花の下に死す 2
2.
駒場から、次の先見内容を指示されたのは四日後だった。今度は「時期」をより具体的に知りたいという。場所は良いのか、と確認した斗織に、受話器向こうの駒場は多少の疲労が混じった声音で答えた。
『我々の解釈が正しいならば、時期次第では場所など無意味なのです。それほど、大きな災害となる』
斗織が感じた寒々しく不毛な印象は、おそらく火山の冬を表すものだろうと駒場は言った。火山の噴出物が空を覆い、気温低下を招く現象だ。無論、その規模の噴火が起これば火砕流や降灰の範囲も桁違いで、国土の何割かを火山灰が覆うという。まさしく、日本存亡の危機だ――と、淡々とした声が説明した。
「ならば、おかしな言い方になりますが一安心ですね。そこまで大規模な災害ならば、五年十年の話ではない。きっと、私もあなたも土に還った後の話ですよ」
考えても仕方がないほど先の話だ。今焦る話ではないと斗織は考えたが、お国を背負う立場ではそうも行かないらしい。あたう限り正確な時期を、と重ねて頼まれ、斗織は諦め半ばで了承した。受話器を置いて、ひとつため息をつく。
「博打もここまで、ということか……」
斗織は鈍痛を訴える鳩尾をさすり、青白く痩せた手の甲に視線を落とした。
柔らかく華やいだ香りと共に、濃い紅色の花が庭を彩っている。
枝を端正に手入れされた樹は八重咲きの花梅で、初夏に実を結んでも熟れることなく落ちる。傍らでは白い椿の花がひとつずつ咲いては、濃緑の葉の影にほとり、ほとり、と首を落としていた。常緑樹の黒い葉の他は、いまだ冬枯れた枝があるばかりの侘しい庭である。池の鯉も、岩陰に隠れて眠ったままだ。
雑草一本見当たらぬ整然とした庭園の端で、斗織はいまだ蕾の硬い桜を見上げる。庭一番の若木である山桜の花を、斗織はまだ見たことがない。実生の山桜は数年前、小鳥が零して行った種から芽吹いたものだ。配置を計算し尽くされた庭園の中にあっては異分子である。斗織がこの屋敷に暮らすようになった年、庭師の目を逃れて一応幼木と呼べるほどに育っているのを見つけた。以降、庭師に世話を頼んである。
今年こそ咲く。斗織はそっと幹に手を触れた。細い枝には初めての花芽が付いている。決まり切った日々と季節を繰り返す斗織の世界にあって唯一、時の流れを見せてくれる存在だった。
「随分と若い木ですな。桜かな?」
少し離れた場所から、駒場が声を掛けてきた。振り返らないまま「ええ、」とだけ斗織は答える。
「今年ようやく花を付けますが、その頃には私もここには居ないでしょうね」
続けた言葉の弱々しさに、自分で溜息を吐きたくなった。
「それは……それも、先見で分かることなのですか」
一瞬戸惑いを見せた駒場の問いに、斗織は軽く首を振った。普通に考えれば言葉通り「既に自由の身となって、この屋敷には居ない」という意味だが、今の斗織の姿を見ては、そんな前向きな解釈は出来ないだろう。口元にうっすらと自嘲を浮かべて、斗織は幹から離した手を握り込んだ。
「私の能力では、この花の先見は出来ません。単に枝先に花芽が見えただけです」
何ならどこまで先見が出来るのか、正確なところは自分でも分からなかった。樹のコンディションと外気温で決まる開花日を、人間が操作出来るとも思えない。
「開花は、いつ頃になるでしょうかな」
「恐らく四月も終わりでしょうね。この辺りの春は遅い……ソメイヨシノもその時期です」
東京ならば、三月も下旬になれば桜は咲くのだろう。駒場へと振り返った視界の端で、南天の実を啄んでいた鳥が羽ばたく。彼らが冬をしのぐ食糧となっている紅い実は、そろそろ残りを僅かにしていた。
斗織と視線の合った駒場は一瞬、どこか痛ましげな顔を見せた。しかし、すぐにいつもの静かな無表情へ戻る。
