4:Light, seeking light, doth light of light beguile;(4-4)

「使えない、って……」


 予想外の言葉に呆気に取られていると、阪田は気まずそうに苦笑いして軽く視線を横に逸らした。

 薄茶の前髪が揺れて眼鏡の位置が少しだけずれると、レンズを通さなければ存外鮮やかな色をしている緑の目が蛍光灯の光を反射する様がちらりと見える。

「ううん……えっと、そうだな……」

 青年は少しの間沈黙して、次の言葉を探しているようだった。夏生はごくりと唾を飲み込んで阪田の説明を待ったが――「あ、」と思い出したように口を開いた彼が発した台詞は、思わず拍子抜けしてしまう平和な提案だった。

「さっきから書類ばかり見てて疲れたよね。……話を聞いてもらうなら、その前にお茶でもどうかな」


 台所の方からカチャカチャと食器が微かに擦れ合う音が聞こえる。

「……」

 「ちょっと待ってて」と言葉を残して台所の方へに向かって行った阪田を引き留め損ねた夏生は、何処となく落ち着かない心地で彼の帰りを待っていた。

 ――手伝ってもらった上に茶まで入れて貰っては流石に悪い。遠慮しなくてはと思いはしたのだけれど、朝食の時に引き続きまたもや断るタイミングを逃してしまった。この所はあの人や春日江といった自分のペースで動く人間と接することが多かったせいか、こうしていちいち気を遣われるとその物珍しさに何となく戸惑ってしまう。

「――ごめん鎧戸くん。聞き忘れてたんだけど、お茶とコーヒーならどっちが好き?」

「!」

 唐突にかけられた言葉に驚いて振り向くと、二人分のカップを手にした阪田が首を傾げて尋ねてきた。

「コーヒーの方がよければそっちでも……あ、家であまり淹れたことがなかったから、そんなに上手くできる自信はないんだけど……」

「……いや、……じゃあ、お茶を」

「わかった。ちょっと待っててね!」

 たどたどしくも返事をすると、思いの外明るい声が返ってきて、夏生はますます申し訳ない気持ちになった。

 ――同じ立場の同僚相手にそこまで気を回す必要もないだろうに。よくよく考えてみれば、一月の差とはいえ彼よりも新人である自分が先に先にこういった気を回すべきだったのではないだろうか? 自宅では飲み物と言えばもっぱら水だったこともあり、美味い茶の入れ方なんてこれまで勉強したことはないけれど――

 取り留めのない思考に囚われて首を捻っていると、背後から「お待たせ、」と穏やかな声が聞こえてきた。

「湯呑がなくて申し訳ないけど……」

「いや……、ありがとう」

 ようやく此方に戻ってきた阪田は、手にしていた盆をテーブルに置くと「熱いから気をつけてね」と柔らかな声色で言った。急須の口から立ち上る湯気を何やら新鮮な気持ちで眺めて、慌てて礼を口にすると阪田は少しだけ安心したような顔で微笑む。

「……」

 先程『コーヒーには馴染みがない』と言っていたが、緑茶に関しては入れ慣れているのだろうか。

 テキパキと慣れた手つきで二人分のマグカップに茶を注ぐ阪田の姿を見ていると、この目で見たこともないかつての彼の生活を幻視してしまいそうで、夏生はその微かな後ろめたさにさりげなく視線を逸らした。


「……それで、……」

 ――本題に、入らなくては。先程は少し言い淀んでいたようだったし、阪田にとってはあまり話したくないことなのかもしれないが。それでも、此処にいる以上は今詳しく聞いておくべき話である気がした。

 躊躇いつつも話を切り出すことを決意した夏生が重い口を開くと、阪田は意外にも「うん、」と自ら先手を打つように軽く相槌を打った。


「――僕の身体の話だよね」


 予想に反してしっかりとした口調に面食らいつつも首肯すると、阪田は見慣れた苦笑いの表情で頷く。

「うん。ええっと、まず最初に聞いておきたいんだけど……鎧戸くんが強化人間になったときも、その……何か注射を打たれたんだよね」

「ああ」

 忘れもしない、数日前の雨の夜のことだ。

 あの時は怪我による失血で意識が混濁していたものの、その瞬間のことははっきりと鮮明に覚えている――目前で注射針が光り、腕に何かを打たれたと気付いた直後。最早『痛い』という感覚すら消えていたはずの腹部の傷が再びジクジクと疼きだし、傷口から広がる熱で全身が感染症に罹った時のような悪寒に包まれた。視界がちかちかと白く点滅し、目の前の男の姿さえも捉えることが出来なくなって――のた打ち回り、いよいよ死ぬのだろうと目を閉じた瞬間に『それ』は起こった。

