1-2
その日の夜はいつになく騒がしかった。後宮というものは、夜中まで宴を行う人間たちで騒々しいものだった。
だが、後宮のいつものざわめきとは少し違っていた。
インユェが異変を感じて置きだす程度には、騒ぎの種類が違っていた。
「何の騒ぎだ」
周りの宮女たちが寝入っている中で、インユェはつぶやいた。同室の女性たちを鈍いと責めるわけにはいかない。インユェが本能的なだけだから。
いつもと違う、それだけで起きだしてしまう、狩人の本能を持ったインユェだから起きだしただけなのだ。
だが起きだしたインユェの言葉はあまりにも普通だった。
夜中に起こされてしまった人間としては普通の、疑問符。
騒ぎは着々と近づいてきていて、インユェでなくともそろそろ起きだしかねない。それくらい騒がしいのだ。
インユェはそっと、懐に匕首を忍ばせた。蟲の堅い装甲や分厚い脂肪を切り裂ける、特殊な刃を持った匕首だ。それはとある鉱物を木の剣にはめ込んだものであり、頑強なことと切れ味で右に出る名刀が存在しないものだった。牙たるインユェが持っている以上、同じだけの切れ味のものがあったとしても、それらがおられることは明白な事実であった。それを誰も知らないだけだが。
そんな、実に物騒なものでも、見た目がとても古臭い。旧時代の遺物のような見た目ゆえに、後宮という危険なものを取り上げてしまう場所でも、奪われなかったものの一つだ。
これで、今日も蟲を狩ったのである。きちんと手入れをしているので、匕首は切れ味を鈍らせない。
インユェは直感的に、寝間着を脱ぎ服を着て、長靴に足を通した。自前の服である。そして随所に蟲の皮を使った戦闘服だ。
染めに失敗した蟲の皮は、売りに出せない。そんなまだら色の皮は毒々しい青紫をしていて、とても保護色とはいいがたい。山では見つけてくれと言っているような色彩だが、意外と目立たないのだ。これが。
たぶんまだら色のせいだろう。様々な色があると、モザイクのように目立たなくなるということがあるからそれだ。
そんな、見るに堪えない色をした皮が張り付けられた服にきがえ、身構えていると扉が開いた。
そこでようやく、ほかの宮女たちも目を覚ました。彼女たちは突如現れた人間をみて、一様に目を見開いている。いったい何なんだ。インユェはわからなかった。その相手に、見覚えなどない。
「皇族に仕えている方よ」
無礼なほど堂々立っているインユェに、官女仲間がひそひそ声で知らせてくる。
インユェは頭を一度下げた。
相手は宦官らしい丸みを帯びた顔立ちと、体形をしていた。宦官の目は、寝間着姿の宮女たちではない、蛮族衣装のインユェでとまる。心もち見開かれる瞳。それは胡人の血を引いているのか、抜けるような青色をしている。
彼が口を開いた。声もやはり、宦官独特の中性的な声音だった。
「ここに大蜈蚣を退治できる女人がいらっしゃると聞きましたが」
宮女たちは一様に顔を見合わせた後、インユェをみやった。
インユェは頭をがりがりとかき回した後、答えた。
「ああ、おれ」
「でしょうね。その無作法ないでたちからも分かります」
「ふうん、これ、不作法なんだ」
「そうでしょう、この後宮でなぜそのような蛮族の衣装に身を包むのですか。皆優雅な衣をまとい、天女たちが集うようだといわれている皇帝の後宮であるのに」
「ああ、そうなの。で、なに。大蜈蚣でもでたの」
「まあそうですね」
すうっと目をすがめ、やや慌てた調子で宦官が言う。
それを聞いて、少し心が猛ってくる。
「どっち」
「は?」
「どっちに行けば、大蜈蚣に会えるわけ」
インユェは舌なめずりをしながら聞いた。それを見て、おののく女性たちなどどうでもよかった。大蜈蚣はたいそうな毒もちである、生半な手合いでは倒せない。
蟲全般に言えることなのだが、インユェからすればすぐさま狩への切り替えがしやすい大物である。大蜈蚣は名前の通り大きく、昨日倒した芋虫よりもはるかに大きい。
