1:二度目の生(1-4)

 それから二日後。日雇いの肉体労働を終えた夏生は、再び仮設テントが並ぶ大通りを訪れていた。


 夕方の空は相も変わらず曇っていて、肌に纏わりつく湿気が気分を余計に鬱々とさせる。

 行き交う人の波を避けて歩きながら、右手に握った証明書の内容を今一度確かめた。掠れた赤い判が捺された薄い紙の隅には、通し番号に加えて『2023/06/28』と今日の日付が黒く印字されている。

 先日売り払った血液の対価はこの用紙と引き換えに支払われるはずだ。血液にも手続きにも何の問題もなければの話だが。



 今日もテントの前には長い行列が出来ていて、順番が回ってくるまでには半刻程の時間が掛かった。


 係員に促されるままに、長机の前の錆びたパイプ椅子に腰かける。アスファルトの地面に直に置かれたそれは少し不安定で、体重を後ろに預け過ぎれば倒れてしまいそうだった。

「受け取りに来た」

「あー、はいはい」

 正面に座る係員に証明書を手渡した。一日中屋外に居るせいなのか、半袖のシャツの上から羽織った中年の男の白衣は薄く汚れている。彼は気怠げな表情を隠しもしないままに「ちょっと待ってな」と言うと、散漫な動作で手元の書類と夏生の用紙にあった通し番号を照合し始めた。

「えー、サンイチナナロ……ん?」

 怪訝そうな声と共に、書類をボールペンのそこでゆるゆるとなぞっていた手が不意に止まる。

 不審に思って書類に落としていた視線を係員の顔に向けると、彼の表情からは先程までの怠惰な色がすっかり消えていた。焦った様子で隣にいた同僚の肩を叩き、二人はそのままひそひそと喋り出した。

 ただならぬ様子に困惑していると、くるりと此方に向き直った係員が気まずげな顔で口を開いた。

「あー……、あんた、本人だよな。家族が代わりに受け取りに来たとかじゃなくて」

「? そうだ」

 歯切れの悪さに疑問を抱きつつも頷くと、それを見た係員が隣の同僚にまた何か小声で耳打ちをした。すると何事かを告げられた方の男が慌てた顔で立ち上がって、他の係員が待機しているのであろう車の方へと駆けて行った。夏生の前に残ったもう一人も、長机の中から無線を取り出すと小声でどこかに連絡を取り始めている。

 背後で順番待ちをしている男達も不審に思い始めたらしく、じろじろと観察するような幾つもの視線を背中に感じた。


 ――本当に何なんだ。自覚症状は全くないが、まさか危険な感染症にでも罹っていたのだろうか。  


 目の前で噂話をされているような居心地の悪さに夏生が戸惑っていると、通信を切ったらしい係員がまた此方に向き直った。

 何を言われるのだろう。場合によってはすぐに家族に連絡を取らなくてはならないかもしれない。

「今から迎えの車が来るから、それに乗って行ってくれ」

「……それは」

 男の様子から身構えてはいたが、予想以上に厄介そうな話だった。

 すぐに隔離されなければならないほどに深刻な何かなのか。男が今も自分と面と向かって会話しているということは、すぐに空気感染する類の病ではないのかもしれないが。だったら、今日まで同居していた家族には?

 嫌な想像を止めることが出来ず、夏生は少し震えた声で尋ねた。

「それは、俺が……その、何か、病気に罹ってるからか」

「そういうのじゃ」

 そう口に出した瞬間、彼は『しまった』という表情になって、「ない」と続いたのであろう言葉は途中で呑み込まれた。苦々しく顔を歪めて口を噤む様子は、いかにも自分の失言を後悔しているかのように見える。

 その様子を見て、少し前まで不安に駆られていた夏生の心中が一気に懐疑の色へと染まる。


 感染症でないなら隔離される謂れは無い。冷静に振り返ってみれば、男は『迎えの車』が何処から来るのかも、それに乗って何処へ向かうのかも口にしていないのだ。

 考えれば考えるほどに、大人しく従うには疑問が多すぎる指示だという思いが強くなってくる。

「どういうことだ」

「いや、その……」

「はっきり言え。病気じゃないなら何なんだ」

 煮え切らない態度に不信感は益々募り、夏生は知らず半ば凄むような声を出していた。柘榴色の鋭い目に射竦められて、係員の男はビクリと肩を跳ねさせる。

 男は首を大きく横に振って一瞬の怯えを振り払うと、「ああもう……!」と苛立ちの満ちた声色で叫んだ。

「俺達だってよく知らされてないんだよ! くそ、何で俺が担当の日にこんな厄介ごとが」

「厄介ごと……? だから何が」

「俺に聞くな!」


 係員が大声を出したことでいよいよ本格的に怪しまれているようで、背後の行列からざわめきが聞こえる。

「もう一度言う。今から迎えの車が来るから、それに乗って行ってくれ」

「だから行くって、」

 「何処にだ」と尋ねたが、係員は本当にもうどんな質問にも答える気が無いらしい。赤く上気した顔に『余計なことを聞くな』と書いてある。


 ――途轍もなく嫌な予感がする。

 このままこの場所に留まっていたら、間違いなく妙なことに巻き込まれるという予感が。男の言う通りに今から来るという車に乗り込めば最後、少なくとも数日間、恐らくはもっと長い間この地区に帰って来られないだろうと夏生は半ば確信していた。受け取れる筈だった金は惜しいが、此処に長く居座っているのは不味い気がする。

「理由を言えないなら行けない」

 そう一言だけ断って、立ち上がりかけた身体はぐっと強い力で引き戻された。


「いや、あんたに行ってもらわなきゃ困る」


 夏生の左腕を、男の両の掌ががしりと強く掴んでいた。


 驚いて振り払おうとしたが、骨に響くような強さで握りしめられていてびくともしない。夏生は非力ではないし、二人の年齢差から言っても、普段の状況ならば夏生が男の手から逃れられないことは無いだろう。けれど今そう出来なかった理由はたった一つ、それが切羽詰った人間の力だったからだ。

「おいっ……!」

「そうしないと! ――」

 必死な形相に身の危険を感じて、無理矢理にでも引き離そうとしたその瞬間。


 大通り中にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。


「――っ!」

「あっ……待て!」


 突然聞こえてきたサイレンに気を取られた男の隙を突いて、夏生は左腕から力の緩んだ掌を引き剥がした。立ち上がった勢いで不安定なパイプ椅子がガシャンと大きく音を立てて倒れたことに気付いたが、それに構っていられる時間はなかった。

 目の前で繰り広げられていた悶着と大音量のサイレンの両方にどよめく人々の声も無視して、比較的人の少なく見える方向を選んで走り出した。


 背後に誰かが追って来るような気配は感じなかったが、万が一を考えるとこのまま家に戻るのは気が引けた。人垣を掻き分けて、角を曲がり、裏通りへ、より人気の無い方へと駆ける。

 週に何度か、しかも当番制で境界付近を訪れる血液販売業者に比べれば、この地区に住む自分はあの大音量で響くサイレンの音を聞き慣れている。夏生はこの時、そのことを幸運にすら感じていた。


 もう少し冷静な判断が出来る状況であれば、サイレンの後に続く放送が無かったことを、そして誰も自分を追って来ていないことも――何かがおかしいと気付けただろうが。夏生がその思考に辿り着けたのは、全てが終わった後になってからだった。

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