白藤花精
序・逢魔が時に薫る
儚い染井吉野の花吹雪と共に、春の浮かれ騒ぎが本州を通り過ぎた四月の半ば。山では萌芽が淡くとりどりに冬枯れの枝を彩り初め、いまだ残る遅咲きの山桜を追いかけるように山躑躅が、新緑が天辺を覆い尽くす前の雑木林を明るい赤紫で彩る。それに続いて冬の眠りから目覚め、山を飾る花があった。
手入れされなくなった里山にはびこり、木々を覆い尽くして締め殺すその傍若無人な蔓性樹木は、この時季に妖艶な花をつける。名残の桜色、地の躑躅色に続く藤色の艶は、目映い新緑を待ち望む季節の山々に、文字通りの華やぎと、しっとり甘やかな花の香をもたらしていた。
そんな、薄紅から薄紫の花々に飾られた山に、ちょうど夕日が隠れた逢魔が時。夕食を済ませた狩野怜路は、今日も飯をたかりに来ていた――と言えば本人からは抗議されるであろうが、一緒に庭で採れた春キャベツと薄切り豚の鍋をつついた貧乏下宿人と共に庭へと出た。新年度が始まって二度目の土曜日だが、怜路も、そして貧乏下宿人こと宮澤美郷も、さしたる環境の変化はない。美郷の方は多少、職場内の人事異動があったらしいが、美郷の仕事に大きな影響を及ぼす変化ではないようだ。
「あー、暑ィ暑ィ。もう鍋も仕舞い時だな」
「日が落ちれば風は涼しいけどね。お鍋はまた来シーズンだねえ」
見上げる西の空は端に黄金色を残し、橙から薄紫を経て藍色へ急激なグラデーションを描いている。春特有の少し粉っぽい空気が、湿り気と、どこから漂うとも知れぬ花の香を含んでいた。
「で、散歩って何処行く気だ?」
春分を過ぎておおよそ三週間、だいぶ日足は伸びて、少し早めの夕飯後でも外はまだ十分に明るい。家と狩野家所有の田畑(であった荒れ地)を結ぶ細い市道をゆるゆる歩くに困りはしないが、美郷からの散歩の誘いは珍しい。そう尋ねた怜路に、美郷が曖昧な笑みを返して答えた。
「上に、砂防ダムがあるでしょう? そこまで登れないかなって」
狩野家の北側は、所有する山林が裏庭のすぐ後ろを衝立のように覆っている。その山林には農業用貯水池と、そこから流れ出る小川があり、小川の途中には砂防ダムが設置されていた。砂防ダムへは建設当時に作られた道が残してあり、途中をかなり猪に荒らされてはいるが、ものの五分程度で簡単に登れる。ただ、比較的山野を歩き回るのが苦にならない怜路と違い、インドア派の美郷が突然山登りをしたがる理由が分からない。
「何だってまた、ンな所に」
怪訝げに問うた怜路に、ははは、と美郷が誤魔化し笑いを浮かべる。その視線が薄暮の空を泳いだ。思わず目を眇めた怜路に、観念した様子で美郷が軽く両手を上げた。
「なんか……白太さんが、友達を作ったらしくて。今日帰ってきてないんだ。だから、回収しに行こうかと思って」
へらへら笑いと共に白状された内容に、怜路は思わず「はあァ!?」と盛大な呆れ声を洩らした。
「回収っつーて、自分じゃ帰って来れねえのか?」
「ううん、捕まえられてるとかじゃないんだ……ただ、ちょっと夢中になってるだけで」
夢中に。と、怜路は思わず復唱した。相手は大方もののけの類いであろう。なんと言っても、この限界集落と荒れ果てて自然の楽園と化した山野には、他に白蛇の相手をしそうなモノがない。しかしもののけ――山野の霊気の凝りたちは、美郷の飼う白蛇にとって美味しい「おやつ」である。捕食者被食者の関係で果たして友情が結べるのであろうか。
