人生は金太郎飴のようだった

夏海惺(広瀬勝郎)

第0話ファミリーヒストリー

奄美大島の小さな村で昭和29年に生まれた。島が日本に復帰して半年後である。

最初の記憶は両親の記憶ではない。竹と言う

父の一番下の叔母の記憶である。父には6名の兄弟がいたが、私は彼女に背負われ村のアッチコッチをつれ回された。まだ歩けない頃からである。母親は貴重な働き手として朝から晩まで大島紬を織り続け、私の世話などする余裕もなかったのでなかろうか。

一度は山を越えた隣村まで行ったような記憶がある。鯨浜という集落であった。母が若い頃の記憶として嬉しそうに語ったことがあった。鯨が上がり、村人総出で狩りをしたと言うことだと言うことであった。竹が、シドロモロになりながら自分母親に、その日の一連の行動を打ち明けた時のことだったと思う。祖母は激昂し、ハブがどうのこうのと彼女を責めていた。私は自分が叱られたように大声で泣き出したこともあった。二才、三才の頃の記憶だろうか。その頃は自分で立てるようになっていた。それでも彼女は私を背負い歩いていたように記憶している。背負うのが辛くなった彼女が、私を自分で歩けと叱った記憶があるのである。

ところが、ある日、沖縄からおかしくなって帰った竹は私の前から姿を消した。

恐らく私が3歳から4歳の頃であろう。というのは昭和32年当時、三波春夫の「オーイ 船方さん」と言う歌がリリースされていたのであるが、昭和29生まれの私は3歳か4歳になっていた。祖母は私の手を引き、恐らく自分の故郷の村に小さな旅行をしたことかあった。奄美大島の北端の笠利崎と私たちが住んでいた今井崎の間に挟まれるように名も無い小さな岬があるが、その根本に   芦徳と言う集落があり、その集落に行くには龍郷湾の奥を通るか、龍郷湾を渡る渡舟を利用する方法があった。祖母は渡舟を使う道を選んだ。丁度、西郷南洲が奄美大島に遠島蟄居を命ぜられた折に船のもやい綱を結んだと伝えられる西郷松のある付近が船着場になっており、そこで私と祖母は渡舟を待った。その時、祖母は私に大声で船方さんを呼ぶように言ったのである。私は祖母の言う通り、「オーイ 船方さん」と何度もなく大声で叫んだ。最後は涙を浮かべていた。祖母は、少し慌てて、「もう良い」と言って、私を制止した。祖母の故郷での記憶は不思議と欠落しているが、その夜は瀬戸の祖母の友人の家で泊まった。着いた時には暗くなっており、心細いローソクの灯りの元て祖母は長く話していた。ひどく貧しい家で主人は居ず、祖母の友人と娘の二人暮らしであった。その夜は板床のない土間で寝たような気がする。ローソクの灯が消えるのを待ち寝たような気がする。ひもじく、寒さを覚えた。あの日のことは「オーイ 船方さん」と大声で叫んだことや、ひもじい思いをした粗末な家で夜を過ごしたことしか覚えていないのである。どのように長い距離を移動したのか、途中で食事をしたかどうかも覚えていないのである。

その祖母も私たち家族が奄美大島から引き揚げて一年ほどして病になり鹿児島で私の母に看取られて亡くなった。六十五歳になっていたと思う。祖母か私の手を引き自分の故郷に小さな旅をしたのは祖母が五十五歳の頃だと思う。その頃に竹は鹿児島市の病院に入院したと思う。


竹が居なくなり、平穏な日々が続いたのか、その頃の記憶はない。

ところが小学校二年生の頃だろうか、竹が再び、私の前に姿を現した。母が名瀬に迎えに行った。当時、四キローの砂利道を素足で小学校から帰る日だった。バスに母の姿を見た時に、竹が帰って来たのだと知り、バスを追いかけた。窓ごしに追い掛ける私の姿を見守る悲しげな母の表情を今でも思い出す。

その意味は直ぐに分かった。

数年ぶりに私は竹に再会だった。

誰かが竹に私のことを覚えているかと聞いた。すると彼女は「知らん」と、素っ気なく怒りとがさつさ声音で即答した。その時に、私は彼女が普通ではないと感じた。私が小学校四年生の頃だったと思う。祖母と父親が言い争う場面があった。それを目にした竹が「母ちゃんに何で逆らう」と激昂し床下から錆びた斧を取り出し父に襲おうとした。祖母は慌てて私の父と竹の間に入り事なきを得た。その後、竹は再び、私の前から姿を消した。そして竹に会ったことはない。

