空白


 どうせ、この逃避行も長くは続かないのだ。いずれ追っ手が来る。使命からは逃れられない。たとえそれが、世界を壊すか、あるいは自分を壊すとしても。

 ただ、囚われ籠の鳥にされるだけだとしても。

 背負わせるだなんて。こんな楽しくない人生を。

 色のない世界を。

 けれどもし、誰か、最後まで側にいてくれるなら、

 俺が消えるその瞬間まで、手を握って笑いかけてくれるなら――

 ……誰か、だなんて。

 自分の気持ちまで濁して、なんになるというのだろう。

 欲しいものはたった一つだけなのだ。

 なぜそれでなければならないのか、諦めているのに忘れられないのか、

 なぜこんなにも自分は女々しいばかりなのか。

 わからないけれど。

 そんな未来はきっとないから。

 けれど、もし、あるとしたら?

 錆付いた想いも、世界に溶けるだろうか。



     ✝✝



 昔はたくさんの博物館、美術館と呼ばれるものがあったらしい。誰かの生きた世界、誰かの見た世界の破片を、ただ硝子の向こうに飾るだけの場所が。今は、それを真似した【展示屋】と呼ばれる屋敷があるだけだ。貴族が集めた世界の宝を、ガラクタを、展示して、人々に見せている。

 【展示屋】と呼ばれる、美術館の偽者は、んでいた。

 俺はこの展示屋が、あまり好きではなかった。

 ガラクタばかり集めて、飾って、それを眺めて感想を言うだけ。

 それしかできない人間のたまり場でしかないんだろう?

 そう思っていた。

 いつかは壊れる世界。いつかは無くなる営み。腐敗し、溶けて崩れる誰かの跡。

 そんなものを好き好んで飾りたて、そんなものを見て喜ぶ人間をただ眺める道楽。

 俺は、まるで自分が苛まれるようで、好きになれなかった。


 そうだ、俺は恐らく、世界から目を背けていた。

 この世界から消えるのは俺一人だと、可哀想でしょう、僕ってこんなにも可哀想でしょう、健気でしょう、と。

 浸っていたかったのだ。

 俺が消えるのではなく、俺が皆を消すのだと、見せつけられるのが怖かった。

 この世界はちっとも綺麗じゃない、鮮やかじゃないと思いたかった。

 実際、古ぼけた骨董品など、色褪せて見える。

 でも、そうではないのだと知った。

 あんな、枯れかけた、ちっぽけな花に、蓮華草だなんて雑草に、胸が搔き毟られたのだ。

 この世界にあるものが、殺さないでと泣いている気がした。そうして初めて、俺は今まで自分が自分自身を知らなかったことに気づいた。自分自身を痛めつけることしか、覚えていなかったことに気づいた。

