96.事件~三人称~

 一月下旬の土曜日。梨花は朝から部活に行っている。この日は練習試合で、昼を跨ぎ夕方前に帰って来る予定だ。陸と紗奈は自宅で仕事。午前中、二人で書斎にいた。すると陸は一本の電話を受けた。


「権田さんが今日、俺達が出向くんじゃなくてこっちに来るってよ」


 陸は電話を切った後、オフィスチェアーに背中から体重を掛け、紗奈に言った。


「ん?  そうなの?  全然いいけど、なんでまた?」

「営業所の他の営業マンの契約が立て込んじゃったみたいで。応接室も打ち合わせブースも空いてないらしいんだ。時間は予定通り2時」

「わかった。じゃぁ、玄関とリビング片付けとくね」

「頼むわ」


 そう言って紗奈は立ち上がった。リビングは普段から梨花が綺麗にしている。玄関も然りだ。人を迎える上で、細かな所の整頓だけである。リビングはサンルームのブラインドを下ろす。玄関からは一切の靴をシューズクロークに仕舞う。


 紗奈はそれが終わると昼食の準備のため、キッチンに立った。紗奈は料理が趣味というわけではない。しかし奉仕精神旺盛な紗奈は、陸と梨花のために料理を作るのが好きだ。この日は梨花には弁当を持たせたので、この時作るのは二人分だけだ。


 程なくして昼食が完成すると、ダイニングテーブルに陸を呼んだ。そして二人で昼食を食べ始めた。


「えへへん」

「えらいご機嫌だな」

「だって、今まで土曜日は一人でお仕事してたから」

「負担かけちゃったな」

「あ、そう言う意味じゃなくて。先輩が部活を引退したことは正直寂しいんだけど、ただやっぱり二人の時間が増えたことは嬉しいなって」


 そう言いながら昼食を口に運ぶ紗奈。その様子をはにかんで見る陸。ただこう言いながらも、紗奈は一人で仕事をしてきたことで、1年前の陸の苦労を垣間見たと思っている。それはそれでいい経験だと感じているのだ。


 昼食を食べ終わるとしばしの休憩を挟んで二人は仕事に戻った。そしてやがて手塚不動産の権田が来た。

 この日は手塚不動産が管理委託を受けている、天地事務所所有の収益マンションの打ち合わせだ。管理料や賃料の見直しであったり、修繕計画の確認であったりと言ったところが主である。


 その話がほぼ済むと、権田は陸に雑談を振った。相手が興味を引く雑談を投げかけるのも営業の手法である。


「代表、見ましたよ。冬の高校サッカー」

「え?  本当ですか?  でもベスト8だから、全国ネットじゃないですよ」

「ローカルチャンネルで確認してましたよ」

「わぁ! さすが権田さん」


 紗奈が感嘆の声を上げる。それに権田が続ける。


「全国ベスト8って凄いですね」

「いえいえ。本当はベスト4までいきたかったんですけど」

「いやぁ、大したもんですよ。代表のプレー見て驚きましたもん」

「準々決勝は3失点もしてしまって……、恥ずかしい」

「何をおっしゃいますか。…………」


 権田が褒め、紗奈が相槌を打ち、陸が謙遜すると言う営業トークが続く。そうしてひとしきり話すと、権田は陸の家を後にした。この時時刻は午後3時過ぎ。1時間少々の訪問であった。予定通りだ。むしろ来てもらった分、移動の時間が余った。

 陸は権田を見送ると紗奈に言った。


「もらった資料、納戸に仕舞っといて」

「了解、代表。ついでに納戸の資料の整理もしとくよ」

「助かる。俺は書斎で仕事してるから」


 そう言って陸と紗奈は各々の仕事に就いた。


 陸の家には納戸が二室ある。梨花の部屋に近い奥の納戸はサナリーの季節物のクロークだ。玄関脇の玄関収納と一体になった納戸が天地事務所の資料庫になっている。

 玄関収納は玄関からのアクセスだが、納戸は廊下からのアクセスだ。この二室は框を介して上足と下足に分かれており、一体の空間だ。玄関収納は文字通り玄関収納として使っている。紗奈はその納戸側の空間で資料整理を始めた。


