すことに成功した。ドロドロと溶けていく亡骸だけを廊下に残して、俺達はどちらからともなく建物を後にした。そのまま敷地内から出ようかとも思ったが――開け放しにしていた扉を潜った所で阪田が足を止めたのを見た俺から、少し休んでいこう、と提案したのだ。

 昇降口の低い段差に並んで、拳二つ分程の空間を開けて座り込む。


「……僕には今でも正直、全然そうは思えないけど……君みたいな人にそう言ってもらえるなら、いつかはほんとにそうなれるように、頑張りたいって思った」

 静かに語り出した青年の横顔は昨夜よりもすっきりとしていて、白い頬についた血の跡さえも何処か凛々しいものに映った。


「僕は僕だ。僕にしかなれない。それが悲しくてしかたなかったけど、悲しいだけじゃないんだって……君のおかげで、すこしだけど、わかった気がする」

 美しく丸い緑色の瞳に、少しだけ赤味を帯びた目尻に、先程まで際限なくこぼれ落ちていた涙の影はもう無かった。

 眼鏡を外した阪田の顔のつくりは、改めて見るとやはり同い年の男にしては少し幼い。けれどもそこに浮かぶ柔らかな微笑みは、もう少しで大人になる青年の穏やかな落ち着きと優しさの色に満ちていた。


「落ちるのを怖がるばっかりで、何も見たくなくなって……周りのことも、自分のことも、いつの間にか何にも好きじゃなくなってた。……だけど今はひとつだけ、見ていたいって思うものを見つけたから」

 朝日を反射してきらきらと輝く瞳が、真っ直ぐに此方を向く。


「次はそれを、……守れる自分に変わりたい。誰かに言われたからじゃなくて、そうしなきゃいけないからじゃなくて、ただ、僕がそうしたいから」

 穏やかに優しく、けれど強く自分に言い聞かせるような声で言い切ると、阪田は大きな目を無邪気に細めて笑った。

「……だから今度は本当に、頑張るよ」

 別に、今までだって頑張っていただろう。そんな口を挟むのも無粋に感じるぐらいに、そう語る阪田の顔は晴れ晴れとした決意に満ちていた。

「僕が目を逸らしてた世界にも、僕が好きになれるものはある。僕が嫌いだった僕の中にも、もしかしたら見つかるかもしれない。――そういうのもね、全部」


「今は、見てみたい」


 夜が溶けていく。


 天高くに残っていた濃紺が少しずつ薄くなって、月はいつの間にか姿を消した。絵の具をぶちまけたように鮮やかな赤紫の空の上を橙色の雲が通り抜けて、遠くに見える街の向こう側からは明るい薄青が覗いている。夜空を瞬いていた星々は少しずつその輪郭を薄れさせ、ゆっくりと朝の光の中へ呑まれていった。


「こんなに、……綺麗なんだね」

 再び朝焼けに視線を戻した男の呟きに、静かに深く頷く。

 仄かに、けれど暖かく差す光。肌を撫でる風、遠くに聞こえるカラスの鳴き声まで。

 訪れた朝の何もかもを受け止めた男の瞳は、何処までも真っ新に澄んでいた。

「――何だか、初めて見たような気がするよ」



 その瞬間の彼の表情があまりに美しく、崩してしまいたくないものに思えて、夏生は口を開くことを少しだけ躊躇した。


「……お前は、これから」

 ――それでも。喉の奥からはっきりと声を絞り出して、たどたどしく言葉を続ける。機関に報告をして地下施設に戻る前に、どうしても彼に確認しておかなければならないことがあった。

「どこで、どうするんだ。その、何か……したいことがあるんだろう」

 見たいものがある、と彼は言った。

 それならば、それが叶う場所へ行くべきだ。

 このまま機関に留まりたいのならばそれでいい。何処か別の場所に行きたいというのなら、――それもいい。気の早い想像に少しの寂寥感を覚えた自分の感情に蓋をして、夏生は建物の入口の段差に座り込む男に問いかけた。

「……え、っと……」

 ――異形との戦闘を切り抜けたことで、今更気が抜けているのだろうか。どこか呆けたような表情で俺の顔を見つめ返した阪田は、此方をまじまじと見つめたまま、「したいこと?」と鸚鵡返しに呟いた。

 「ああ」と頷いて先を促すと、男は何故かその姿勢のままたっぷり十秒間は動作を停止した。瞬きも忘れたように固まった男の顔に、本当は起きていられないほど疲れていたのではないかと心配になる。


「したいこと、って、……」

 ――思えばここ数週間は寝不足が続いていたはずだ。此処に来る前からの疲労も溜まっていることだろう。今後の話は明日にして、もう今日は寝かせてやった方が良いだろうかと考え始めたとき、目の前の男の唇が微かな声を紡いだ。

「……その、僕、さっきも言わなかったっけ?」

「……?」

「えっと、あの……見ていたいと思うものを、見つけたって」

「ああ」

 何処か恥じらいの滲んだ表情で話す男に頷いて、「だから、」と言葉を続ける。それはもう聞かせてもらった。だからこそ、その願いを叶えるために今後は何をするべきかと考えていたのだ。

「見たいものがあるんだろう」

「……」

 きらきらと輝いていた緑色の瞳が驚愕に見開かれて、二人の間に不自然な沈黙が流れた。――何か、変なことを言っただろうか。此方を見上げる男の呆然とした表情に首を傾げたまま次の言葉を待っていると、阪田は数秒の逡巡の後、戸惑い切った表情で口を開いた。