彼と顔を合わせるのはせいぜい二週間ぶり程度だ。だが、たったそれだけの間に、斗織の体重は五キロ近く落ちていた。先日にも増して痩せ細っているのは一目で分かっただろう。
鈍い痛みが身体の芯に、澱のように溜まっている。気を抜けばすぐにでも、その場にくずおれたくなる。吐き気に似た衝動に耐えながら、客人の前で弱った姿を晒したくない斗織は、無理矢理背筋を伸ばして立っていた。それでも、痩せた身体や顔色の悪さは誤魔化せない。実際、自分の足で庭を歩けるのもこれが最後かもしれない。それほど斗織の体は衰えていた。
「――災害のやって来る時期を視ました。前にもお話しましたが、五年十年の話ではないでしょう。はっきりと何年何月とはお伝え出来ません」
「承知しております。貴方に分かる限りのことで良いのです。現状、貴方よりも正確なことを知れる者など誰も居りませんからな。……ところで、中に戻らせては頂けませんかな。こちらは随分、東京よりも寒い。この歳になるとこたえます」
斗織の前置きに頷いて、駒場が掃き出し窓の開いた縁側を示した。明らかに斗織を座らせるための方便だが、斗織は素直に頷いた。
「そんな薄着でおいでだからです。この辺りの三月は、まだ春とは言えませんよ」
きっちりとツィード地の冬物三つ揃えを着込んだ姿を視界の端に、斗織は屋敷へ踵を返す。いいように言い包められているようなものだが、不思議とそれが不快でない。
(まあ、そういった辺りも含めて優秀な男なのだろうな)
不用意に感情を露わにすることも、余計な口を利くこともない。明らかに無理をしている斗織を目にしても、露骨に表情や態度を変えたりはせず気遣いを見せる。まさしく、宮仕えのプロといった風情だ。ただ意地を張っているだけの青二才など、手のひらで転がすのは造作もないだろう。
斗織は彼に――駒場宏孝という男に、己の今後を賭けてみた。人生を賭けたなどと言えば、随分と相手に入れ込んだように聞こえるが、そこまでこの男を信用したというわけでもない。駒場に裏切られればそこで終い、そうでなくとも、駒場の要求する先見が斗織の寿命を上回れば斗織を待っているのは死だ。
それでも、何の自由もないまま、命を削り取られながらただ死ぬまで生きるよりは。
先見は斗織の命を削る。その上、精度を上げるために生活に多くの制約を強いられる。異能を家に知られてからの斗織は孤独な囚人だった。変化も展望もなく、ただじわりじわりと心身共に命を削がれ、死へと向かう。それよりも、無謀な賭けでも良いからたった一度でも、己のために、今まで不幸しか招いてこなかった異能を使ってみたくなった。
縁側の敷石に草履を脱いで客間に戻る。斗織の世話をしている使用人がやって来るまでもなく、駒場が掃き出し窓を閉めて斗織の座椅子を引いた。もう、背もたれのない状態で座っているのも辛い。当然のように斗織の介添えをして、客人であるはずの男は何食わぬ顔で己の席に戻る。あくまで、斗織が自分から体調に触れるまで待つつもりだろう。淹れ直した茶を持ってきた使用人に頭を下げる姿を、見るともなしに眺める。
とりあえずのところ、まだ生きている。
今自由の身になったところで好きな場所へ行くどころか、冗談混じりに要求したファストフードを飲み込むことも厳しいだろう。それでも一歩なりとも外に出られるのならば、悪くない結末だと斗織は思っていた。
「――それで、災害の時期でしたか」
一口茶を含み、乾いてひりつく喉を潤した斗織は口を開いた。慎重に飲み込まなければ、すぐに咽せてしまう。嚥下能力も随分と落ちた。
正面の駒場は黙って頷く。
「人の一生よりは多少長い期間が空きます。今年咲く竹の花が結んだ実が芽吹き、成長して大地を覆い尽くすように根を張る。そして再び竹が花を付け、枯れる頃……枯れた竹の根を突き破って、龍が地上に顕れる」
竹はあくまでも象意だ。決して、実際の竹が地震の時期を左右するわけではない。