「大極殿の近くで」
「それ西? 東? 北? 南?」
建物の名称を口に出されても、彼女には通じない。なぜならば誰も、彼女にそれを教えたことがないからだ。知らないものは知らない。
本人が覚える気もない名前ならば、それは無駄な名前だった。
「それは」
言い淀む宦官。まさか方角で問われる日が来るとは思っていなかったらしい。それくらい、宦官のこの人物にとって、大極殿は当たり前の場所にある当たり前のものなのだ。
「もういい、勝手に行く」
インユェは窓を開けた。全身窓から飛び上がる。そして平屋の屋根に着地した。
その様は一匹の身軽な猫のようだった。猫ならばこれくらいのことを軽々と行うし、インユェは確かにそのたとえが似合っている。
平屋の屋根に着地して、あたりを見回せば、赤い平屋の屋根の連なる様子が月明りにくっきりとしている。
息を吸い込んだ。もちろん鼻で。なぜならば簡単で、大蜈蚣は臭う。その猛毒の強い刺激臭は、手練れの蟲狩には簡単に居場所を知らせてくる。
毒のにおいの強いほうに行けば、人肉を好物とする大蜈蚣は、勝手にインユェのことを、獲物だと思って向こうから襲い掛かってくる。
それも、肉の甘くて柔らかい、若い女は大蜈蚣にとってごちそうだ。
その女が、自分たちを狩る、より強力な相手だと気づくことはめったにない。
インユェは毒の匂いを嗅ぎつけた。方角は、北東だった。
あちらか、とだいたい距離を測る。
後は走っていくだけだ。もちろん、襲われた場合反撃する体力は残しておく。インユェはそれができる狩人だった。牙の名前は、飾りではない。
平屋の屋根は一定の高さであり、非常に走りやすかった。山の岩地と比べてはいけないのだが、平地と草原と、こういう高さが一定の屋根というのは本当に走り易い。
匕首をべろりとなめて唾液をつけ、インユェは走り始めた。
騒ぐ方向は徐々に近づき、距離は思っていたよりも近いことを知った。橙色の明かりを見て、炎の明かりを用いているのだと知る。
炎は基本的に、蟲を退ける手段の一つだ。しかしその方法は時として、危険だ。
特に腹の減ってしょうがない大蜈蚣には逆効果だ。村の誰もそんなことはしない。五つになる幼児だって、蜈蚣除けに炎は使わない。
炎は……人の存在を知らせる。その印は、大蜈蚣を猛らせる。奴らはそういう印に敏感だ。
すでに何人か食われているな、とインユェは判断した。近くなるにつれて、人の血のにおいが混じってきたからだ。人の血の匂いは、甘くて臭い。人間は特徴的な血の匂いをしているので、すぐわかる。
そして、耳に聞こえてくるのは、ぞろりぞろりという、大蜈蚣の堅い皮のこすれる音だ。
思ったよりも血の匂いが強い。それは大蜈蚣の数が想定よりも多いからだ。三匹は堅い。
三匹の大蜈蚣。村では、それだけの数の大蜈蚣が出てきた場合、自分とあと数人の爪を投入した。爪とは牙よりも一段下の狩人であり、普通の狩人でもある。
普通といっても、平地の蟲狩よりははるかに技術を持っているに違いないが。
「できっかな」
インユェは隠しきれない笑みとともに呟いた。
一人でも、インユェは三匹の大蜈蚣程度ならば屠れる。が、屠れるだけだ。泥仕合になりかねない戦い方をするし、結果として大蜈蚣の売り物になる装甲を、まったく利用できない殺し方をする。それを見越して、村長や頭たちは、インユェを補佐するために、爪を何人も投入するし、殺した後も刻みかねないインユェを止めるために、打撃用の武器を持った爪を走らせる。
いけるだろうか、倒せるだろうか。そんな不安はどこにもない。インユェにとってはそういうものだった。四匹だったら、三匹屠ってから相手にすればいい。一人で狩りを行うときはいつもそうしてきた。身を隠す木々はどこにもないが、この辺りは建物がある。それを使えばいい。
そして何より、空腹で力が出せなかった昨日とは違う。たくさん食べた。体に力がみなぎっている。