 身体の中で何らかのスイッチが切り替わるような錯覚。

 それを契機として全身を襲っていた苦痛は急速に薄らいでゆき、気が付くと――視覚、聴覚、すべての感覚が生まれ変わったように研ぎ澄まされ、身体の傷が綺麗に塞がっていた。


「『も』ってことは、……お前の言う力が使えないっていう話は、あの注射を……強化を受けてない、って意味ではないのか?」

 ふと頭を過った疑問を口にしてみると、阪田はこくりと素直に頷いて肯定する。

「うん。僕もそこまでは鎧戸くんと同じなんだ。注射は受けたよ。けど……」

 またも困ったような笑顔で眉を下げた阪田は、『強化人間』の話を知らされて以降の出来事を穏やかな口調で語った。



 高等学校を退学した阪田は、『特務機関』からの指示に従い速やかに荷物を纏めて家を出、秘密裏に地下施設――つまりは此処に収容されることになったのだという。


 彼はそこで蕪木さん以外の職員達――あの白衣の男も含めて――と初めて接触し、改めて強化人間や特務機関の存在についての説明を受ける。その後立て続けに様々な検査を受け、健康状態に目立った問題はないと診断された阪田は、その日の内に研究室で『強化』を受けることになった。

 痛みで暴れた際に大事にならないようにと手術台の上に拘束され、万全の状態で例の注射を受けた、らしい。けれども――


「……何も、起きなかったと?」

「そういうことだね……」

 ――そんなことがあるのか?

 話の内容に暫し呆然としてしまった此方の反応を見て、阪田はばつの悪そうな顔で苦笑した。つうと細めた目をそっと此方から逸らしてテーブルに視線を落とすと、先程緑茶を注いだばかりのマグカップの胴を両手で包み込むようにして握る。

 先程から殆ど手を付けられていなかったカップの中身は、未だ冷め切ること無く湯気を立てている。

「たとえば、こうやって――」

「!」

 阪田は静かな調子でカップを持った自分の手を示すと、そのままぐっと両の掌に力を込めるような動作をした。

 入れてから少し時間が経っているとはいえ、カップが割れて中の液体が手にかかったら火傷をしてしまうだろう。夏生は思わず『危ない』と声を上げそうになったが――阪田がいくら力を込めてマグカップを握っても、なみなみと注がれた緑茶の表面が僅かに揺れただけで、本体の方にはヒビの一つも入る気配はない。

「僕は今、両手に目いっぱい力を入れているけど……このカップは割れたりしない。もしも鎧戸くんがこれと同じことを……あ、例えだから今はやらなくていいよ!? 同じことをしたら、今頃割れてカップが割れて火傷しちゃうよね」

「……そう……だな?」

「うん。つまり僕は、鎧戸くん達みたいなかいり……強い力みたいなものを元から持ってなくって……だから、『力をコントロールできてる』ってわけじゃないんだ」

 ずっと申し訳なさそうに表情を曇らせて喋っていた阪田は、そこで一旦言葉を切った。

「そういうわけだから……要は、今も」

 次の言葉を口にするのを躊躇っているのか、深呼吸でもするかのように息を吸って――少しの沈黙の後、再び静かな声でぽつりと零す。


「……普通の人間なんだよね、僕」


 ――振り返ってみれば、思い当たる節はいくつかあった。

 初任務の際、柊が阪田を自分と共に屋上に置いて行ったこと。単に新人は足手纏いだという彼の考え故の行動だと思っていたが――先程の阪田の話が本当だとするならば、それが当然の判断だ。『異形』は戦闘経験もないただの人間が相対して生還できる相手ではない。

 別行動をしていたために気付かなかったが、彼が武器を握る姿すらも一度も見ていないこと。

 それから――


「……そうか、だから眼鏡を……」

「うん」


 ――どうして今まで気付かなかったのだろう?

 『強化人間』になって得た能力。それは人並み外れた怪力や、傷口が塞がる再生能力だけではない。

 視覚、聴覚、嗅覚といった全ての感覚も以前より遥かに鋭敏になり、敵の気配を感じとりやすくなった――俺の場合はかつてより視界が少し明瞭に感じるぐらいだけれど、先日の柊などは離れた場所にいる異形の体長まで正確に視認できていたぐらいだ――例え元々の視力が低かったとしても、強化によって恐らく平均以上の数値には上昇しているはずだろう。