 神様が理不尽なのではない。

 俺が自分勝手だったのだ。

 もっと、俺が生きているこの世界を知らなければいけないのだ。

 俺が壊すかもしれない、救うかもしれないというこの世界を、営みを、目に焼き付けなければいけない。

 俺が壊すものがどういうものなのかを、俺は知らなければ――

「本当に、あなたって、かぶれがちですよね」

 俺の話を聞きながら、ヨルダは事も無げにそう言って、試験管に透明な液を注いでいく。

「僕は、あんまり深く考えない人間なので、そういう思考回路は面白いなあとしか思わないですね」

「お前の面白いは馬鹿にしてるだろ」

 俺がそう言うと、ヨルダは隈の深くなった目元を薄めてうっすらと笑った。

「自分が生きたり死んだりするために意味を見いださなければいられないような生き方は好きじゃないんですよ」

 ヨルダは口角をつり上げる。

「最近、お前もやたら言うようになったな」

「遠慮はしないことにしたんですよ。僕だってストレスくらいたまりますからね」

 その言葉に、少しだけ胸の内側がぴりっと痛む。

「別に……しなくてもいいのに」

「僕がしたいからしてるんですもん。それで別に不都合はないでしょう? それより」

 ヨルダは試験管に蓋をして、緩やかに揺れる温室機の中にそれを入れ、

「僕の名前を売るの、忘れないでくださいよね、救世主様」

――清々しく笑った。

「僕の言葉が一定以上の影響力を持たないとお話しにならないんですから」

「……わかってる」

「本当にわかってるんですかー? あなたの思う世界を作るために一体何人犠牲にしなきゃいけないかわかってる?」

 ヨルダはそう言って、すらりと伸びた背を曲げ、俺の顔を覗き込む。

「わか……って……」

「別に、あなたはわからなくてもいいんですよ」

 ヨルダは優しい声でそう言う。

「そういうのは、僕が引き受けますから」

「でも、それは」

「考えない。感じない。僕のことを信じてればいい。言ったでしょう? 他の救世主とやらがいるなら、そいつらはすべての痛みを背負って生きている。それか全ての痛みに気づかないままでいられるでしょう? でもあなたはそこまで強くない。そしてあなたには僕がいるんだ。僕があなたの痛みも苦しみも、すべて飲み込んであげる。僕に任せていればいい。あなたは罪なんかない。罰も受けない。なぜならあなたは何も犯さない。あなたの幸せは何? さあ言ってご覧よ。僕に教えてよ」

 ヨルダの言葉が脳髄へ沁み込んでいく。それは生温く、痺れるようにどこか甘くて。俺の視力も、味覚も、すべて奪われていく気がした。何もうまく考えられなくて。

 ヨルダは微笑わらう。微笑い続ける。

「そうだね。あなたはこの世界に生きる命を守りたい。消したくない。でも一人で消えるのは怖い。大好きな女の子に側にいてほしい。あなたはただ、普通の人と同じように家庭を持って、子供を愛して、穏やかに死んで行くことに憧れているだけ。そしてそれを神様が許してくれない。あなたの好きな女の子もあなたを愛してくれない。神様の意志に背けもしない。背く必要がないということも知っている。あなたの力は強すぎて、この惑星ほしを守れてもこの世界ごと守ってはくれないだろうことをあなたは気づいている。そしてそれを辛いと思っている。逃げ出したいけれど逃げたくはない。あなたは本当はこんな強い力捨ててしまいたいんだ。でも捨てる訳にもいかない。方法もない。助けてほしいんだ。神様が、人が、教会が、世界があなたを赦してくれない。けれど僕が赦すよ。叶えてあげる。あなたの望むように未来を用意してあげる」

