第50話 それぞれの覚悟

 償い……。


 その言葉にマーナリアは両手をきつく握り締めて瞳を閉じた。

 心の中に芽生えた黒々とした感情。色々な考えと混ざり合い、とても複雑なものになっている。


 自分は一体どうしたいのかが分からなくなっていた。


「……分かりません。リガルナが彼を危険な状況にまで追い込んだ事で、私の中に今まで感じなかった感情が生まれました。瀕死のセトンヌの姿を直視した瞬間、私、リガルナの事を……」


 ぽつぽつと語るマーナリアの言葉を、銀狼は静かに聞いていた。

 小刻みに体を震わせる彼女の姿を見つめていた銀狼は浅いため息を吐く。


『それが人間と言うものだ。大切なものを失いそうになった時、あるいは失った時、心に生まれた恐怖と憎悪、悲しみをその原因にぶつけたくなるもの。――巫女よ、物事をよく見極めるのだ。その胸に芽生えた感情、そなたはそれをどうしたい? 己が導き出した答えが、良きにしろ悪しきにしろ、それがそなたの人生だ』


 銀狼の言葉に、マーナリアはピクリと体を震わせた。


 自分の中に生まれた、リガルナに対する憎しみを感情のままに彼にぶつける……?


 しかしそれではこれまでと何ら変わらない。そうしてしまったら、あの日、彼を意図的に追い詰めた事を認めてしまう事になる。そんな自分の感情だけで走ってしまうようでは、神に仕える巫女としての立場は何だというのだろうか……。


 神は言っていた。彼は罪なき彷徨える子羊だと。


 マーナリアは下唇を噛み、もう一度自分の心と向き合う。


「……恨みや、憎しみは……決してよい結果をもたらしません。それどころか周りを巻き込み、更なる負の感情を呼び覚ます。そんな中で、争いが無くなる事など絶対にないのです」


 これまでの自分の考えを見直すかのように、そして確かめるように、そう口にする。

 閉じていた目をゆっくりと開き、目の前にいる銀狼へ眼を向けた。が、そこにはサルダンの鞘が置かれているだけで、銀狼の姿はどこにもなくなっていた。



               ******



 切り立った崖の上から、滝つぼをめがけて勢い良く水が流れて落ちる。大量の細かな水しぶきを撒き散らし、それらは靄として辺りを包み込んでいた。

 その滝から少し離れた川下で、傷口を洗う目的で上半身裸のまま全身ずぶ濡れになったリガルナが、背を向けたまま腰までの深さの水に浸かって立っている。


 僅かに俯くようにして立っていたリガルナの背中全体には、セトンヌが引き連れてきたレグリアナの魔術師によって放たれた攻撃により、とても大きな傷跡が長い髪の隙間から見えた。

 一瞬にして焼かれ、黒ずんでいた皮膚は剥げ落ちて、まだ完全には癒えていない引きつった赤黒い傷がその背中に残っている。


「……」


 ズキズキと脈打つように痛む傷に顔を顰め、静かに痛みに耐える。

 治癒の力を使う気はない。しかし傷をそのままにしておくわけにもいかず、リガルナはあの日以来、薬草の多く生えそろう森の奥に身を潜めて体を休ませていた。


 細長い布を利用して体に薬を巻きつけながら、水面に映るその自分の姿をぼんやりと見つめていると、ふと右の瞼から額にかけてある、幼い頃についた傷が目に留まる。古いはずのその傷もまた、引きつって変色していた。その生々しい傷跡は未だに痛む時があった。


 髪から滴る水が水面に波紋を作り、そこに映り込む自らの姿。

 今はもうこの姿こそ利用する。これはもはや自分にとっての欠点ではなくなっていた。なくなってはいたが……。久し振りに見る自分の姿に、リガルナは目を細め怪訝そうな表情を浮かべて視線を逸らした。


 体に残る多くの傷跡。この傷の数だけ、自分は多くの罪を背負い、孤独を連れていかなければならない。これは、一生付き合っていかなければならない傷だ。


 生きていく上で、この傷を見る度に苦い思い出をいちいち思い出す事になるのは癪に障る。


「……っ」


 ゆっくりと水辺から上がると、リガルナは傍に置いてあった衣服に着替えて何の気なしに空を見上げる。

 分厚い雲に覆われて、今日は星空を眺めることが出来ない。しかし、リガルナにはその方が良かった。星空を見ると、思い出すのはアレアの事しかない。



『空は、満天の星空ですか……?』



 そう訪ねてきた、発作の起こる直前の言葉が耳からついて離れない。


 ホウホウと鳴くふくろうの声を耳に受け、リガルナの闇を見据えているその目には、ただ寂しさの色だけが残る。


「全てが終わるまで、俺は死ねない……」


 全ての人々に報復を。いや、何よりもまずレグリアナの全てを消し去らなければ、リガルナの復讐は終わらない。


 リガルナはスゥッと目を閉じると風を呼んだ。地面に着いていた足がフワリと宙に舞い上がると音もなく体が宙に舞い上がる。


 眼下には森と、その先にはトルタン大陸に残っている唯一の港町が見えた。

 今頃は生き残った僅かな人間たちがこぞってあの港町に集まり、大陸の脱出を試みていることだろう。その証拠に、港にはとても大きな船が停泊しているのが見える。


 リガルナはゆっくりと、港町から背後にそびえる死山に眼を向け、目を細めた。


 ……あれから、あの洞窟には戻っていない。


「……」


 リガルナはすっと眼を伏せ、洞窟に背を向けると港町に向かって飛び去った。

 レグリアナに渡り、全てを終わらせるために。

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