『🔬クリーンな核爆弾』後編
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わたしと彼女の間にはずっと昔に交わした約束があった。
それはわたしがこの刑務所に入れられる前の話で、わたしが彼女との結婚を真剣に考えていた時の話だ。
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その約束が交わされた時、彼女は女優になる夢を追いかけてアメリカへ旅立とうとしていた。
「ぼくは……かならず君をアトランティス大陸に連れて行くよ」
その時、彼女はわたしをじっと見つめたきりだった。
たぶんそのときわたしが話すべき言葉ではなかったからだろう。
本当だったら、『結婚してください』だとか、『ずっと一緒にいてほしい』という言葉を話すときだったのだ。
だがその時のわたしにはそれしか言えなかった。それで精一杯だったのだ。
彼女は少し笑ってからこう言った。
「分かったわ。その時がきたら絶対教えてね」
「ああ、かならず伝えるよ、その時が来たら!」
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わたしはこの日の電話で、彼女とあの約束を交わしてから初めて、『アトランティス大陸』へ行くことを告げた。
それはわたしがずっといえなかった言葉であり、彼女がずっと待っていたはずの言葉だった。
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そしてわたしがリクエストした彼女の水着姿の絵葉書。
これもわたしと彼女だけが共有しているキーワードだった。
もうずいぶんと昔の話になるが、彼女が全国的なアイドルになったきっかけの仕事というのが、アトランティス大陸を探す番組のレポーターだったのだ。
そのテレビ番組の中で彼女はアトランティス大陸ゆかりの地を次々と訪れ、最後にポルトガルのアゾレス諸島に渡った。
そこはアトランティス大陸があったとされる候補地の一つだった。わたしもその地の事は本で読んでいたが、その光景を映像で見るのは初めてだった。
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そこはとても美しいところだった。
宇宙まで続いているような深く青い空、それを写し出してエメラルドグリーンに輝く海、黄金色の太陽はさんさんと輝き、真っ白い砂浜が砂粒のひとつひとつをきらきらと輝かせていた。
その奇妙に現実離れした光景の中で、鋭子は真白なワンピースの水着を着て、潮風に長い髪をなびかせていた。
あまりに美しい、完璧な瞬間だった。
番組の最後で彼女は、真っ直ぐに海の向こうを指さして言った。
「アトランティス大陸は、今もこの海の向こう、そのどこかに眠っているのです……」
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ちなみにこのテレビ番組のレポートの基となった論文を書いたのは小学生のわたしである。
のちにそれがきっかけでわたしと彼女の間に友情が芽生えることになるのだが、テレビの放映当時、わたしはその論文が使われていたことすら知らなかった。
むしろ同じことを考える人がいるのか、と感動し、ますますアトランティス大陸の実在を確信したくらいだった。
それはともかく、わたしたちにとってアトランティス大陸というのはいつでも特別な存在だった。
それはわたしたちの過去を築いた重要な要素であり、現在のわたしたちの中心にある存在であり、ふたりの未来への目標だった。
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そして遠い昔に鋭子が指さした海の向こう、アゾレス諸島の沖合いにアトランティス大陸は実在する。
何しろ今現在、私がここアトランティス大陸で生活し、この物語を書いているのだからそれは間違いない。
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だが、この時点ではまだ『アトランティス大陸』の位置は分かっていなかった。
それでも実在することだけは分かっていた。
なぜならわたしはかつて、そのアゾレス諸島の沖合で、実際にアトランティス大陸に上陸したことがあったからである。
それはわたしが大学生の時の事だった。わたしは小学生からの親友『龍次』と一緒にアトランティス大陸を捜しに出かけ、偶然にもアトランティス大陸へとたどり着いていたからである。
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わたしのもう一人の親友『龍次』のこと、そしてこのときの冒険談は、長くなりそうなのでまた別の機会に改めて書くつもりだ。
とにかくアトランティス大陸の正確な位置はまだ分からなかったものの、実在することだけは知っていたということである。
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あのときは、彼女をアトランティス大陸へ連れて行くことはできなかったが、今回は違う。
今度の計画で、わたしは二百人の科学者全員を脱獄させ、アゾレス諸島へと渡り、それからみんなでアトランティス大陸へと逃げるつもりなのである。
それこそがわたしの考える脱獄計画だった。
もちろん今度の計画では彼女も一緒だ!