 ヨルダの言葉しかもう聞こえないんだ。

「罪悪感と、歓びの狭間で揺蕩っていればいいんだ」

 ヨルダは静かに言った。

「そうだ、罪悪感ついでに、展示屋にでも言ってきたらどうです? ××という国の遺物が飾られているそうですよ。ほら、あの錆びたトタンの広がる島の」

 俺はどこかぼうっとしたまま、頷いていた。

「そうだな」

「ついでにケイッティオも誘えばいいんですよ。たまには一緒に過ごしたらどうですか? これから嫌でも一緒にいることになるんだから」

「うん」

 俺は、天窓に映る青い空と、黒い鳥の影を見ていた。



     ✝



「でも、やっぱりあまり好きじゃない」

「何が?」

 俺の呟きに、ケイッティオが静かに声を挟む。

「……全部」

「そう」

 ケイッティオは事も無げに、花の絵が薄く染められた着物を見ていた。

「こんなの……もう、使っている人もいないじゃないか」

 なんとなく、ケイッティオの返答が素っ気ないことに苛つく。

「そうね」

「そもそも、これを使っていた国ももうない」

「国というのはわたしにはわからないわ」

 ――あなたと違って、学がないから。

 そう言われた気がして、俺は思い切り眉をひそめた。

 その顔を見つめて、ケイッティオが溜め息をつく。

「変な顔だわ」

「五月蝿い。生まれつきだ」

「髭も生えてきたわね」

 ケイッティオが心底嫌そうに目を細めた。

「五月蝿いな……」

「わたしは?」

 ケイッティオの静かな声に、思わず振り返った。頭の中がぐるぐるとする。可愛い、以外の何を言えばいいというんだ。拷問かよ、と思って。

「知らねえよ」

 そう吐き捨てて、口を引き結んだ。ケイッティオは顔をしかめた。

「言葉遣い悪い。ミヒャエロの真似をして楽しい?」

「は? これはヨルダのが移っただけだよ!」

「そう」

 ケイッティオは静かに答える。

「わたし、胸が膨らんできたの」

 思わず咽せた。何も飲んでいないのに、俺は思い切り咳き込んだ。

「栄養があまり足りてなかったから、やっと今頃体も大人になってきた」

「そ、そうなの」

「血も出るようになった」

「もういいから!」

「わたし、」

「もういいって!」

「この絵は好きだわ」

「あ、そう」

「あなたのことも嫌いだったけど」

「あっそう。へこませたいの? へこまねえぞ」

「今は嫌いじゃないわ」

 まっすぐに見つめられる。

「救世主なんて、ただの子供なんだもの」

「五月蝿いな……」

「わたしも子供だった」

「そうかもね」

「そういうものでしょう?」

 先刻から、意図の読めない会話に苛々する。

「この器も、」

 俺の苛々なんか察しもせずに、ケイッティオは話を続ける。

「いつかわたしたちも使うものだったかもしれない」

 照りのある、真っ黒な器。

 青い花が二輪、鮮やかに描かれている。

「…………何が言いたいんだよ」

「本当に、考えることをしなくなった」

「誰が」

 俺は嘆息した。

「お前の今の話から何かを学び取れる思考力の持ち主はそうそういないと思うぞ」

「でも、」

 ケイッティオは、もどかしそうに瞳を泳がせ、口をもぞもぞと動かしながら言った。

「前は、わかってくれてた」

「それは、俺が」

 俺は、なぜだか渇き始めた咥内を緩慢に開く。

「もう、お前に興味も無くなったからだろ」

 そう言って、胸に空洞ができたような息苦しさを覚えた。もう立っていられないような心地。

 言葉が渇いて。

 けれどケイッティオは、不思議そうに首を傾げた。

「わたしのこと、好きだったの」

「は?」

 顔にかあっと血が上った。ケイッティオはゆっくりと瞬く。

「知らなかった」

「あ、うん。もういいから」

「わたし、あなたのこと嫌いだった」

「うんいいから、もうしゃべらなくていいから」

 ずきずきと痛む頭を押さえていると、ケイッティオはまた小首をかしげるようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「あなたがわたしにかまうのは、お金持ちの道楽だと思ってた。あなたが救世主だと知ってからは、救世主の一時の戯れなんだろうと思ってたの。わたしは、それは嫌だった。みじめだと思いたくなかった。だから、あなたのこと嫌ってた。でも、それはわたしの勝手な言い訳だわ。わたしの自分勝手な理由で、勝手に嫌ってた」

 ケイッティオは、まっすぐに俺の瞳を見つめていた。こんなにきちんと見てもらえたことがあっただろうか、と思う。

「わたし、ずっといい人間でいようと努力してた。どうしてお兄ちゃんが、わたしなんかのためにこんなぼろぼろになるんだろうと、いつも考えてた。考えても考えても、わたしに誇れるようなものも、好きと言ってもらえそうなものもわからなかった。病気になるばかりで、何の役にも立たなかった。血もつながっていないのに、どうして毎日、毎晩、わたしが無事でいることを、まだ生きていることを確認して、あんなに幸せそうに笑うんだろうって。わたしは何もできないのだから、だからせめて、ミヒャエロの前ではいい人間でいようと思った。いい子にしておけばいい、ミヒャエロの望むようにしてればいい、それが恩返しだと思ってた。そうすればミヒャエロは、お兄ちゃんは喜んでくれると思ってた。だけど、」

 ケイッティオは目を瞑って、言葉を切る。

「わたし、初めてだったの。嫌だなと思ったことも、嫌いだと思ったのも。あなたに初めて、わたしは嫌な感情を向けたし、嫌な顔だってした。そうしたらあなたも嫌な顔をした。とても――とても、それが新鮮だったの。救世主って、世界の唯一王って、こんなに子供なんだと思った。あなたに反発して嫌な態度を取るわたしは、なんて子供なんだろうって。わたし、わたし――楽しかった」

 俺は黙って聞いていた。ケイッティオがこんな風に饒舌なのを、初めて聞いたのだ。

 ケイッティオは、今やっと、心を開いてくれているのだろうか。俺と彼女の間にそびえていた、分厚い空気の壁のようなものが、急に取り払われたようだった。息苦しかったのが、急に、何の風もなくなった。そんな感覚に、めまいを覚えた。そして、胸が苦しくなった。

 俺には飛び込んでいく勇気がないから。

「あなたが世界を救う人なら、わたしも同じことがしたい。世界を救ってみたい。わたし、あなたと友達になりたい。だから、今日は誘ってくれて、ありがとう」

 ケイッティオは柔和に笑う。

「友達になりたいだけかよ」

 俺は、胸が締め付けられて、とても息苦しくて、心にもない悪態をついた。ケイッティオはもう隣の絵を見ていた。だからこそ吐き出せたのだ。

 ああ、俺は、

 この笑顔が見たかったのかもしれない、なんて。

 雪景色の森のような、寂しくて淡い榛の色。その瞳に、俺をただ映してほしかったのかもしれない。俺はこれでいいのかなと、ちゃんと笑えてるかと、見てくれる人が欲しかった。

 反発? そうだね、俺も、楽しかったかもしれない。

 君の言葉に、表情に、仕草に一喜一憂した。憂いの方が大きかったかもしれない。それでも、その時だけは俺は子供でいられた。

 ああ、俺はどこで間違えた?

