1-8

 逃げるのはいいのだが、道に迷った。正確に言えば現状位置が分からない。どうも、壁のどこがどうなっているのかさっぱりと分からない。

 街に入ったのか、まだあの空間の中なのか。

 インユェは頭を掻きながら、考えにふける。

 見当がつかないのは、インユェが街に慣れていないからだ。

 街に慣れた人間からすれば、一目瞭然のそれらも、インユェには違いが判らない。同じように人が多く、見慣れない服を着ていて、行き交っている。いかんせんどうにもならない。

「町を出た方がいいのか、これ」

 ひときわ高い屋根の上に上り、インユェは夕暮れの街を眺めた。追いかけっこは今のところインユェの圧勝で、屋根を無様に転がる人間も何人かいた。勝手に足を踏み外して落ちて行ったが、高さもそんなにない場所だったので、命の心配をしなくていい。

 そこが気楽だった。さすがに死なれるのは目覚めが悪い。

 いくら平気そうな声で平気そうな顔をしていても、インユェだって生粋の悪人でも冷酷な人間でもないのだから。

「でも町ってどっちから町なんだろ」

 朱宮を有する空間が、広すぎたのもまた、インユェの感覚を狂わせる要因だっただろう。

 街と朱宮の外とを、上を下へ大騒ぎに導いているインユェだが、その自覚は欠片もない。

 そして、今もなお、人々がインユェを探して血眼で右往左往していることを、ほとんど、自覚していなかった。

 啖呵を切ったくせに、自覚が足りなさすぎるのも考え物だろう。

 インユェにとってみれば、ただ、人があちこち彷徨っているな、という認識でしかなかった。

 彼らは身軽にインユェが屋根を突っ走るのに……、この鐘楼といっただろうか、この建物の高い位置まで登れるなど、思いもよらないのだ。

 なんで思いつかないんだろう、と疑問に思う。最も、体力を回復させるには都合がいい。

 一休みのつもりだった。

 背中に敵意が刺さるまでは。

 敵意は慣れ親しんだものだ。蟲は、敵を認識したら容赦がない。

 草を食うやつも、肉を食うやつも、命を脅かす相手に直面したら、敵意と殺意をぶつけてくる。

 それを背中に感じながらも、インユェは動かなかった。

 動く必要を感じなかった。

 蟲の敵意ならば、こちらに敵意も害意も感じなければ、収束するからだ。

 それと同じものを感じていたのだが、どうも違う。

 敵意は引っ込まない。それどころか、増しているように感じ取れた。

 なんなんだ。いったいなんだ。なぜ、敵意が増大する。

 困惑したのは瞬間で、しかしインユェは動かない。

 空気が鋭くなる。来るな、と感覚的にわかった。

 刃物が向かってくるときは共通して、来る、と分かるのだ。

 幼いころ、村でぼろぼろになりながら、当時の牙と向かい合ったあの時から、インユェはそれを覚えた。

 気配の方を見もしない。軌道はわかっている。足音から、立ち振る舞いから、得物の長さも系統も、手に取るように伝わってくる。

 それがどんなに異質なのか、インユェは知らない。誰もそれを、教えてくれなかったのだから。

 ただ、人に言ってはいけないらしい、という漠然とした感覚しかもたらさないものだったが、今は感謝するべき感覚だった。

 空気が尖りに尖り、向かってくる。

 インユェはそちらを見もしないで、匕首を振りぬいた。

 神速の動きが、目にも止まらないだろう動きが、突きの動きを止める。

 たったそれだけで、刃先が相手の刃先とぶつかる。切っ先に切っ先を当てて力を拮抗させるなど、それは信じがたい技量を示している。

 無造作に、適当に相手を見もせずに振るわれたにもかかわらず。それはきちんと、相手の刃物の動きを止める。

 息をのむ音がした。

「あんた、何?」

 そちらを見やりもしないで、インユェはのんびりとした声を保ったまま問いかけを投げた。

 相手は黙ったままである。インユェは一分ほど待ち、答えがないのでくちを開いた。

「答えられないのかよ」

 答えない相手なので、ゆっくりと問いかける。

 今までの武官たちだったならば、大声で、インユェのいる場所を周りに知らせようとしただろうがそれがないのだ。