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わたしの猫たちはひざの上で柔らかな寝息を立てている。
つややかな毛に覆われた皮膚の下で、ゆっくりと規則正しい寝息を立てているのが見える。
この二匹もちゃんと連れて行ってやらないといけない。科学者連中が二百人近く。その中でペットを飼っているのが約三分の一。これだけの脱獄となると、それこそジェット機でもチャーターしないと収まらない……。
しかしわたしの計画がうまく行けば、そんな大げさなことをしなくてもすむはずだった。
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と、ふたたびわたしの部屋の電話が鳴り出した。
猫たちがぴくりと耳を動かした。
が、起きるほどのことではないらしく、また耳をふせて眠りだした。
なんとも電話の多い日だった。
「はい、もしもし織田です」
「センセイ! 僕です。田中です」
その声は囚人番号一番、あの『田中
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ちなみに田中ハジメはわたしのことを『センセイ』と呼んでいた。
何度かやめるようには言ったのだが、一向に効き目はなかった。
いまだに監禁された当時の中学生の気分がぬけないのだろう。
ここに監禁されている多くの科学者もそうなのだが、外界との接触を断たれると成長が止まってしまうらしい。
それはわたしも例外ではない。
わたし自身、ここにきた二十六歳から精神的に成長していない気がする。
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「どうしたんだね? こんな時間に」
「ニュースを見たんです。あれも先生の発明品だったんですね」
「残念ながらね」
「残念? あんなすばらしい発明の何処が残念なんですか?」
「核爆弾を使わせるきっかけになってしまったところさ」
「あ。なるほど。しかし科学的に見ても、あんなすごい発明はないですよ。要は放射能の半減期をすごいスピードで進めるって事ですよね!」
「ああ。簡単に言えばね……」
「問題は中性子の制御なんですよね……センセイの発明を見て僕にもピンと来ました!」
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わたしは頭の中でため息をついた。
田中ハジメ。囚人番号一番。
この収容所を建設させる直接のきっかけとなった天才少年。
彼こそ本当のマッドサイエンティストと呼ぶにふさわしいだろう。
困ったことに彼には道徳心というものがまるでなかった。
また他人や世界というものに対して、およそ無関心だった。
彼にとって関心があるのは、理論やアイデアといったものだけで、その使い道、それがもたらす結果というものにまるで関心がなかった。
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だが彼がそうなったことには同情すべき理由があった。彼がこの刑務所にやってきたのはわずか十三歳の時だったからだ。
普通ならば中学一年生。学校に通って友達を作ったり、勉強したり、クラブ活動をやったり、恋をしたり、本を読んだり、そういうことをしていなくてはいけない時期である。
そういった人生の勉強をするべき貴重な時間を、彼はずっとこの収容所の中で過ごさねばならなかったのだ。
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だが彼が収容されるのにもまた理由があった。
先にも触れたが、彼がここに収容されるきっかけとなったのは、世界最強のコンピューターウィルスを作り出してしまったからである。
このウィルスはコンピューターの最も初期的な計算機能を麻痺させるもので、一度感染すればコンピューターは一切の機能を停止してしまう。
これを意図的に使えば世界中のコンピューターをダウンさせることも簡単だ。そこから予想される混乱と損失は計り知れない。
それこそ世界の滅亡というシナリオまで簡単に描けるだろう。
この事態を重く見た政府が、兵器として使用されないために彼の身を完全な拘束下に置くことにしたというわけである。
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驚くべきは、彼がこのウィルスを作り出したのが、パソコンに初めて手を触れてから、わずか半年後だったという事実である。
彼には最初から驚異的な記憶力と理解力、思考回路、閃きと直感、といった科学者に必要なものすべてが備わっていた。
彼はインターネットを通じ、ありとあらゆるプログラムに触れそれをマスターしていったという。
その中にはウィルスの製造法などもあり、彼はその仕組みに魅了された。あらゆるワクチンを無効にする最強のウィルス作り。彼は出来上がったそれをメールに乗せて、面白半分に警視庁に送りつけた。
結果は予想通り。見事に警視庁のすべてのコンピューターが機能を停止した。それは世界的なニュースとなって駆け巡り、面白半分ではすまなくなった。