飛ぶように走った結果、大きい建物に到着した。炎が大量に使われていて、兵団が何とか大蜈蚣を止めようとしている。
インユェはひゅうっと口笛を吹いた。蟲の音だ。蟲はこの音に反応するようにできている。
それは長らく村で研究され続けた、蟲の注意を引く音だった。
大蜈蚣も、当然これに反応した。
瞳がこちらをとらえるのがわかった。獲物を見る複眼。顎を開閉させて、猛毒のよだれを滴らせている。
インユェはとびかかった。顎に着地と同時に、その頭に思いきり匕首を突き立てる。
神経の中枢だ。ここをやられると、大蜈蚣は動けなくなる。
インユェは間違えなかった。二匹目が、インユェに襲い掛かってくる。それを目の端で確認すると同時に匕首を引き抜く。蟲の青緑の体液がインユェを濡らす。しかしそれを気にも留めずに、装甲へ匕首を叩きこむ。体勢が悪かったらしく、装甲を撫で切るようになり、装甲だけを切ってしまった。地面に着地する。身の丈よりもはるかに大きい大蜈蚣たちは、自分たちの血の匂いでさらに、猛り始めた。
インユェはまた、匕首の刃をなめる。べったりと唾液をつけて、興奮する自分に気が付く。
確か大蜈蚣の体液は、興奮作用があった。この心躍る感覚もそれのせいだろう。
構うまい。自分の血はもう、十分猛り狂っている。
「お前! 逃げろ!」
兵士の制止の声がする。あんたたちよりは玄人なんだ。心の中で言い切り、二匹目と三匹目に向きなおる。
やはり全部で三匹だったのだろうか。もう一匹いてもおかしくないから、そのつもりで行こう。
細かく動く。間を抜けていき、匕首で装甲を切っていく。足を落とす。刃の短い匕首の担当なのが裏目に出ている。
村だったら、もっと大きな屠蟲鉈がつかえた。あれは大きすぎて持ってこられなかった。
あれがあればもっと決着は早いのに。
思いつつも、息は乱さない。装甲を切り裂き、肉まで達する一撃をふるまう。
手負いの怒り狂った大蜈蚣は、倒しやすい。見分け方も簡単だ。だって目が赤く光る。
蜈蚣たちは目が真っ赤だ。よし。
インユェは物騒に笑った。大蜈蚣は力も強いし突進の勢いもばかにならないが、それだけだ。
計算を忘れた生き物というものは、倒しやすい。
周囲はあちこち破壊されていく。整った庭園は無残。
それらはインユェが来る前からそうだったので、侵入を許した時に壊されたのだろう。
そのことでもめたりはしないはずだ。
そしてとうとう、装甲から体液を流して、二匹が倒れた。体液の出しすぎだ。インユェはこれを狙っていた。わざと太い血管というべき管を攻撃し続けたのだ。
近づいてから、とどめを刺す。
開始から十分も立っていない、鮮やかな倒しっぷりだった。
頬に就いた体液を袖でぬぐい、また顔に広げつつ、インユェはこれを解体するべきか悩んだ。
その時だった。
脇から破壊音がして、建物の壁が吹き飛び、一人の男が転がってきた。
続いて大蜈蚣、それも無傷の大蜈蚣があらわれた。
男はちらと見れば満身創痍で、やられっぱなしということが伝わってきた。
それを認識する前に、インユェは匕首を投じていた。
そして投じられた匕首は見事な線を描き、大蜈蚣の額に突き刺さった。
大蜈蚣の心臓は額にあるのだ。そのため額は装甲が他の個所の二倍はあるという分厚さだが、一撃で仕留めるならばそこが狙い目立った。
そして、インユェの全力で持って投じられた匕首は、間違いなく心臓を貫いたらしい。
大蜈蚣が、倒れこみけいれんを始めた。
それを見つつ、男に近づく。
見覚えのある男だった。間違いない、同じ蟲の肉を食べたあの男だった。赤い髪も顔つきも、何から何まであの男だった。
「お兄さん大丈夫?」
インユェはのんびりと声をかけた。
男のうめく声。大丈夫そうである。
気づけば、増援部隊だったらしい兵団が、姿を見せていた。
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