私の家庭が普通ではないと感じるようになっていた。その頃、父が糖尿病を患った。母は、このままでは四人の子供を育てきれないと鹿児島に住む父の妹に泣き付いた。

小学校五年生の時だったと思う。最初、父が鹿児島に旅立ち、母と私たち四人の兄弟は遅れて名瀬で半年ほど過ごし、鹿児島に向かった。奄美大島での生活で印象深いのは床の間に飾ってあった。床の間に飾ってあった祖父の水平服姿の写真である。若死し祖母は私の母や奄美大島に残る子供たちの稼ぎで家計を遣り繰りして生活していたように思う。しかし子供たちが旅立ち働き手が居なくなり、竹を背負い、父も病にかかった時に生活は破綻をしたと思う。

鹿児島の生活に馴染めず父は糖尿病だけでなく、アルコール依存症を患うようになっていた。そして私の前から姿を消した。

実は私の父方の従兄弟は9名いるが、障害を持つ者が3名もいた、盲人、小児麻痺でまともに歩けない者、そして生まれたまま成長せず三才で死亡した者。そして父、竹と言う父の妹である。皆、他界し、自分も年を取った今では貧困と不衛生、無知のせいだと納得しているが、昔は心に重くのし掛かっていた。

竹が何故、あのようになったのか手掛かりを得る機会は陸上自衛官として沖縄に勤務していた時期に訪れた。三十代初めの頃だった。

H家は奄美大島の寒村の山裾にあった。私の祖父は長男であり、早死にし水平服姿の肖像写真しか残って居なかった。祖父の二人の弟たちの家も隣にあった。二人とも私が生まれた当時は生きていた。一人の祖父の弟の息子に沖縄で逢ったのである。誘われるまま家を訪れたが、貧しい家であった。彼は竹のことを沖縄に来た当時はまともだったと証言をした。そして何故、あのようになったのか不思議だとしきりに首を傾げた。竹は敗戦直後に悲惨な沖縄に来ていたのである。彼女が沖縄に働きに来ていたと言うことを知った時に、私は母たちが、その祖父の弟の娘たちがアメリカ人の花嫁になったと言う話を交わしていたのを思い出した。食べるためには仕方ないでしょうとも話していた。僕もアメリカ人の花嫁になりたいと言い、母から激しい叱責を受けたせいである。彼女たちは数名で大島紬を織っていて世間話のつもりで漏らしたに違いない。その記憶が特に強烈に残っていたのは、竹も姿を消しており、生まれて始めて穏やかな日々が続いていたせいである。

竹は竹なり抗い、結局、あのように精神を病み帰って来たに違いない。あの父親の肖像写真が彼女に抗わせたかも知れない。祖母は祖父の弟家族を酷く恨んでもいた。祖母は私に竹を元に戻す役目を担わせようとしていたようにも思う。生まれたばかりの私の世話をしている内に、元の竹に戻ると期待していたようにも思う。

少なくとも私や家族は幸せな人生を歩めなかった。重すぎる問題を抱え過ぎていた。

父を嫌い、会おうともしなかった。今は後悔している。私がどの様な苦しい人生を歩んだとしても、父の元に嫁ぎ苦労し続けた母には叶うまい。彼女はそれぞれ二歳違いの弟と妹が他界するのを見送り、妹の他界後、直後に他界した。二人の死に様も普通と言えなかった。弟は私が六十歳の時に他界した訳であるが、出稼ぎ先で急性肝硬炎で急死した。妹は私が六十二歳の時に、やはり五十八歳で他界した。乳癌であったが、家族で御金を出し合い一度は、癌の摘出手術を行なったが、抗癌剤治療を拒まれ他界した。為す術もなかった。長く生きることも、生かされることも望まない死に様であった。母とともに島から出て来た四名の兄弟の内、今、生きているは私と十歳ほど歳の離れた末の妹だけである。

