第5話 分譲と賃貸に貴賎はなく、されど
涙をぐっとこらえて便所から戻ると、新之助の姿はなく、ヒロが一人スマホの画面をいじっていた。
「あれ、新之助は?」
「奥さんから電話かかってきたみたい。外出ていった」
「そっか、あいつももう家族持ちだもんなあ」
俺がしみじみとそう言うと、ヒロが「あ、そういえば」という顔をした。
「ゆきやん、しんちゃんから聞いた?しんちゃんさ、去年家買ったんだよ」
「え、聞いてない。どこに?戸建て?それともマンション?」
「マンションだよ。最寄り駅はどこだっけかな、本人戻ってきたら聞いてみて」
まじかよ……。27歳にて結婚どころか、マイホーム持ちだと?
俺が関西に出張ってる間に随分と先を越されたものだ。やっぱり時間は伸縮するんだよ。地方と東京とじゃ、流れる時間の密度が違う。俺は一体今まで何やってたんだろう。いたたまれなくなって、ビールを一息に喉に流し込んだ。どこに?だなんて聞いた自分が情けない。馬鹿なプライド丸出しだ。俺の唯一の誇りだった、麻布住まいのステータスが、それが賃貸だという事実を突きつけられ突然にみすぼらしくなる。しょせん、自分の持ち物ではなく、他人に金を払って住まわせてもらっている仮の家にすぎないのだ。
「ゆきやん、つぎは何飲む?」
「ハイボールを頼む」
ヒロが気を利かせて、歩いてきた店員に声をかけ注文してくれる。
「ちなみにヒロは、いまどこに住んでるんだっけ?」
「僕は千駄ヶ谷だよー」
そうだ、千駄ヶ谷。地味ながらも、良いとこに住んでいる。確かこいつはコンサル時代に、六本木に住んでいたんだ。そして俺が東京に越してきた一年前の飲みの集まりで、
「六本木は家賃が高いし、それになんだかうるさくて、もう疲れたよ」
なんて、言っていたことを思い出す。そして、
「でも一応ある程度おすすめのお店のストックはできたから、いくつか紹介できるよ」
とも言っていたことも。
ヒロのことを都落ちだなどは、思わない。むしろ、外資コンサルでエリート連中と付き合いを持ったヒロにとっては、六本木は足下おぼつかぬ浮ついた連中が住む街で、一周回って千駄ヶ谷みたいな落ち着いた街の方が魅力的に映るのだろう。まさか俺が、ヒロが辿った軌跡を数年遅れで着いていくことになるだなんて……。
そうこうしているうちにデカイ図体の新之助が戻ってきた。
俺は新之助に声をかける。
「新之助、家買ったんだってな。この勝ち組め、どこに買ったんだ?おめでとう」
自分の言葉の端々に嫉妬の響きが含まれちまうのは、なんでなんだ?
「お、ヒロから聞いたのか」
「いいよねー、マイホームだなんて。僕もほしい」
ヒロの言葉には、嫌味も嫉妬も感じられない。そこにあるのは文字通りの羨望で、その裏に何か別の意味が込められているわけでもない。きっとマンションだって、買おうと思えばすぐにでも買えるはずだ。俺の給料だって決して悪いわけではないが、今はもう随分差がついたかもしれない。余裕ある者の発言は、そいつをもっと余裕あるように見せる。余裕あるように見えるから、一層仕事を任され出世し、さらなる余裕が生まれる……。
「二子玉川だ。俺は、もっと都心のほうが良かったんだがな。
茉莉さんは、新之助の奥さんの名前で、俺も何度か面識がある。新之助と同じL社の先輩で、茉莉さんの方から相当なアプローチがあったらしい。新之助もどちらかと言えば、年上好きで、まんざらでもなかったようで、当時まだ関西にいる俺は、新之助からよく惚気なのか、悩み相談なのかわからぬ連絡をもらっていた。一昨年の夏、2人は俺の想像よりもずっと早く結婚をし、それ以降新之助の俺への連絡頻度を見るからに減った。
「二子玉か。へぇーいいなあ」
だなんて、当たり障りのない相槌を打つ。
だから俺はいったい何を期待してたんだよ?もしこいつが板橋や足立区に居を構えていたら、俺の矜持は保たれたのか?豊洲のタワマンに住んでたら、
「津波が起きたら大変そうだな」
なんて嫌味を言えたのか?エレベーターババアの愚痴をこぼそうと思っていた俺のプライドは、今やもうズタボロだ。こいつらと何を話せばいい?何を話すにも自分を卑下しちまう。そしてそんな自分が、見栄張ってウジウジと悩む自分が、とんでもなく嫌いなんだよ。
目線を落としていると、新之助がヒロに言う。
「雪哉にあの話はしたのか?」
「まだー。新之助から言ってもらったほうがいいと思ってさ」
「なんだよ、誰が言っても同じだろ」
そんな会話をして、新之助が俺の方に向き直り、まっすぐに俺の眼を見つめる。
「実はさ、今日飲みに誘ったのには理由があるんだ」
俺はハイボールのグラスを傾ける。
「理由?」
「うん。実は、うちの社内で近々ビジコンが開かれるんだ。俺とヒロはもう参加することを決めてるんだが。雪哉、お前もよかったら一緒にどうかな?」
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