 来客を考慮して普段から締め切りの寝室のドア。陸はそれを開けた。そして寝室でスーツのジャケットを脱ぐとハンガーに掛けた。

 暖房の効いた室内なのでジャケットまで着る必要はない。ただクールビズの季節ではないので、来客の際はジャケットを羽織っている。


 陸は廊下には出ず、そのまま書斎に入るとパソコンと向き合った。パソコンの奥、寝室を繋ぐ二枚の引き違い戸の脇の壁に、サッカーのユニホームが飾られている。胸には『天地事務所』とゴシック体のロゴがプリントされている。紗奈が梨花の誕生日に用意した物で、1枚余ったユニホームだ。


 背番号は11番。梨花の背番号を12番にしたため、10番の自分と繋ぐ番号として紗奈は選んでいた。背番号の上のネームは『R.S』。Rが梨花と陸。Sが紗奈とそらの頭文字だ。


 この頃梨花は部活を終え、自宅マンションに帰ってきた。エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。高層階なので少し時間が掛かるが、それももう慣れたものだ。ただこの日は寒く、梨花は早く家に入って暖を取りたいと思っていた。


 自宅の所在階でエレベーターのドアが開くと権田が立っていた。権田は玄関を出ると顧客からの電話を受け、それを終えてからエレベーターを呼んでいた。しかしこの二人は面識がない。特に言葉も交わさず、二人はすれ違ったのだ。

 共用廊下を進み、梨花は自宅前に立つと鍵を回した。そして玄関ドアを開けた。「ただいま」と言おうとしたが、玄関に一切靴がないことに気が付く。


 ――あぁ、そう言えば、二人で不動産屋に行くと言っていたな。帰りはもう少し後だっけ。


 そう思った梨花は何も言わずに玄関を上がった。この時寝室のドアが開きっぱなしであることを目が捉えた。梨花は真っ直ぐ自分の部屋に行き、荷物を置いた。そしてコートを脱いだ。梨花はエアコンを作動させたが、まだ部屋が温まる様子がない。


 ――寒いなぁ……。あ、そうだ!


 梨花は思い立った。玄関に入った時、寝室のドアが開いていたことを思い出してのことだ。部屋が温まるまで自分のベッドに潜り込むことは考察から除外し、陸の寝室のベッドに潜り込もうと考えた。そして廊下に出た。


 紗奈は納戸で資料整理中だ。資料の中身を確認している時は真剣に読んでいるので、物音が立たない。陸はこの時書斎。机の隙間にペンを落としてしまい、デスクの下に潜り込んでいた。


 ――うぅ、腕攣りそう……


 かなり狭い所に滑り込んでしまったようだ。年末に大掃除はしたが、デスクの下はコンセントなどがあり、埃が多い。埃を吸い込みたくないので声は出さない。


 梨花は開きっぱなしの寝室のドアを潜った。書斎との引き違い戸が少し開いている。書斎には誰もいないことを確認した。陸と紗奈はいないと認識していたが、再確認だ。梨花はブレザーを脱ぎ、床に放ると陸のセミダブルベッドに潜り込んだ。


 ――ほわぁぁぁぁぁ。温かい。


 梨花のお気に入りの場所である。梨花の愛する二人の神聖な場所。その温もりが梨花は好きだった。寝室に入ってすぐ、このベッドを目の当たりにした梨花。几帳面な梨花ではあるが、ブレザーを床に放ってでもすぐに入りたいほど好きな場所なのである。

 梨花は自室のエアコンが室内を温めるまでここで過ごそうと思った。


 陸はやっとの思いでペンを取り出し、再びパソコンに向いた。引き違い戸の窓側はベッドの枕棚がありいつもの通り閉め切り。普段通用に使っている一枚は少し開いている。そこからベッドは見えない。陸は特に気にすることもなく仕事を続けた。