 つまり――阪田に『強化人間』としての力が正しく発現していたならば、『眼鏡』などという視力を補うための器具を使用する必要は最早ないはずなのだ。


「小さい頃から目が悪くって、眼鏡がないとまともに外を歩けないんだよね。だから、今もこのまま……」

「……その、原因……何で何も起きなかったかは分かってるのか? ……そうだ、あの人は何て?」

 夏生が知る限り、強化人間の身体や能力に関して一番精通していそうなのはあの『ドクター』と名乗った白衣の男性だ。阪田が強化を受けた際、彼がその場に同席していたならば、この不思議な現象について何らかの見解があったのではないだろうか。

 僅かな期待を込めて尋ねてみると、阪田は「ううん」と静かに首を横に振った。

「……何も」

「何も?」

「……『要経過観察だね』って。それだけ……特に驚いてる感じもなくって」

「……」

 平然とした顔でそう言い放つ男の声色が容易に想像でき、夏生は思わず肩を落としそうになった。

 ――あの人の意図が読めないのは今に始まったことではないが――それにしたって、説明する気がないにも程がある。その返答では本当に原因に見当がついていないのか、分かっていてただそれを話したくないだけなのかすら分からない。

「原因の方は詳しく説明してもらってないから、よくわからないけど……雰囲気としてはしばらく様子見するって感じだったかな。だから今はとりあえず此処に置いてもらって、柊くんたちの仕事を手伝ってるんだ……って言っても、全然役に立ててはないんだけど」

 苦笑を浮かべつつそう語った阪田は、どこか名残惜しそうに掴んでいたマグカップを離して両手を膝の上に置いた。

「この前は一緒に行かせてもらったけど、普段の討伐の時には僕は出動してないんだ」

 その表情に浮かぶ自嘲の色にどきりとさせられて何も言えずにいると、青年は先程と変わらぬ穏やかな調子で言葉を続ける。

「……さっきは普通の人間だって言ったけど、僕は正直、普通よりももっと出来が悪くって……元々そんなに運動神経もよくないし、二人についていくと余計な手間をかけちゃうから。――昔から何しても鈍くさくて、同い年の子たちについていけてなかったし」

「……そんなこと……」

 夏生が思わず口を挟むと、阪田はそれをそっと制するかのように優しげな表情で首を横に振った。

「そんなだから、……多分、上の人達も始末に困ってるんじゃないかなって思うんだ。今更家に戻すわけにもいかないだろうし……」

「……」

 尻すぼみになって立ち消える自虐的な言葉を聞きながら、夏生は今朝方の阪田の様子の不自然さに漸く合点がいった気がしていた。


 彼は「身体的な適性がある」というだけの理由で自分の意志とは関係なくこれまでの生活を奪われて、連れてこられた先でもずっと不安定な立場に置かれていたのだ。その状態が一か月も続いてしまえば、不安やストレスから調子を崩してしまうのも無理はない。

 そこまで思い至った夏生は、無意識の内に口を開いていた。

「……帰りたいか?」

 ――もしこの問いに彼が頷いたならば、そのために今の自分に出来ることは何でもしようと思った。

 自分には、此処――特務機関に居なければならない理由が、目的がある。けれど、阪田はどうなのだろう。家族と引き離されて、これまでの生活を手放してまで、此処にいようと思う理由はあるのだろうか。

 いくら異形討伐の為であるとはいえ、自分の希望に反した生き方を強制されるなんてそもそもが理不尽な話だ。『強化人間』としての任務に同行することもままならないと言うのなら余計に――いつまでもこの地下に縛られている必要も義務もない。それならば彼は――

「……ううん、そうは思わない」

 ――此処に居るべきではない。

 頭の中でそう結論付ける直前に降ってきた阪田の返答に、夏生は赤い目を大きく見開いた。

「え……」

「……此処の話を聞いた時、確かにびっくりはしたよ。『そんなこと本当にあるのかな』って思いもした。けど……ちょっとだけ、」

 俯いてぽつりぽつりと零す青年の表情は、身長差のせいで此方からははっきりと窺うことができなかった。


「――嬉しかったんだ」


 けれどその何処か独り言のような声色は、初めて会った日からこれまでに聞いた彼の台詞の中で一番真に迫ったもので――その言葉が、此方に気を遣った嘘や誤魔化しなどではないのだということを暗に示していた。

「……」

 黙り込んだ夏生を見て我に返ったのか、はっと慌てたように顔を上げた阪田は、先程より随分と重たくなった空気を払うようにぶんぶんと手を横に振った。

「な、なんて言えばいいのかな、今まで一度だってそんなことはなかったからちょっとドキドキしちゃったっていうか……いや、こんな話、早々あるわけないんだけどね!?」

「それはそうだな」

 突然不死身に近い身体を手に入れて異形と戦うことになるなんて、そんな荒唐無稽な話が人生に何度もあっては困る。夏生がこくりと頷くと、阪田は少し気が抜けたのか「うん」と力無く笑った。

