第9話 突き放された手

「お前ら二人とも俺を裏切ったんだ。これは当然の報いなんだよっ!!」


 トーマスは大きく目を見開き、気が触れたかのように口元には薄ら笑いすら浮かべて、執拗なまでにフローラとリガルナを殴りつけた。


 それは来る日も来る日も続いていく。それまで暖かな家庭が築かれていたはずの家には、暗雲が立ち込め笑顔も会話も完全に途絶えた。暗い家から聞こえてくるのは、激しい罵倒と殴打する音ばかり。それは当然のように近隣住人の耳にも入り、「家庭内暴力だ」「あんなに感じの良い人だったのに」などと、影で冷ややかに囁かれるようにさえなっていた。


「……」


 キッチンに立っていたフローラの目は虚ろで、ただぼんやりと宙を見つめている。シュンシュンと音を立てて湯の沸いたポットを前に微動だにする事無く、呆然とその場に立ち尽くす。


 フローラは完全に憔悴しきっていた。顔には沢山の痣ができ、体にも無数の痣や傷がついている。


 家を出たい。こんな家を捨てて、どこかに逃げたい。


 そう思って、過去に家を出ようとした事がある。こっそりと荷物をまとめ家を出ようとした。しかし、トーマスがそれを許さなかった。


「魔物を押し付けてお前だけ逃げようだなんて、随分良いご身分だな。僕への償いさえまだだと言うのにな。逃げられると思うなよ!」


 完全に自我を手放し、気の触れてしまったトーマスは、家を出ようとした彼女をその日は一晩中激しい罵倒とともに痛めつけた。

 家を出ようとすればこれ以上ないほどに激しく暴行を加えられる。死ぬ覚悟でキッチンに立てば、それすらも許されず、また暴行……。

 リガルナも例外なく激しく打ちのめされ、フローラを守るために必死にトーマスと対峙するが、いつも散々に打ちのめされてしまう。その度に「悪魔」だ「魔物」だと激しく罵られ、心にも体にも深い傷を負っていった。


 殺されるかもしれない。毎日そんな危機感を感じながら逃げることさえ出来ない状況が続けば、憔悴するのは当たり前だ。


 ただ、リガルナだけは強い気持ちでいた。自分が折れてしまったら、誰が母を守るのか。父の暴挙はもはや止められるものではない。父の思うままにしておけば、いずれ母が殺されてしまう。それだけはどうしてもさせるわけには行かなかった。


「……俺がしっかりしないと、母さんを守れない」


 まるで呪文のようにそう繰り返し、そうすることで自分自身を支えていた。


 そんな毎日が続き、気が付けばリガルナは16歳の誕生日を迎えていた。


 部屋からは一歩も出られない監禁状態が続き、リガルナの体はやせ衰え肌も色白になっていた。この頃になると髪色はもう誰が見ても間違える事のないほどに真っ赤になり、悲しみに染まった瞳の色も血を塗りこめたかのように赤かった。耳は鋭く尖り、もはや常人の形のそれとは違う物になっている。

 最近は、そんな自分の姿を鏡で見るのが嫌だった。これが原因で父が壊れた。そして家庭も崩壊した。そして知っている。この燃えるような赤い髪と瞳と、細長く延びた耳が表す物が一体なんであるのかを……。


 鏡に自分の姿が映るたびに、自分は父の言うように本当に魔物の子なのかもしれないと疑心暗鬼になった。だから今は、部屋にあった鏡という鏡は全て割られ排除されている。


 自分がこんな姿でなければ、フローラやトーマスはあんな風にはならなかった。自分のせいで家庭が崩壊した……。


 深く自分を責め立て、リガルナは毎日のように涙を流す。

 その時ふと、部屋のドアがノックされゆっくりと押し開かれる。リガルナがビクリと体を震わせてそちらを見やれば、生気の感じられない虚ろな瞳のフローラが、質素なご飯の盛られたトレーを手に立っている。


「母さん……」


 今のリガルナにとって、唯一の心のよりどころはこのフローラだけ。トーマスに何度も殺されそうになったが、今までそれを引き止めてきたのはこのフローラだった。彼女がいたからこそ、ここまで生きてこられたのだ。だから、母親の前だけでは明るくいたい。リガルナはそう思っていた。

 無理やりにも作った笑みを浮かべフローラの傍に歩み寄る。


「ありがとう母さん。いつもごめん」

「……」


 どこを見ているともなく呆然と立っていたフローラの前にリガルナが歩み寄ると、フローラは緩慢な動きでリガルナを見上げる。


「どうしたの? 母さん」

「……」


 小さく笑みを浮かべて、不思議そうに見つめてくるリガルナの姿を視界に捉えた瞬間、トレーを握っていたフローラの手が小さくカタカタと震え始めた。そして恐怖に見開かれた目は涙に滲み、一歩後方へ退く。


「あなたは誰なの……」

「母さん……?」

「誰……?」


 完全に怯えている。リガルナは目の前のフローラを見てそう感じた。

 リガルナは努めて笑みを浮かべてフローラの肩に手を置くと、フローラの手からトレーが落ち派手な音を立てて足元に食べ物が四散する。


「いや……いや……」


 うわごとの様にそう呟きながら、肩に置かれていたリガルナの手を振り払う。その瞬間、リガルナはヒヤリとした気持ちと強い焦燥感を覚える。


「何言ってるの母さん。俺は母さんの子供のリガルナだろ?」

「ち、違う……違う……」


 首を横に振りながら少しずつ後方へ下がり「違う」を連呼する母に、リガルナの心がざわめいた。


 どうしよう。これはもしかしたら……。そう思うと焦りだけがリガルナを包み込む。

 そうではないと信じたくて、恐る恐る手を伸ばそうとした時、心を抉るような一言が飛んできた。


「あなたなんか、産んだ覚えは無いわ……」


 伸ばしかけた手がピクリと反応を示して宙で止まる。


 あぁ、考えている通りの展開がこの後待っている。考えたくもない展開が待っているんだ。


 リガルナはこみ上げてくる悲しみをぐっと押し込め、懸命に笑顔を浮かべる。


「母さん。何言って……」


 リガルナが困惑した表情でもう一度手を差し出すと、フローラはその手を激しく払い除けた。


「やめて! 寄らないで……」

「母さん」

「来ないで……いや……」

「母さん!」

「いやぁーっ!!」


 フローラは悲鳴をあげ、自分の頭を両手で抱えるように押さえると、リガルナを振り切り階段を駆け下りて行った。

 その場に残されたリガルナは、所在をなくした手をゆっくりと下ろし頭を垂れる。


 絶対に裏切らない。そう信じていた母にも見放された……。


 言いようのない絶望感に突き落とされ、リガルナはその場に立ち尽くした。

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