 数分が経過した。紗奈は納戸、陸は書斎、梨花は寝室のままだ。梨花はそろそろ部屋が温まっただろうとは思ったが、動かなかった。それはやはりお気に入りの場所だから。時計を確認するとあと数十分から1時間もしないうちに陸と紗奈が帰って来ると思った。


 ――どうしようかな。


 そう思いながらも梨花はブラウスのボタンを外し始めた。インナーに着ていたキャミソールを捲り、ブラジャーのホックを外した。そして毛布の下でスカートの中に手を入れ、更に下着の中に手を滑り込ませた。


「ん……はぁ……」


 少し声が出た。自分の耳に届く程度の小さな声だ。片手はスカートの中、もう片方の手は自分の胸。陸の枕で陸の匂いを感じながら、既に何度も見た陸と紗奈の行為を回想する。梨花にとっては美しいと思える、自分が愛する二人の行為だ。


「あんっ……」


 書斎のデスクで陸は顔を上げた。そして引き違い戸を見る。


 ――声がした?


 気のせいかとも思っている。誰の声で、どういう言葉なのかも認識できないほどの微かな声。


「あぁっ……」


 ――やっぱり。


 少し苦しそうにも感じる声。紗奈だろうか? しかし書類整理をしていた紗奈がなぜ寝室に? ――そう思い、陸は席を立ち上がった。そして歩を進めると少し開いた引き違い戸に手を掛けた。


「陸先輩、紗奈……」


 ――あれ? 名前を呼ばれた? どういうことだろう?


 陸には意味が全く分からなかった。この時梨花はベッドで横になりながら廊下側を向き、陸の枕に顔を埋めていた。口も半分埋まった状態だったので、自分の声が変声していた。それに川名麻友にしか聞かせたことのない声色だ。


 陸は引き違い戸を引いた。目に入ってきたのはベッドで横になる人物。すぐに視線を落とし、枕元を見た。女の髪だ。


 梨花は引き違い戸が開いた音にハッとなった。そしてその方向を見上げる。するとそこには陸が立っていた。


「きゃーーー!」


 梨花は悲鳴を上げ、肌蹴ていた毛布で体を隠した。陸は唖然としている。人物が梨花で、その梨花が何をしていたのかを即理解した。すると言葉が出ない。早くこの場を離れなければと思うが、足が動かない。梨花は毛布に包まったまま震え始めた。


 ――見られた。


 梨花はショックだった。大好きな人に恥ずかしい行為を見られた。しかもその大好きな人の神聖な場所でしているところを。梨花に絶望が襲う。そして罪悪感が襲う。


「え……」


 その言葉は廊下から聞こえてきた。紗奈が寝室のドアを跨ぐ位置で室内を窺っていた。紗奈は梨花の悲鳴に気付き、納戸を出て寝室に様子を見に来たのだ。するとブレザーが落ちていて、梨花が毛布に包まって震えている。


 ――陸先輩は? 梨花の悲鳴の後に立ち上がって書斎に身を引いた?


 ドンドンドン。


「なんてことしてんの!」


 ボゴッ。


 ガンッ。


「グーかよ……」


 順番に解説すると、紗奈が床を踏み鳴らす足音。紗奈の怒鳴り声。紗奈が陸を殴った音。陸がよろけて引き違い戸を掴んだ音。そして陸の嘆き。すべて三人の信頼を揺るがす崩壊の音だ。次の声はすぐにベッドから発せられた。


「違うの紗奈! あたしがいけないの! 陸先輩は何も悪くないの!」


 梨花は震える声で紗奈に訴えかけた。淫らに服が乱れているので身体は起こせない。しかし、顔はしっかりと紗奈に向けた。目が熱くなるのがわかる。


「どういうことよ?」


 紗奈は梨花に敵意を向けた。そして梨花に近づくとそっと毛布を持ち上げ中の状態を確認した。


「ちゃんと説明するから……」


 梨花はとうとう泣き出し、涙声で紗奈に言った。


「わかった。リビングで話そう。陸先輩も来て。梨花はシャワーを浴びたら来て」


 紗奈はそう言うとリビングに行った。陸はのそのそと紗奈に付いていった。

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