「竹の花は百二十年に一度と申しますな……なるほど、人の一生よりは多少長い。だが、起こる災害を思えば短いほどですな」
「そもそも、あなたがおっしゃった規模の話ならば、十分な猶予など存在するとは思えませんね。日本を丸ごとどこかへ引っ越さなければいけないレベルの話なのでしょう?」
それはあまりにも非現実的だ。そして、現実的な解決策があるとは思えない。
「さすがにそれは難しい。ですが、百年以上猶予があるならば、手をこまねいていることはできません。必ず、何か対策を練らねばならない」
重々しく断言した駒場が、一呼吸置いて斗織と視線を合わせた。
「……次の先見をお願いすることはできますか」
苦渋の声音で、駒場が問うた。期限の春分まではまだ数日ある。最低でもあと一度は、駒場は斗織に先見を依頼出来るのだ。だが、彼が確認したのは契約上の話ではないだろう。
「勿論です。ただし少しお時間を頂くことにはなるでしょう。内容次第では、お答え出来るかも保証致しかねますが」
「それは、何故」
厳しい表情の駒場は、何か察しているらしい。鋭い視線を前に斗織は一瞬、どう誤魔化すかと思案する。場合によっては、斗織の命数が尽きて先見が出来ない可能性もあるのだが、それを言えば駒場は恐らく依頼を取り下げるだろう。
取り下げられて、斗織に困ることはない。駒場ならば、きっちりと対価を払い斗織をここから解放してくれるだろう。だがそれは斗織の美学には反する。一度は諦めた人生を賭けた、最初で最後の勝負だ。自分で出した条件を曲げたくはない。
仮に今、この場で依頼完了とされ斗織が自由の身になったとしても、既に失った命数は多い。体調が万全に戻ることも恐らくないと思えば、是が非でも自由を、という気持ちにもならなかった。
「お気付きのようですが、体調です。先見は体力を削る。内容にもよりますが、立て続けに視るのは辛い」
そうですか。低く小さく、駒場が呟く。重苦しい声音に可笑しみを感じ、斗織はくすりと笑いをこぼした。そんなにも自分は、やつれ果てて見えるのだろうか。
怪訝げに眉根を寄せて、駒場が問う。
「何か?」
「いえ。あなたが深刻な顔をなさる話でもないだろうと。そんなに私は、今にも死にそうに見えますか」
口元を、少し広げた扇子で隠して斗織は答えた。更に駒場の眉間が険しくなる。
「私のような人間が、他人の心配をするのは滑稽ですかな」
多分に苦みを含んだ声が、笑う斗織を非難する。
「それはそうでしょう。あなたは何より『国』の心配をしなければいけない立場の方だ。一個人の人生の心配をしている場合ではないのでは」
お国のために、などという感覚を斗織は知らない。半分はただの皮肉だ。同時に、勤勉実直を絵に描いたような雰囲気をしたこのお役人が、自分のために心を痛めている様子は単純に可笑しかった。
会ってたかだかひと月半の鼻もちならない若造など、切り捨ててしまえば良いものを。冷徹な打算に長けた家族ばかり見てきた斗織は不思議に思う。斗織が死のうが生きようが、駒場の人生には何の関わりもないはずだ。彼にとって重要なのは宮内庁職員としての仕事であって、斗織ではない。そして、彼の仕事は将来的に国を、ひいては何万何十万という国民の命や生活を背負っている。
比較するべくもないことだ。少なくとも、斗織が生きてきた世界では、天秤に乗るような話ではない。
きっと駒場は、斗織が知る人々とは全く違う人種なのだろう。お人好しと言えば良いのか、心が弱いと言えば良いのかは迷うところだが、彼のような人物が、一個人、一企業などより遥かに冷徹な判断を必要とされる場所で働いているのは、とても興味深い。
くすくすとこみ上げる笑いに肩を震わせていると、呆れと、少しの苛立ちを含んだ声が「それでは、」と話を仕切り直す。