 ただの武官という事ではないのだろうな、と適当な想像で判断する。

 よほどの腕利きか、自信家か。それとも、アンサツシャとかいう職種なのだろうか。

 インユェを、同族だと思って眺めに来たのか。それにしては敵意が強すぎる気が、しないでもない。

 インユェの問いかけに、相手が答えた。低い男の声で、そこで相手が男だと認識する。

「武人だ」

「あっそ。そんな人が何の用事? 捕まえに来たの」

 ここでもインユェは余裕を崩さない。

 足場の悪い場所で、武官が彼女を捕まえられることは、ない。

 山の悪路を先頭きって突き進む、牙をなめてかかってはいけない。

 屋根の上くらい、インユェは余裕で宙返りができる。

「お前は、捕まえた者の物になると聞いた」

 男にまで、インユェの言ったことは伝聞されているらしい。

 都の情報の流れ方は早いな、とちょっと感心した。

「いったな、そんなこと。でも誰も捕まえられてないだろ、だからおれはおれのもの」

 捕まえられるだけの、素晴らしい腕の持ち主がいたら、インユェはきっと、その誰かを好きになる。インユェには確信があった。

 並び立つ相手がいないというのは、自尊心を満足させるが、同時にとても寂しいのだ。

「俺が捕まえればいいだけだ。そうすれば、お前ほどの暗殺者を手に入れられる」

 男が言い切る。その自信はいったい何を相手に培ってきたものなのか。

 まだインユェには測れない。

 だが、言っていることは著しくインユェの機嫌を損ねた。また間違えられている。

 このインユェは、アンサツシャではないというのに。

「そんなものじゃねえし、蟲狩を人殺しと同じものにしないでくれるか?」

 インユェは声音で機嫌が悪いことを示した。

 蟲狩と、アンサツシャとかいう、人を殺すらしい職種を、同列に並べられるのはひどく不愉快だった。

 インユェは男の方を振り返った。それと同時に、拮抗する切っ先をはじく。

 なかなかすさまじい勢いになった。そこでインユェは男が、都で見慣れた裾の長い恰好をしていることを見て取った。これで、こんな動きにくい恰好で、インユェを捕まえようなど愚行なのに、と思った。

 切っ先を弾かれた男が、体勢を崩した。弾かれたことで、屋根の上でも保っていた均衡が崩れたのだ。それにそれだけ鋭く、インユェが切っ先を弾いたともいえるだろう。

 男の体が倒れていく。そのまま落ちろ、とインユェは思った。

 思って見捨てるはずだった。インユェは決して、お人よしでも甘い奴でもない。

 見捨てるときはどこまでも、非情と言われるほどあっさりと見捨てる。

 助けられるもの、助けられないもの、助けたくないものを、すぐに仕分けられたのだ。だが。

 双方の視線がぶつかり合った。男の目は燃え盛るようにという比喩が冗談ではないほど赤く、視線がぶつかるだけで魂が焦げそうな色をしていた。

 それを、インユェは直接見てしまった。相手の目の中に、自分の金色の目と金色の髪が移るのが分かった。

 見てはいけなかったのに。インユェはそれを見てしまった。

 どくり、と心臓がわなないた気がした。求めているものがそこにあった。

 ほしい、と痛烈なほどインユェは思った。この目がほしい。すごくほしい。

 そこまで思うのに、わずかな時間もかからなかった。インユェの手は、伸ばされた。

 そう、その手は男の手首をとらえて掴んだのだ。なぜそうなったのか、インユェ自身にもわからない、しかし救いの手は伸ばされてしまった。男の手は反射的に、か細い、しかし強靭なインユェの腕を握り締めた。

 骨が折れそうな力だった。もしかしたら満身の力だったかもしれない。

 しかし足場が悪く、つかんだとたんにインユェも屋根の上を滑っていく。かかとを踏ん張っても、がつがつと音を立てて、滑り落ちていく。このままいけば二人とも真っ逆さま、なんてことを考えるほどには、状況は甘くなかった。

 一人ならできることも、相手をつかんでいる以上できない。手を離してしまおうか、と考えて、この鐘楼の高さでそれをやれば、相手が死ぬと、経験から判断し、どうしても手を離せなくなる。

