35.感情の正体~陸~
静かな朝。俺は完全に夢の中だ。
「先輩、起きて。遅刻するよ?」
「ほえ?」
少しだけ現実の世界に意識が向いた。聞こえたのは梨花の声だが遅刻と言ったか? 俺は手探りでスマートフォンを探し当てた。そして電源を押してみる。まだ霞む視界に入ってきたのは表示される時刻。
ガバッ!
一瞬で目が覚めた。なぜこんな時間まで寝ていたんだ。完全に寝坊だ。毎朝の目覚まし代わりの梨花と紗奈の喧騒がなかった。起こしに来てくれた梨花は既に制服姿だ。俺は慌てて顔を洗いに行った。
その後着替えて食卓に着くと、俺一人分の朝食だけが用意されていた。急いだおかげで普通に食べればいつも通りの時間に家を出られる。ゆっくりは食べられないが。
俺の正面の席が紗奈。その隣の席が梨花。二人の分の朝食は用意されていない。
「二人とももう食べたのか?」
「当たり前でしょ」
自分の指定席に座って俺を待っている梨花が答えた。どうやらサナリーの朝食はもうすでに片付けまでが終わったようだ。しかし朝から一度も紗奈の姿を見ていない。
「紗奈は?」
「もう学校に行った」
「え? もう?」
「うん」
いつもより早い時間だ。思い返してみれば顔を洗っている時に玄関ドアの開閉音が聞こえたような気がする。その時に紗奈は家を出たのだろう。今日はまだ一度も話していない。
昨日の夕方、俺は紗奈を泣かせた。経緯はあるが、なぜ涙を流したのか理由がわからない。経緯とは俺の性経験を紗奈が知ったことだ。梨花みたいに興味を隠さず聞いてくれた方がわかりやすい。ただ、それはそれで困るが。
朝食を食べ終わると俺は紗奈が作ってくれた弁当を鞄に詰め、梨花と一緒に家を出た。駅まで歩く道中で梨花に聞いてみる。
「紗奈ってやっぱまだあの調子なの?」
「まぁね」
「どうしたんだろうな?」
「アホ」
なぜ俺がアホと言われる? やっぱり俺が悪いのか? 俺が原因なのか? 昨日の状況からしてそりゃそうだろうけど、俺は恐る恐る梨花に聞いてみた。
「俺が、悪いんだよ……な?」
「そうだよ」
即答。ちょっと……いや、かなり凹む。
「俺の何が紗奈を傷つけたんだろ?」
「さぁ? それは自分で気づくべきじゃない? あたしから言ってもあたしには不利益しかないし」
冷たい反応。それに梨花にとっても不利益を生むような話なのか? まったくもって訳がわからない。
「紗奈が言ってたよ? 先輩は社会経験が豊富で人を見る目は養われているのに、なんでこういうことには鈍いんだろう? って。それはあたしも同感」
「どういうこと?」
「あたしが言えるのはここまで」
それ以上梨花は詳しい話をしてくれなかった。時折冷たい反応を示すものの、特に機嫌が悪いというわけではない。それ以外の雑談ならいつもの癒される笑顔を向けて応じてくれた。
この日の昼休み、俺はいつものメンバーで弁当を突いていた。公太と圭介だ。俺は紗奈が作ってくれた弁当を食べる。この場にこの弁当の作り主が紗奈だと知る者は俺以外いない。
紗奈の弁当は本当に美味しい。おかずは夕飯の残り物が大半だが、弁当のために調理したおかずも必ず入っている。つまり手を抜かない。
「もうすぐ予選だろ? 今年は背番号取れそうか?」
「あぁ。背番号は確実だと思う。今はレギュラーまで狙ってるぜ」
「すげーな」
公太と圭介は野球部の夏の甲子園の東京予選の話をしているようだ。しかしあまり内容が入って来ない。はぁ、なんでこうなったんだろう。
「なぁ」
俺は徐に声を発した。公太と圭介が顔を上げて反応を示す。
「人の性経験を知って泣く女の子の心境って何なんだろうな……」
「……」
「……」
返事が返ってこない二人。なんだ、この沈黙は。いかん、どうやら俺はいきなり変な話題を振ってしまったようだ。
「あ、いや。友達の、知り合いの、知り合いの、友達がさ、それで女の子を泣かせたって言うもんだから」
慌てて言い繕う俺。なんだか果てしなく遠い親戚の話でもしているみたいな言い方になってしまった。
「そりゃ、嫉妬だろ」
やっと声が返ってきた。答えてくれたのは公太だ。
「嫉妬?」
「あぁ。その女がいつから男のことを好きだったかはわからんが。もし好きな期間に、知らないうちに他の女とそういう関係になってたら、そりゃ嫉妬するだろ?」
あぁ、なるほど。――って、おい! それじゃ紗奈が俺のことを好きだと言っているようじゃないか。ありえん。いつも揶揄ってくる紗奈がそんなこと。
こいつらに聞いた俺がバカだった。経験のない圭介は何も答えられないし、公太はもてるから経験はありそうなので期待したのに。だめだ、これでは解決にならない。やっぱりちゃんと本人と話すべきか。俺はそう思い立った。
弁当を食べ終わると、そそくさと弁当箱を片付け、スマートフォンを操作し始めた。
『弁当美味しかった。ありがとう』
まずはこんな感じかな。メッセージを送った相手はもちろん紗奈だ。既読はすぐに表示されたので読んでくれたようだ。しかし数分待っても返事が来ない。はぁ、やっぱり俺が傷つけたんだよな。俺はもう一つ気合を入れてメッセージを送った。
『今から屋上で俺と話さない? 紗奈の次の授業が大丈夫ならだけど』
『わかった。行く』
返事がすぐに返ってきて安堵する。雑談程度のやりとりはしてくれないが、話をしたいという姿勢を見せれば、それには応じてくれるようだ。俺はすぐさま席を立ち、公太と圭介に言った。