「おれも実際の様子が見えたわけじゃないから、詳しくは説明できないんだけど……丁度今、盛りの山藤の花精、なのかな? とずっとじゃれてるみたいでさ。遠隔で呼んでも全然返事もしないから」
ばつの悪そうな様子で項を掻きながら、美郷が状況を述べる。それ以上のことは実際見に行ってみるしかないと悟り、怜路は「なるほどね」と小さく呟いて歩き出した。
アスファルト舗装された市道を十数メートル歩いて横道に入り、雑草に食い荒らされ、猪に破壊されつつある砂利道を歩く。途中で急激に細まる道は、元は人間が作り残したものだが、今は文字通りの獣道――ここを通路としている鹿や猪が下草を踏み分け、蹄で土を削って維持している様子だ。昨秋に熟れた種子をいまだ僅かに残している、イネ科雑草の穂を踏み分けてズボンの裾に土産をつけながら、怜路と美郷は獣道を登った。
雑木林に入ると道は途絶える。枯葉に覆われ、柴栗のイガが転がる斜面の中、あちこちにある転石や低木を避けながら、谷筋に沿ってひたすら上を目指した。
しばらくすると、樹冠の途切れた場所に大きくそそり立つ、のっぺりとした灰色の構造物が見えた。砂防ダムだ。怜路と美郷は谷筋から、ダムの本体であるコンクリート壁の脇へと斜面をよじ登る。覗く岩や生える木々を足場にして辿り着いた先、コンクリート壁の上から見下ろすダムの奥は、ダムに下端をせき止められて砂地の広がる、ささやかな小川だった。小川の水はダムの水抜き穴を通って川下へと流れ出ている。
その、川砂が溜まったダムの内側へと張り出した木々の枝や柴木の繁みを、山藤が一面の薄紫色に染めていた。
「すっげェな……」
思わず怜路は声を洩らす。ダムの上に辿り着く前から、辺りにはゆるゆると甘い香りが漂っていた。夕刻、気温の低下と共に湿度を上げた空気が、たっぷりと花の香を含んで流れている。藤の花の香は、柔和な清らかさを持ちながらも少し重く、青みと粉っぽさを含んで妖艶だ。
「白太さーん! 帰って来いよ!!」
美郷はと言えば、川辺の雑木を覆い尽くす薄紫の幕へ向けて、半身の白蛇を呼ばわっている。美郷が声を投げる方向へ目を凝らせば、幽かな音を立てながら、藤の蔓が僅かに揺れる場所があった。白蛇は返事をしないらしく、「もう!」と怒りの声を上げながら、堰を降りた美郷が山藤のはびこる繁みへ向かってゆく。
怜路はその、夕闇の暗がりへ向かってゆく薄い背中を、見るともなしに眺めていた。辺りはだいぶ暮れており、帰りの足下は注意が要るなとボンヤリ思う。
「白太さん!! ――えっ、何、名前……?」
薄紫の房を纏った藤の蔓に覆い尽くされ、元が何であるかも分からぬ繁みの前で美郷が立ち止まった。困惑するように小首を傾げた美郷の正面、美郷の顔よりも少し高い位置に、薄暮にも鮮やかな真白い蛇体が花の間から現れる。美郷の白蛇だ。薄藍の闇に浸されつつある視界の中、藤紫と純白の取り合わせは美しい。怜路も堰を降りて白蛇の元へと向かうことにする。
「おおい白太さん、どうした? 戻ってやれよ、美郷が泣くぞ?」
そう白蛇に声を掛けながら、美郷の斜め後ろまで辿り着く。怜路を振り向いて「泣かないけど!」と一応の反論をした美郷が、眉尻を下げた困惑の表情で山藤の藪へと視線を戻す。
「怜路、お前なら視える? 藤の……花精が湧いてるらしいんだけど」
言われて怜路は、常に己の視界を覆っている、色の薄いサングラスをずらした。