「だから今の自分のことは、どうにかしなきゃって思ってる。だけど……」

 「どうすればいいかわからなくて」。そう呟く阪田の不安そうな声を聞いた瞬間、夏生の頭にふと既視感のようなものが過った。つい最近、今と似たような言葉を何処かで聞いたような――いや、違う。誰か別の人間から聞いたわけではない。

「……そうか、……」

 ――どうにかしなければならない課題はあるのだが、解決方法が自分ではよく分からない。


「……俺と同じなのか」

「え?」


 先程阪田が語った心境はまさしく、今朝の自分が――自分で自分の力をコントロール出来ない状況に対して考えていたことそのものだった。

「阪田。お前は……身体的適性を見出されて『強化』を受けたけど、強化人間としての力が出せるようにはならなかった。そう言っただろう」

「う、うん……」

「俺は逆だ。強化人間になって、前よりも強い力が出せるようになった。……ただ俺は、自分の意志でそれを抑えきれない。――これはもしかしたら、結果が違うだけで、同じこと……なんじゃないか」

 ――力の加減が出来ない自分と、力自体が出せない阪田。

 結果だけを見れば一見正反対の悩みにも思えるが、どちらも強化人間としての能力の『出力』に問題を抱えているという点で同質だ。

 そして、二人とも『強化』を受けてからの日が浅いという点でも被っている――問題の根幹まで同じものなのかはまだ分からないが、ここまで共通項があるのなら、原因が近い所にあったとしてもおかしくはない。

「僕と鎧戸くんが、同じ……?」

 思いついたことをそのままぽろぽろと話してみると、阪田は少し戸惑った様子で首を傾げた。

「……同じ強化人間でも、春日江は最初から制御できたと言っていたから……俺は正直、少しだけ焦っていた。けど……お前の話を聞いて、全員が全員、初めから完璧に出来るわけでもないのかもしれないと……思ったんだ」

 初めに春日江の話を聞いた際、『強化人間』としての彼との出来の差を実感し、自分は出来損ないなのではないかと微かな不安を感じた。しかし、直後に彼が満面の笑顔で話してくれたように――一日一日の歩みは僅かでも、確かに改善の兆しが見えているのだとすれば。時間はかかっても、いずれは完全に自分の能力を制御できるようになるのかもしれない。

 症状は違えど、阪田が抱える問題も恐らく同じことなのだろう。あの人が『経過観察』という言葉を用いて直ぐに手を打たなかった所から見ても、この先彼に強化人間の能力が正しく発現する可能性が無いというわけではないはずだ。

「何をどうすればいいのかはよくわからない。けど、俺は此処でやっていくと決めたから……そのためなら、自分の弱点は克服しておきたい、変えたいと思った。……お前も、そうなんだろう」

 レンズの奥の緑色の瞳を真っ直ぐに見つめて問いかけると、阪田は少し驚いたように目を見開いて――それから、ゆっくりと頷いた。

「うん。僕も……僕は、このままじゃダメだって、変わりたいって思ってる」


 あの人の言葉に頷いた時の自分と同じように、阪田にも此処に居たい、自分を変えたいという気持ちがあるのなら。自分達の目指すべき方向はきっと同じだ。

「お前の力のことで……俺に何か出来ることがあるならいつでも手伝う。お前も、何か思いつくことがあれば……言ってくれたら、助かる」

 ――すぐに効果を出すことは難しくとも、二人がかりで根気良く手がかりを探していけば、いずれ何らかの方法が掴めるだろう。

 最後の方はたどたどしい口調になってしまったが、一先ず言いたかったことは全て話すことができた。次いで脳裏を過った上手く伝わっただろうかという不安をかき消すように、青年の穏やかな声が耳に届く。

「……ありがとう」

「!」

「僕のこれが、鎧戸くんの症状と同じなのかはわからないけど……君にそう言ってもらえて、ちょっとだけ気が楽になった」


 そう目を細めて笑った阪田の表情からは、先程まで見えていた薄い靄のような翳りは感じ取れなかった。漸く少しだけ明るいものになった青年の顔を見て、此方も安心で気が緩むのを感じる。

「皆に迷惑かけてばっかりで、本当に申し訳ないけど、……もう少しだけ頑張ってみるから、もし何かあれば……手伝ってもらっても、いいかな」

「……ああ」

 「ありがとう」と微笑んだ同い年の青年を前に、夏生は万感の思いを込めて頷いた。


「こちらこそ」

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