「ちょっと用事があるから出てくるわ」
「あぁ、うん」
どっちが返事をしてくれたのだろう? そんなこともわからないまま急いで俺は屋上に向かった。
階段を上がっていると思う。紗奈も自分の教室から真っ直ぐ屋上に向かうのなら、この階段を使うだろう。まぁいい、とにかく屋上で待とう。
屋上の風を感じていると紗奈はすぐに来た。屋上にはカップルらしき生徒が一組いる。距離が遠いので会話まで聞こえないが、仲が良さそうだ。
「話って何?」
紗奈は俺に近づくとぶっきら棒に言った。紗奈の態度に心が折れそうだ。いやしかし、今の良くない雰囲気を改善しなくては。俺はなるべく柔らかい表情を意識して、そのうえで真剣に切り出した。
「うん。昨日のことの理由を知りたくて。そのうえで俺が悪かったなら謝りたいと思って」
紗奈は俺の横まで来て、屋上の高いフェンスに手を掛ける。俺はフェンスに背を向けているので紗奈とは180度違う景色を見ている。
「別に先輩が謝ることは何もないよ」
紗奈はそれだけ言った。優しい言い方ではある。横目に紗奈の髪が揺れているのがわかる。
「けど、それだと今の良くない空気のままだし」
それに対して紗奈は何も言わない。何を考えているのだろう? 紗奈は今どんな表情をしているのだろう? そんなことを考えていると、少しの間を開けて紗奈が口を開いた。
「先輩は去年彼女がいたの?」
「え? いや……いないけど。俺彼女いたことないし」
「じゃぁ、なんで童貞じゃないの?」
「それは……」
回答に詰まってしまう。誤魔化したい。けど、そんなことをしたら雰囲気がより悪化するのは目に見えている。
「つまり、付き合ってない人と……。もしかしたら好きでもない人とエッチしたってこと?」
正解です。美鈴さんのことは人として好きだったが、恋愛の関係ではなかった。それをどう答えよう。結局悩んだところでイエスかノーでの回答しかないよな。
「まぁ、そういうこと」
「先輩は好きでもない人とエッチができるんだ」
言葉がない。けど、これでわかったような気がする。紗奈はそんな俺の経験を知って嫌悪感を抱いているのだ。去年の夏に済んだことだから今更どうしようもないが。
「相手は誰?」
紗奈のその質問を皮切りに、俺は去年の夏のことを根掘り葉掘り聞かれた。もう今更どうしようもないので正直に答えた。時々紗奈の横顔を見ると、紗奈は悲しそうな目をしていた。ずっと屋上から見える先の景色に目を向けたまま。
「今日お仕事と家事、お休みしてもいい?」
話を聞き終わると紗奈はそんなことを言った。仕事はすごく助かっているが、強制はしていない。家事だって色々予定はあるだろうから、たまに休むのは構わない。けど理由は気になる。
「それは全然いいけど、なんで?」
「クラスの男の子に家に呼ばれてるの。期末テストの見直しをしようって」
「は!?」
俺は驚いて声を上げた。男の部屋に行くのか? 紗奈が?
「他に誰か一緒なのか?」
「ううん。二人だけだよ」
「それはだめだろ」
俺は紗奈の回答に間髪を入れず言った。思わず力がこもってしまった。
「なんでよ?」
「そりゃ、男の家に行くなんて、何があるかわからないし」
「私に何があろうと先輩には関係ないことでしょ? 先輩だってやることやってきたんだから」
「いや、だけどな……」
完全に揚げ足を取られてしまった。それでも引くわけにはいかない。返す言葉を探していると紗奈が先に言葉を足した。
「どういう心境で拒否してるの? 今の先輩は」
「どういう心境って、そりゃ紗奈を心配して」
「心配って、なんで私は心配をされるの? 私は先輩の何なの? ただの後輩でしょ?」
「えっと……、それは……」
紗奈は俺の……、はっきり言葉が出てこない。木田のことがあってから一度は異性として意識した。それは認める。けどやっぱり今の生活が楽しくて、意識を戻した。紗奈は俺にとって可愛い後輩で、大事なルームメイトだ。けど、それって紗奈が言うように、心配をする立場にあると言えるのか?
「お仕事と家事が問題ないならいいよね? じゃぁ私行くね」
「ちょ、待って」
俺は立ち去ろうとする紗奈の手首を咄嗟に掴んだ。
「何よ?」
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴が二人の時間を邪魔する。なんで俺は紗奈を引き留めた? 理由がわからない。けど感情で動いたことだけはわかる。その感情の正体とは何だ? 視界の隅でカップルらしき生徒が屋上を後にするのが映った。
「予鈴鳴った。授業に遅れる」
「俺、たぶん……」
「たぶん何?」
「嫉妬してる」
あぁ、口に出して確信した。俺が抱いていた感情の正体は嫉妬だったのか。紗奈を他の男の元に行かせたくないという独占欲だったのだ。
「うぐっ、何よ、それ……。バカじゃないの」
ずっと無表情だった紗奈がこの場で初めて表情を崩した。声を震わせ泣いている。そして紗奈は俺の胸に頭を預けた。強く拳を握りそれも俺の胸に添える。
「先輩嫌い。大嫌い」
紗奈は泣きながら言う。俺はそっと紗奈の肩を抱いた。
「けど好きだよ、先輩。ずっとずっと好きだったよ。中学の時からずっと好きだよ」
「紗奈……」
俺はそのまま紗奈を優しく抱きしめた。紗奈は俺のことが好きだったのか。そして俺もたぶん……。
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