私は果たさねばならない役割があると自分に言い聞かせ生き長らえている。


苦しい人生だったが、何とか生き長らえている。

最大の難所は以下の「柵の中にて」と言う章で描く出来事であった。当時、ハ施設大隊という部隊は北熊本駐屯地に駐屯地に駐屯しており、鹿児島川内原発の稼働とともに新設された川内駐屯地への移駐を控えていた。その直前の出来事であり、私も心に毒を盛られ倫理観、人生観も揺さぶられ、打ちのめされてしまうことになった。

福島第一原発事故前の政府と各電力会社の津波対策についての学者たちを巻き込んだ激しいやり取りを知り、山形県神町駐屯地から九州の部隊に帰ってからの出来事や遠い四十数年前の八施設大隊の川内駐屯地移転直前の事を振り返ると私には果たすべき役割があったと感じるのである。

陸上自衛隊を定年退職する前の者に対して希望する任地や家族の事情を考慮して任地を決める定年配置という制度がある。私の場合は本来は川内原発のある川内駐屯地に配置され、原発事故対応について内々に陸上幕僚監部の指導を受けつつ、情報を集める役割が用意されていた筈だと。当時の陸上幕僚監部の様子は防災訓練に参加し、原発事故に対して真剣に取り組もうとしていたと思う。

特に新潟沖地震で柏崎原発が緊急停止した半年後に共産党国会議員の質問に対して故安倍晋三首相が、「原発事故は起こしません」という回答後、一層、熱が入った筈である。そのせいだと思うが、女川原発と東海原発は津波直前に改善策を講じて難を逃れたのである。東京電力だけは柏崎原発が停止し赤字だと旧通産省の指導を突っぱね続けていてのである。旧通産省官僚で私と同じように原発事故に対して大きな遺恨を持つ方から陸上自衛隊は防災訓練に参加して原発事故に訓練にも非情に熱心に取組んでいたということも聞いている。しかし陸上幕僚監部は空回りしたのであろうと推測するのである。陸上幕僚監部の担当者が東京電力をカウントパートナーとし選び、事故が起きた際の陸上自衛隊の対応について助言を貰おうとしても、「事故は起きません」と門前払いに会ったことは間違いない。加えて反原発運動に油を注ぐことは避けたいという思いもあった筈である。

私が陸上幕僚監部の現場の駒となり密かに川内原発や九電から、旧通産省の意向を頑なに拒否する東京電力の事情や立場を説明し、原発事故の際に陸上自衛隊が出来ることを聞き出せる役割を担うことが出来ていたら、原発事故を回避出来たか、事故の規模を縮小出来たと思う。原発事故が起きる数年前に8施設大隊関係者の中で起きたことや、陸上幕僚監部で起きていたこと、そして中間の西部方面総監部、8師団司令部で起きていたことを調査し裁判で明らかにすべきである。

「柵の中にて」という小説に登場する関係者や、その周囲に群がる者たちの間でテロが起きクーデターに発展したと確信し、その上で原発事故弁護団に実名で送り、また国内の主な報道機関にも調査をするように通報を続けています。

このテロ、クーデターは増税やパワーバランスの崩壊を招き、避難生活を強いられた被害者だけでなく私たち一般国民一人一人の生活やファミリーヒストリーにも直接、関係があった出来事だったと思う。それだけでなく極東のパワーバランス崩壊が遠くウクライナに飛び火し、ウクライナ戦争を起こしたとも思える。ウクライナ国民のファミリーヒストリーにも関係していると思う。テロリストの仕業のせいで多くの家族のファミリーヒストリーが不幸な方向に捻じ曲げられたのである。


ほんのもう少し穏やかで、背負う荷が少ない人生を歩めたら福一原発事故を防ぐ役割を果たせたと思う。今となってはテロリストによる人類史上、最悪の事故とも言える福島第一原発事故で地に落ちた抑止力を回復し戦争が起きることを防ぐため、また被害者生活再建を急ぎ財政負担を軽減するために一刻も早く最高裁判決を行政機関の責任を認める判決に覆すための努力をするしかないと思う。とにかく最高裁の判決を覆すためには私の人生に原発事故を引き込むしかないとも思う。

決して福島原発事故で被害にあった方々への同情心や感情的な思いからではない。陸上自衛隊が有事の際に役に立つ組織か否かという安全保障上の問題から、憲法や法律、三権分立と言う日本の基本的な制度が機能するかという大問題にも繋がり兼ねないことだ感じている。