「これ以上の先見をお願いするのは難しいということですな」
予想外の言葉に、斗織は目を瞬いた。せっかく命数の話は伏せたというのに、どこまで人の好いお役人なのか。
「おや、何故そうなるのですか? 明日、明後日に結論が必要な話でもないでしょう。実際に先見をしてみて、もし成功すれば儲けものだ」
口元に扇子を添えたまま斗織は言った。ぴくりと駒場の片眉が動く。伏せがちだった視線が上げられ、ばちりと目が合った。その眼光には苛立ちが入り混じっている。
これ以上笑っては更に機嫌を損ねるかと思いながら、どうしても緩む口元を斗織は改めて扇子で隠した。しばらく笑いを堪えていると、駒場が深々と溜息を吐く。
「……先見のような異能が、術者に消耗を強いることくらい存じ上げております。貴方にこれ以上のご負担を強いるのは心苦しい」
苦々しい声は、どこか悲痛に聞こえた。笑いを収めて、斗織はゆっくりと目を細める。
「だったとして、あなたが思い煩う話でもないでしょう。依頼の申し出期限は春分まで、それまでの間ならば何度でも依頼は可能。全ての依頼をこなし終えれば、私に対価を払う。一度合意した条件です。今更、安い同情で約束を曲げられるのは不本意ですね」
気力で背筋を伸ばして、ことさら冷たく言い放った。同情されて甘えるのは性に合わない。気持ちだけは有り難く受け取ることにして、斗織は斗織の意地を通すことにする。
「まさか私が、己の消耗を予測出来なかったとでも。この程度の事態は想定の範囲内です」
強く言い切った斗織の向かいで、駒場の肩が逡巡するようにこわばる。応接テーブルの下に隠れた拳は、きつく握られているのだろう。眉間に深く縦皺を刻み、観念したように駒場が言った。
「失礼致しました。それでは、改めまして『場所』を教えて頂きたい。震源は一カ所ではないようなので、噴火する火山を」
火山の冬を招くことが出来るような、巨大噴火を起こす場所は限られているという。その内のどれが噴火を起こすのか先見で知ることが出来れば、そこから離れた安全な場所に、大都市機能を移転させられるというのだ。
斗織が行った最初の先見で大地の龍が蠢く場所が「南側」と出た以上、大都市の集中している太平洋側は危険な公算が大きい。特に東京は、世界でも最も地震災害のリスクが高い都市として有名だ。百年をかけて安全な場所へ首都を移転させることで、被害を抑える計画らしい。
「分かりました。それでは、少し身体を休める必要がありますので……数日お待ち頂きましょう」
体力の回復に努めたところで、削ってしまった命数を取り戻せるわけではない。だが、このままでは先見の準備段階で倒れてしまうだろう。
斗織の言葉に頷いた駒場が突然、「失礼ながら」と両手を膝の脇に突いて座礼した。
「最後の先見をなさるまでの間、こちらの屋敷への逗留をお許し頂きたい。我々も本職は占術ながら、宮内に伝わる様々な病気平癒延命長寿の術を心得ております。先見をして頂くのであれば、迅速な成功のために協力をするのは当然の務め。何卒」
有無を言わさぬ口調に、少し躊躇って斗織は了承を告げた。確かに宮内庁として、斗織の先見が成功するか否かは大きいだろう。百年以上の準備の上での都市移転計画だ。
ありがとうございます。駒場が深々と頭を垂れる。
「そこまで仰るからにはさぞ強力な秘伝をお持ちなのでしょうね。期待しておりますよ」
はい、と馬鹿真面目に頷く駒場にほんの少し笑い、斗織は気力を振り絞って立ち上がる。よろけるような、無様な姿は晒したくない。部屋の端に控えていた使用人に駒場の逗留準備を指示し、部屋を出ようとした。
くらり、とそこで天井が回る。
まずいと思う間もなく、斗織の意識は闇に飲まれた。
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