「おー……モヤモヤしてンなあ」
封じのサングラスを取り払われた『天狗眼』の視界に映ったのは、満開の山藤の花々から溢れ出る、薄く光る靄のようなものだった。まだ「精霊」や「もののけ」と呼べるほど纏まった姿形を持たない、霊力の靄だ。
「なんか、そのモヤモヤを食べたいらしいんだけど、輪郭があやふや過ぎてうまく食べれないらしくて……」
「なるほど、ンで名前か」
妖異の類いは、自然の霊威と、それを観測する人間の精神が触れた場所に生まれる。そこに在る霊力に、名と姿を与え、それを神や妖魔にするのは人間だ。
「つか、藤の方はそれで怒らねえのかよ」
「うん、藤本体を食べるワケじゃないし……藤とは仲良くなったみたい」
山藤本体と、その花から生じる花精は別物ということらしい。御神木・霊木と崇められる大樹が多くあるように、植物もまた、霊力を蓄えやすい存在だ。
こんな山奥で、誰に見られるでもなく好き勝手に生きている山藤は、人と触れ合う機会も早々ない。そのため山藤自身も神霊や妖魔としての「姿」は持たない様子だが、藤という樹種は生命力が強く、元より霊力を宿しやすい。白蛇と戯れる山藤も、伸びやかで力強い霊気を纏っていた。毎晩のように山中を散歩している白蛇と意気投合でもしたのだろう。
「じゃー適当になんか付けてやれよ」
「そうだねえ……うーん…………じゃあ、『藤飴』!」
よし! と勢い込んで宣言された命名に、怜路は盛大にずっこけた。
「ンで飴だ!!」
名付けるに事欠いて、麗しの花精を飴呼ばわりである。しかも藤の花精だからと、直球で「藤飴」だ。やはりこの男のネーミングセンスを信用してはいけなかった、と、怜路は肩を戦慄かせた。
「いや、だって、どうせ白太さんが食べるためなんだし……下手に生き物の形になると、なんか気まずくない?」
それはそうかもしれないが、と、追撃の言葉を見失ってしまった怜路は、ただ口をパクパクさせた。そんな怜路の目の前で、名を与えられた山藤の花精が、それに応じた姿を結び始める。
ぽわり、ぽわりと薄闇に浮かび上がるのは、綺麗な藤色に淡く光るまん丸い玉――飴玉だ。それも、駄菓子屋の店先で、一個単位で売ってありそうな大きな飴玉である。
それを見た白蛇が何と言ったか。白蛇に触れないままの怜路には聞こえないはずであったが、大きく鎌首をもたげたその様子だけで、「おやつー!」という歓声が怜路の脳内に再生された。
「よしよし、食べといで。そしたら下りるよ」
おっとりと美郷が白蛇に言った。この男も、随分己の
「美味そうだなあ……」
思わず洩れた呟きに、美郷がくすりと笑って答える。
「甘いってさ。花の香りのガムとかあるけど、あんな感じかもね」
美郷自身は甘い物を苦手とするが、白蛇のほうは平気らしい。咲き乱れる山藤の花房の上を縦横無尽に這い回りながら、ぽこんぽこんと浮かんでいる飴玉を呑み込んでいく。飴玉の数は、花房の数よりは少なそうだが、それでも結構な量だ。白蛇が満足するまで暇を持て余した怜路は、美郷と共にただボンヤリと白蛇の単独飴玉食い競争を眺める。あまり手持ち無沙汰だと煙草が恋しくなるのだが、白蛇も山藤も煙を嫌うであろうと思えば遠慮だった。
一方の美郷は怜路よりも花へと寄って、飽きることなく藤の花を眺めている。時折、満開の房にそっと触れてその色や香りを楽しみ、無心に花を愛でている様子だ。
――つぅっ、と不意に、怜路の視界の端で、藤の蔓が動いた。