全てが福島第一原発事故から始まったことです。事故前の数年前から政府主導の防災訓練の一環として原発事故関係の訓練も行われていて、陸上自衛隊から派遣されていた担当者は非常に熱心に取組んで居たと言うことを旧通産省の関係者から聞いています。しかし足元の東京電力は津波による原発事故など絶対に起きないと言い張り、もし陸上幕僚監部が原発事故の際に陸上自衛隊が対応出来ることを質問をしても門前払いにされた筈です。唯一の抜道は私を川内駐屯地に定年配置し、窓口を作ることであった思う。しかし、「柵の中にて」に書かれた出来事の関係者が邪魔をし陸上幕僚監部施科隊員の人事担当者の思惑は実現できなかった。しかも陸上幕僚監部において反原発運動など政治的な問題に火を注ぐようなことは避けねばならなかった等々、様々なしがらみがあったことは想像出來る。しかし最終的に事故を回避出来なかった責任が陸上自衛隊にあったということを認めて憲法改正を含めて日本の安全保障や危機管理体制を全て見直すしかない筈である。

事故当日、東京電力から要請があった高圧電源車の輸送を行っておれば事故を回避出来なかったか否か、また他のことを実施しておれば事故の方向を変えることができなかったか専門的な検証をすべきだと思う。もちろん川内原発のある川内駐屯地で検証すべきです。鹿児島県内において川内原発稼働反対運動が盛り上がっているが、私の推測するように8施設大隊関係者が陸上幕僚監部の人事計画を妨害したのなら、川内原発稼働は8施設大隊を抱えた川内市民が未来永劫、背負うべき原罪であり、川内原発の稼働停止など全国民は許すまい。せいぜい事故を起こさないよう、また福島第一原発事故のように全電源停止をしても破局的な事故を起こさないように対策を練るしかないと思う。

一ヶ月ほど前に起きた8師団長以下のヘリコプター墜落事故の検証も大切です。陸上自衛隊は原発事故を含む福島第一原発事故前の防災訓練参加同様に役に立たない訓練を続けていると結論を出さざる得ない結果が出てくる筈です。方面隊や師団、職種制度という組織維持も許されなくなるかも知れません。

福島第一原発事故被害者に対する補償については陸上自衛隊の各駐屯地に付随する都市部の訓練場や演習場や国有地を割愛し、国民負担を軽減するしかないと言うことも弁護団に提案させて頂いていた。ところが、一番、最初に最高裁の問を叩いた「生業訴訟弁護団」の事務局長のセクハラ事件である。私の情報提供がまな板に乗る機会も無かったようである。廃炉費用や被害者に対する補償費として原発事故後始末のための財源負担は10年間で13兆円に及んだという。増税や電気料金の値上げに頼り、最終的には全て国民負担になるのである。加えて防衛増税である。それも全て日本の安全保障環境を激変させた福島第一原発事故に原因があったと言っても過言ではない。

私の話を聞いた多くの者は一様に、このようなことが公になれば大変だねと反応するが、最高裁の判決を覆す過程で全国民に公表するしかないと思う。本来、先の最高裁判決で国にも責任があったと言う抽象的な判決が下されておれば、内々に解決すると言う道も残されていたかも知れないが、その機会は失われた思う。まだまだ書き残して置かねばならないこともあるように思う。例えば、北熊本駐屯地で一緒だったSという隊員とGという隊員、那覇駐屯地で一緒になったOという隊員のことなどである。oという隊員は奄美大島出身であったが、Oという隊員を中心にSとGという隊員は新設された那覇駐屯地勤務時に争いがあり、Oという隊員と同じ奄美大島出身の私に共通の敵愾心を懐いていたようである。そのようなことも「生業訴訟弁護団」には伝えている。陸上自衛隊内の本質的な問題だと思うからである。構造的な問題であり、空自や海自とは異なる精神土壌から発生したものだとも思う。


世の中には言ってはならないことがあることは承知しているつもりであるが、福島第一原発事故に関することは墓場まで持って行ってはならない事である。国が滅びかねない事件であった。もし福島第一原発同様に冠水し電柱が倒れ電源喪失に堕ちいた福島第二原発が福島第一原発と同様に破局的な事故を起こしていたら、日本は滅びていたかも知れない。

私個人が感じたことは鹿児島地方裁判所に提出した妻への弁明書を元に作成した、第19話「ファミリービジネス(妻への詫び状)」に概略は記したつもりです。


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