「その、それって……。…………わからない?」

「何を?」

「……そ、…………そう……」

 だから何をだ。

 そう訊いてもう一度男の顔を覗き込むと、阪田は突然「あああ」と大声を上げて両手で顔を覆った。唐突な動作に呆気にとられる俺を他所に、そのまま頭を抱えて蹲ったかと思うと、顔を地面に向けたままの体勢で何やら一人でうんうんと唸っている。

「ど、……どうした」

 あまりにも挙動不審だった男の動きに、急激に腹でも痛くなったのかと心配になる。今にも地面に突っ伏しそうな勢いで俯く茶色頭に恐る恐る声を掛けると、「気にしないで」と地を這うような声が返ってきた。

「大丈夫、気にしないで。こっちの話だから。……ああ、……な、なにも伝わってなかったのかと思うと急に恥ずかしい……!」

 阪田はその後も暫くぶつぶつと独り言を言っていたが、やがてはあ、と深い溜め息を吐きながらも顔を上げた。


「……えっと、したいこと、だよね。――あるよ」

「! そうか」

「これからどうしたいのかも、少しだけ、考えてる」

 それなら良かった。「そうか」ともう一度力強く頷くと、此方を見上げる男の表情はどうしてか緊張したように強張った。

「でも、あの、……君が嫌だったら、僕に気を遣わずに、ちゃんと嫌って言ってほしいんだ」

「? わかってる」

 厳重に、何度も念押しするような男の言葉にこくりと頷きつつ、夏生は頭の中だけで首を捻った。

 ――そんなに何度も確認せずとも、自分がそれ程愛想の良い嘘を吐けない性質であることは此奴も承知しているだろうに。大体阪田が今後何処で何をしたいかという話に、俺個人の意見を考慮する必要は特に無いだろう。

「あのね、鎧戸くん、その」

「ああ、」


「夏生くん、」


 よく知る男の口から紡がれた聞き慣れない響きが耳に届いて、頭の中の時計が一瞬停止する。


「……って、呼んでもいい?」

「…………」


 今度は、俺の方が固まる番だった。


「ご、……ごめんなさいすみません急に調子に乗りすぎたよね!」

「い、……いや、違、違う……」

 土下座しそうな勢いで頭を下げる男の言葉を否定したいのに、前触れのない提案への動揺で呂律が上手く回らない。

「……ただ、驚いて……なん、……何でだ、急に」

 ――そんなこと。半分舌を噛みかけながらも何とか疑問の言葉を紡ぐと、阪田は最早開き直ったように「うん」と真剣な表情で頷いた。

「あの、こういうのって、ほんとは直接頼むことじゃないんだろうけど、」

「……」


「……僕は、……君と、友達になりたい」


 強い感情の籠った声と共に向けられた視線があまりにも真っ直ぐで、夏生はまたしても返す言葉を失ってしまった。


「……それで、その……もしそれが許して貰えるのならもう、ばれてるだろうけど、僕はほんとに意気地なしだから。尻込みしないように。形から入らせてもらいたいんだ」

「……」


「だめ、かな」


 そう首を傾げた男の、切実なまでに真剣な表情を見て。

 朝の光に照らされて輝く、透き通った瞳を見つめ返して。


「――いい」


 夏生は、自分でも気が付かない内に首を縦に振っていた。


「本当に!?」

 途端に喜色が滲む笑顔を見せた阪田の顔を直視していられなくて、夏生は思わず地面に視線を逸らしたままたどたどしく言葉を続けた。

「……べ、つに……大丈夫だ。その、……お前がそうしたいのなら」


 誰かへの気遣いでも、大人びた処世術でも何でもなく。お前が自分から望んでそうしたいと言うのなら。俺一人の呼び方なんて、どうとでも好きにしたらいい。

 ――正直、『友達』どころか、家族以外から名前で呼ばれることすらも初めてで――どういう顔で返事をしたらいいのか、さっぱり見当がつかないのだけれど。


「……そ、ろそろ。戻らないか」

 らしくもなく込み上げた気恥ずかしさに耐え切れなくて、並んで座り込んでいた段差から一足先に身体を起こす。

 隣についてくるはずの男から背けた顔は、変に赤くなったりしてはいないだろうか。感情が表情に出にくいと言われ続けた自分のことだから、恐らく心配する必要はないと思うのだけれど。


 青い羞恥心に急かされるように、足早にこの場を立ち去ろうとした時、背後から「あの、」と遠慮がちな声が掛かる。どうした、と返事をして。後ろを振り返ると、阪田は何故か未だ先程の段差に腰掛けたままだった。


「ごめん、あの」

「……」

「安心したら、こ、……腰が抜けちゃったみたいで……」


 先程までの真剣さとは打って変わって情けない表情に、夏生は思わず腹の底から込み上げるおかしさを抑えきれなかった。



 日が昇り切った世界はいつの間にか明るく、頭上には抜けるような薄青色の空が広がる。

 蒸し暑い夏の日の気配は、もう、すぐ傍まで近付いていた。



 異形の体液で汚れた黒手袋を外して、座り込む男に右手を差し出す。いかにも申し訳なさげにそっと伸ばされた手が、微かな熱を宿した掌に触れる瞬間。


「ほら、……秋人」


 呆気に取られたように固まった顔が、見る見る内にあふれた涙と共に綻んで。

 俺も、何だかつられて笑ってしまった。


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