 さっきまで、死んだってかまわないと思っていたはずだったのだが。

 それに男も、握りしめた手を離してくれないのだ。つかんでいる手がしびれてきそうだ。

 それでもインユェは、諦めない。諦めの悪さは村一番、執念深さも村一番、と揶揄されてきたインユェは、諦めて落ちようなどとは決して思わない。

 匕首を咥えて、インユェは屋根瓦に手を伸ばす。凸凹とした瓦に、指を食い込ませる。

 それは相当の負荷になった。爪が剥がれそうになる。指が想定外の重みのせいで、しびれるように痛む。指の限界は、いくら鍛えていようとも存在する。指の骨が悲鳴を上げた。

 それでもインユェは離さない。指が白く白くなるまで、つかむ。

 そこでようやく滑り落ちることは止められた。

 間一髪、男は屋根瓦にぶら下がるインユェの手を握り締め、転落死を免れる。

 インユェは腕の力を込めて、男を屋根瓦の上に持ち上げた。片腕で、安定の悪い場所、それも自分も宙ぶらりんになりながら、それを行うのは骨が折れたが、やってのけた。男が屋根瓦の上に立つ。

 やっと、インユェは両手を使って屋根瓦をつかみ、体を持ち上げた。これくらいは軽い。

 今まで、片腕だけでどうにかしようとしたせいで、自分だけならばどうにかなることに、苦労したのだった。

 屋根瓦の上に立つと、男がじっと、インユェを見つめていた。

 その目はインユェを測るようでどうにも、居心地が悪い。

 だがその目は、臆さずに見つめれば、とても美しい。

 目がゆっくりと瞬いた。そこでインユェはようやく、男の外見に意識が向いた。

 まず赤い頭髪をしている。それをまとめ、冠の一種でまとめているのだから、官吏なのは間違いなさそうだ。

 その色はどこかで見た色によく似ている。果てどこだったか、インユェは記憶を探り、ああ、と一人合点した。

「スイフーのお兄さんに似てんだな」

 何事もたいしたことではないという、インユェの気質から、その感想は簡単に口から飛び出した。

 男が目を見張る。

 見張られた瞳も先ほどみたとおりに赤い。双眸は紅蓮。そして冴え冴えと冷たいのだ。冬の赤い月、という詩的な表現が似合う色をしている。

「凍った血みたいな色してる」

 しかし情緒は今一つのインユェの発言は、頭を抱えたくなるそれでしかない。

 そんな感想を呟いた後、男の造作はやはり整っていると、今までの観察から判断することになった。

「いい男だね、兄ちゃん」

 官吏に辺境の田舎者が、言うセリフではない。しかしインユェは、そういう言葉を使う。

 男はインユェを、ぎょっとした顔で見ている。

 明らかに理解不能の相手を、目の前にしているという顔だった。

「お前は、俺を見ても誰かわからないのか」

「知らない顔の相手を知ってるわけないだろ」

「お前は、殿下や陛下、妃を害するためによこされた暗殺者ではないのか?」

「それ違うってさっきも言った」

「違うのか? ではその身のこなしは、どこで習った?」

「北の山の牙をなめんな。牙はこれくらいできなくちゃ、牙じゃないんだぞ」

 インユェは唇を尖らせた。

「それ撤回して。アンサツシャとか嫌だそんなの」

「すまんな」

 男はあっさりと撤回をした。

「……俺は礼を言わなければならないだろう」

「そうだろうね。先に仕掛けてきて助けてもらうとか、どんだけなんだよ」

 冗談交じりに言葉を返せば、男が顔をしかめた。

「そうだな」

 男は短くそう言った。

 そして手を伸ばしてきた。敵意も害意もないしぐさに、インユェはあっけなく捕まった。

 おとがいをつかまれ、顔をまじまじと見つめられる。

 轟々、燃え盛る燃料はどこにあるのやら、それほど燃える瞳が、インユェをいっぱいに捉える。

 まただ、心臓がわななく。きゅうきゅうと奇妙な感覚を体にもたらす。

 この男の目は、今までであってきた男の誰とも違う目だ。

 似ていても、スイフー相手にこんな感情は生まれなかった。違いは何だ。

「気に入った」

「……あんたに気に入られて、どうなるわけ?」