 駄目だ。

 、駄目なんだ。

 指先から感覚がなくなっていく。

 他人ひとの意志も想いも、願いも無視して、やってはいけないんだ。

 もしかしたら俺は、ただ、ケイッティオやヨルダや、ミヒャエロと一緒に世界を見ていたかっただけなのかもしれない。一緒に死にたかった。俺が死ぬのを、消えてなくなるのをただ知って欲しかっただけだ。

 まだ引き返せるだろうか。俺は、違う未来を夢見てもいいだろうか。君を犠牲にしようとした俺は、赦してもらえるだろうか。

 俺はケイッティオの手を引いて走った。まだ全部見てないのに、と、少し不機嫌そうな声が聞こえる。けれど、今はその声ですら、胸を締め付ける。

 まだ、まだやり直せるはずだ。まだ子供なんだから。俺たちはここから大人になるんだから。



      ✝



 そこからのことは、あまり記憶がない。

 どうしてだろう。

 最近、ヨルダと話すと靄がかかるのだ。

 髄液を蛇が泳いでいるみたいに、俺に何かを囁きかけて。

 覚えているのは、

 ヨルダの隈が更に深くなったこと。

 ヨルダの目は笑っていなかったこと。

 そう言えば、ヨルダが心から笑うのを見たことがなかったこと。

 やっぱり、俺がケイッティオと一緒にいるためには、同じ世界を見るには、

 【それ】しか方法がないこと。

 ヨルダは俺の、絶対の味方だと。

 ヨルダは笑っていた。

 よかったですねと。

「へえ。あの子が自分から世界を救いたいと言ったんですね」

「違う、ヨルダ、ケイッティオは、俺は、」

「じゃあ、尚更僕の研究を成功させないと。腕がなります」

 そんな、

 ケイッティオと同じ笑顔で笑わないで。

 そんな目をして笑わないで。

「違うんだ、それじゃやっぱり意味がないんだ。何もかも選ぶのは不可能だ。だったら、俺は、俺一人でいい」

「そうですか。一人で消えるんですか? もう世界は壊れていっていますよ。ほら、あなたが一向に身を主に捧げないから」

 神様なんて信じてないくせに。

「そんな言い方するなよ!」

「実際そうでしょう。他のアルケミスト達が、教会の連中がなんて言ってるかわかってますか? この世で最も尊い存在を贄の羊とせよ……笑っちゃうな」

 ヨルダは笑いながらそう言うと、不意に表情を消した。

「羊、だなんて。言われて平気だなんて、笑ってしまう」

 憎しみのこもった目で、ヨルダは俺の目の向こうを睨みつける。

「だ、だからって、全部やる必要はないだろ。お前の力があれば、俺だけを犠牲にしたって、俺の望む世界を残すことは可能だろう?」

「買いかぶってくれますね」

 ヨルダは薄く笑う。

「それに、仮にそれで、あなたが一人で犠牲になったとして、世界とやらは救われたとして」

 ヨルダは言葉を一寸切った。

「ケイッティオは、その未来で誰といるんでしょうね」

「そ、れは、」

 胸が掻き乱される。

「幸せになってくれれば、いいんだ」

「殊勝ですね。本人があんたと一緒に世界を救いたいとまで言ってるのに。まずはお友達からって言うだろ。あんたは、あんたに残された可能性まで捨てるわけですか」

「俺は、違う、俺は、それで十分だと思ったんだ」

「へえ、そう」

 ヨルダは静かに言った。

「じゃあ、僕が貰ってもいいですか」

 その時のヨルダの表情を、俺は忘れることができない。

 冗談だと思った。

 俺を焚きつけるための、嘘なんだろうと信じた。

「僕は、あの子のことが多分好きです」

 少し余所よそを向いたヨルダの静かな顔は、それが誤魔化しや嘘ではないと如実に俺に伝えた。

「それでもいいですか?」

 ヨルダは、絶対に目を合わせようとしなかった。

「静かに森の奥で暮らしたい。森がいつかなくなるのなら、雨が降るなら、その雨に濡れながら彼女を抱きしめたい。それで、いつか、爺さんになった姿を、見てもいい。あの子は僕のことが好きだもの。それでいいなら、僕はあんたとは縁を切って、あの子をさらって、どこかへ行く」