そよりとも風の吹かぬ夕刻である。最初怜路は、白蛇が動き回るのに揺らされた蔓の端かと思った。しかし、その初々しく新芽を伸ばした細い蔓の先は、確かに一方向へと触手を伸ばしている。その先にあるのは――美郷のうなじだ。
思わず、怜路はその蔓の動きを注視して身構えた。死角から伸びるそれに、美郷は気付いていない。打ち払うか、と怜路が腕に力を入れたと同時、うなじをつつかれた美郷が「ひゃあ!」と飛び上がって蔓へ振り向いた。
「なんだよ! おれまで遊べって……? 仕方ないなあ」
しかし、藤蔓の悪戯に怒るでもなく、美郷は絡んできた蔓をつつき返している。タイミングを逃し、身構えたまま固まっていた怜路へと、その涼やかな視線が流れた。
「怜路?」
どうしたの? と問いたげな、無防備な表情の美郷に、その背後からいくつも蔓の先が伸びる。そのひと枝が見事な花房を美郷の眼前に持ち上げ、美郷の丁寧に梳られ、束ねられた黒髪に絡めた。薄闇に浮かぶ白く整った面と、闇を吸ったような滑らかな黒髪を、妖艶な藤の生花が飾る。
――ぞわり。と、背筋がそそけ立ったのは、その美しさゆえか、或いは。
堪らず怜路は、ポケットから紙箱とライターを引っ張り出し、煙草を一本銜えた。目を瞬かせる美郷に答えもせず、煙草に火を灯す。無駄に辛味が増すのも構わず大きく吸い込んだ紫煙を、思い切り美郷に――美郷に絡みつく山藤の蔓に吹き付けた。まともに喰らった美郷が咳き込む。同時に、藤蔓も慌てて退散して行った。
「何するんだよ!」
怜路の不躾な一撃に、当然美郷が憤慨する。それに「あー悪ィ悪ィ」とおざなりな謝罪を返し、怜路は一歩、美郷の傍へと寄った。いまだ名残惜しげに、美郷の傍へ垂れている花房を、手の甲で打って追い払う。
「あんま無防備にソッチ側に行くんじゃねーよ。取り込まれちまうぞ」
うつし世の外側、闇の中へ。そう本気で心配した怜路に、軽く瞠目した美郷は面白い冗談を聞いたかのように噴き出した。
「あっはは、今更おれが何かに喰われるワケないだろ」
可笑しそうに笑う美郷の無邪気さに、己の眉間が険しくなるのを怜路は感じた。構わず、美郷は続ける。
「花の精に攫われそうなのは、むしろお前じゃないか」
随分心外な言葉だ。思い切り目を眇め、「あぁ?」と柄悪く返した怜路を、なおも面白そうに見ながら美郷は言った。
「だってお前、すぐ自分の身を挺して誰かを庇ったり、情に絆されたりしそうじゃない。大好物だと思うなあ、花精の」
「しねーよ! 俺を何だと思ってやがんだ。俺ァ、東京砂漠を腕一本で生き抜いてきた、擦れっ枯らしの拝み屋様だぞ!!」
すっかりタダのお人好し扱いをされている。だが怜路とて、世知辛い世の中をその身ひとつで生き抜いてきたのだ。チョロい人間扱いされるのは心外だった。しかし美郷は「えぇ、そっかあ」と納得していない様子だ。
ともあれ、本格的に足下が見えなくなるより先に下山せねばならない。魔除けの煙を右手に燻らせたまま、怜路は大きく白蛇を呼ばわった。
「おおい白太さん! 下りるぞ!! 続きは明日にしろ、帰ったらとっときのオヤツ出してやっから」
応じたらしき白蛇が、騒がしく藤の蔓を揺らす。宵闇に響くその音が己の元へ辿り着くのを、怜路は待ちわびて立ち尽くした。
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