 それでも牙という役割を担ってきた、のは伊達ではない。心臓がどれだけせわしなかろうと、わななこうと、臆しようとも、インユェの声は変わらない。

 どこまでも余裕を見せる。蟲相手に、縮こまってはいけないのだ。縮こまればその分だけ、相手に負ける。

 決して負けない、自分の方が強い、そういう態度にならなければならなかったことが、今ここでもインユェを恐れおののく乙女にさせようとしない。

 別に乙女でなくとも、構わないのだが。

「そうだな、俺の物になる」

「あんたの?」

「捕まえた者の物になると豪語したのはどこの誰だ? お前はいま、俺に捕まっているだろう?」

「ああ、そうだね。でも、あんたのほしがってるアンサツシャじゃないけど」

 男が言う、ことは間違いではない。インユェはそう言った。

 言ったのだから、言ったことを守るべきだ。

「暗殺者ではなくともいい。俺のものとして、俺のために人生を捧げろ」

「はあ、なんでそんな面倒くさいものしなきゃいけないの」

「他人の物になるというのはそういう事だ」

「んじゃ、逃げるわ」

「できると思うのか? 都のことを何一つわかっていないお前が?」

 そう言われると痛い。事実なのでなおさらだ。

「追っかけまわされんの?」

「そうだな」

「それってもっと面倒くさいな。あんたの物になるのとどっちが面倒くさい?」

「追いかけまわされれば、どこにいても安心できないぞ」

「そう言うもん?」

「そう言うものだ」

「じゃ、あんたの物になるわ」

「前言撤回か?」

「楽な方に流れたっていいだろ。ああ、でもどうしよう」

「何かあるのか?」

「うん。あのね」

 インユェは、自分の立場というものを説明しようとした。

 里の人が引っ張ってこられないようにしたいという、希望を述べようとした。

 だが。

「兄上!?」

 仰天した声が回廊の方から聞こえ、言葉は途切れた。二人はそちらに目をやった。

 スイフーが、それはもう仰天した顔で、こちらを見ていた。

 今にも回廊の手すりを乗り越えてきそうだ。

「スイフーか、どうした?」

「どうしたもこうしたもありません兄上!! なんなんです、なぜ彼女と?」

「兄上、あ、似てんの兄弟だったんだ」

 インユェは空気も読まないで感心した。

「インユェ、お前が朱宮から出たと聞いた時は驚いたが、なぜここに? 蛮族の女が衛兵を半殺しにして逃走中だと……」

「別に半殺しもしてないぞ。ちょっと脅かしただけで。たぶん、逃げ回ってんのおれだから、その蛮族の女はおれだわ」

 手すりを乗り越え、回廊に立ったインユェが言えば、スイフーはがっくりと肩を落とした。

「なぜそうなる……」

「スイフー、この女、気に入ったぞ。俺の物にしてやる」

 喜々とした声で、男が言う。スイフーがちらりと兄を見て、言う。

「もともと、兄上のために朱宮に呼び寄せた女です」

「なんだ、お前が桜花殿を開けたと聞いて、お前も女ができたと思ったんだがな」

「紫宮に兄上がお通いになるよりも、朱宮の桜花殿の方が、噂好きの宮廷雀をやかましくさせないと思ったのですが」

「桜花殿には、けばけばしい化粧の女が居座っていたぞ?」

「どこかで桜花殿を開けたという情報が回ったらしく、宰相の娘が自分がその主だと勘違いしたようです」

 ため息を吐くスイフー。

「そうか。ではこいつのいる場所は決まっていないのだな?」

 逆に、男の声がだんだんと楽しげな声に変わっていく。

「兄上、また突拍子もないことをお考えですか?」

 男がにやりと笑った。極上の悪い笑顔だった。それは悪童の笑顔と大差がなかった。

「牡丹殿を開けろ」

「兄上!?」

 牡丹殿がなんなのか、インユェにはさっぱりわからなかった。

 だが、それはスイフーを甚く仰天させる言葉だった。

 いったい何なのだろう。

 何かとんでもないことが始まった、とだけ、インユェは認識し、二人を見ていた。

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