 煩い。

「あんたに拾われたのは、僕の最大の失敗だった。あんたに出会わなきゃよかった。あんたに出会わなければ、僕はあの子に出会えたら幸せになれた」

 俺は、ヨルダを突き飛ばして、髪を引っ張っていた。かつて自分にしていたように、今度はヨルダの髪を抜いて、切り刻みたい衝動に駆られた。戸惑うほどに、ヨルダへの憎しみが膨らんでいく。

 ああ、そうだ。俺は、

 ずっと誰かを、そうやって傷つけたかったんだ。復讐したかった。

 何もかも嫌いだ。

「馬鹿だなあ」

 ヨルダは疲れたように言った。

「僕はあなたから離れていかないのに。あなたの大切なものを取ったりしないのに」

「でも、欲しいんだろ」

 暗い感情が渦を巻いて、俺を咽せ返らせる。

「欲しいわけないでしょう」

 ヨルダは言った。

「馬鹿だなあ。こんな記憶もどうせ消してしまうのになあ」

 ヨルダはそっと俺の頬を撫でる。それさえも吐き気がして、俺は頭の中で、何度も何度もヨルダを傷めつけた。

 取られるくらいなら、殺してしまおうか。

 どうしてそんな気持ちが湧いてくるんだ。

 ヨルダのことを信じていたから。ケイッティオに惹かれているだなんて言うから。

 そうだ、こんな記憶いらない。

 好きだったもの。嫌いだったもの。俺の心を蝕んだもの。

 全部忘れてしまえばいい。

「心配しなくても、あんたがマキナレアになる時には記憶を消しますよ」

「マキナレア?」

 聞き慣れない単語に、俺は顔をあげる。

「僕の発明品ですよ」

 ヨルダは感情のない声で、柔らかく微笑しながら答えた。

「あなたも僕の発明品になるんだ」


 ヨルダが鮮やかな赤紫色の髪の少女を連れてきたのは、それから三日後だった。

 俺は、それが二十日鼠だと気づいて、見ないふりをした。

 ケイッティオが好きだと言った錬金術師の少年に、やっとまともな恋人ができてよかったなと、

 ケイッティオの隣で笑ったのだ。



     ✝✝



 もう、何もわからない。

 少し焦げた、花の匂いがする。

「あなたの記憶とはお別れですよ」

 何処からか、何処かで聞いたような声が染み渡る。

 何も、後悔はない。

 何かを忘れてきただろうか。置いてきただろうか。

 俺は、急に不安になって、薄れゆく記憶の海の中で、それを探そうとした。

 名前を思い出そうとして、思い出せないことに気がついた。

「俺の……名前がわからない」

「名前ですか?」

 声は少し笑ったようだった。

「もう必要ないでしょう。あなたが僕に預けたんですよ。もういらないって。消えてなくなるために、って」

 声は嗤う。

「そうでしょう、レデクハルト。世界の救世主」

 鉄琴の音色がどこからか聞こえる。聞いたことのある曲だ。瞼が重くなる。

「世界を置いていく、救世主」

 声は、どこか寂しそうだった。この声が誰のものだったのか、思い出せない。

「レデクハルト……じゃない、俺の、本当の、名前だ」

 お前にだけ教えた、俺の名前だ。

 憎くて、楽しかった。

「それも、もう必要ないでしょう?」

 声はただ嗤い続けた。

 答える力も、もう残っていなかった。

「ねえ、レディ」

 薄れゆく景色の中で、近づいてきた夢の霧の向こう側で、声は少し寂しげに、身を震わせながらささやく。

「僕も、すぐに行くから」

 ああ、そうだ。俺は目を見開いて。

「僕も、行くからね」

 お前を、置いていくところだった。

 お前を連れてきた日。

 お前の手を引いて歩いたんだ。

 つまらない世界が、日々が、

 不貞腐れて態度の悪い、不健康なお前を見ていたら、なんだか楽しくて。

 なんだって出来る気がした。

 この砂にまみれた世界で、子供のように生きようと誓った。

 お前は、あの時の俺の願いを、僕の夢を叶えてくれるんだね。

 声は泣いていた。どうして泣いていたのかわからない。僕がたくさん笑っていたから、嬉しくて泣いたのかもしれない。

 ヨーデリッヒ。


 一緒に、世界を造ろう。


 俺は笑った。

 二度と戻らない夢の中で、悲しみの海の中で、ただ嬉しくて、笑っていた。


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