怖くなった彼は自首した。
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ちなみにその後警視庁のパソコンは結局すべて入れ替えられたという。
被害がそこだけにとどまったのは、彼がわざわざそうプログラムしたからであり、通常のウィルスと同様だったならば、世界中のパソコンがただの金属の箱となっていたかもしれないという。
なんとも恐ろしい話だが、田中ハジメはにこにこと楽しそうにその話をしてくれた。
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田中ハジメはこうした経緯でこの収容所にやってくることになった。
しかし皮肉なことにそれが彼の恐ろしい才能を開花させることになった。やがてこの刑務所にはあらゆる分野の科学者が集まるようになったからだ。いずれも世界的な権威を持ち、学会をリードしてきた一流の科学者ばかりである。
その連中の中で彼だけが中学生で、好奇心旺盛だった。しかも彼には専門というものがなかった。見るもの聞くものが新鮮で、刺激に満ちていた。
自然と彼はいろんな科学者のもとで学び、共同研究に加わり、そしてあっさりと彼らを追い抜いていった。
しかしそれと引き換えに彼は肝心なものを学ぶチャンスを失った。それは道徳や、愛情、友情、思いやり、そういった人間的なものすべてに関することである。
それは悲しいことだとわたしは思う。
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「すべて、君の言うとおりだよ」
わたしは田中が仮説を語り終えると言った。
実際彼の立てた仮説はぴたりとわたしの発明を言い当てていた。
「そうでしょう。でもやっぱりセンセイはすごいですね。そんな発想、僕には思いつきませんでしたよ」
「いや、きっかけさえあれば君が発明していたと思うよ。そうそう、ところで今暖めているアイデアがあるんだがね……」
わたしは何気ない調子でそう切り出した。
これからちょっと釣りを始めるつもりだった。
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「どんなアイデアなんですか?」
「興味があるかい?」
「もちろんです!」
「今度こそ全人類を救う発明なんだ」
電話の向こうで急に田中が沈黙した。
沈黙の向こうで田中が戸惑っているのが見えるようだった。
それは予想通りの反応だった。だからわたしはこう付け加えた。
「素粒子物理学のアイデアなんだよ。たとえて言えば、木炭からダイアモンドを作るような発明なんだ」
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田中ハジメは少し考えているようだった。
わたしの猫をなでる手はいつの間にか止まっていた。
わたしは祈るような気持ちだった。
何気なく話してはいたが、わたしは彼の頭脳を必要としていたのだ。
脱獄のために。
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「面白そうですね! 僕もぜひ参加させてください!」
わたしはゆっくり息を吐き出した。
気づくとサイとコロが催促するようにわたしを見つめていた。
わたしはふたたび猫たちの背中をなでた。
「そういってくれるとじつにありがたい。君が参加してくれれば今回の発明もきっとうまく行くよ」
「僕もお役に立てるように頑張ります」
「よろしく頼むよ。明日の昼にカフェテリアで簡単な打ち合わせをしよう」
「はい。楽しみです。おやすみなさい、センセイ」
「ああ、おやすみ」
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こうしてようやく長い一日が終わった。
それからわたしはサイとコロを抱き上げるとベッドに入って一緒に眠った。
しかし目を閉じるとあの光景がよみがえり、結局眠ることは出来なかった。
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第三章はこれで終わりだ。
これが一番思い出したくない思い出だ。
いまでも、こうしてあの日のことを思い出すと、怒りと悔しさと、どうしようもないような人類への絶望が思い出される。
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わたしたちには明らかに自覚がたりない。
ああいう戦争行為や何かを全て人のせいにしている。
政治家のせい、科学者のせい、文化のせい、企業のせい、その他もろもろ。
だがそういった原因は全てわたしたちの中にあるのだ。
もっとそれを自覚しなければならない。
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わたしが小さい時に、学校ではいじめというものが流行していた。
ちょっと見てくれが悪かったり、性格が暗かったりすると、みんなで無視したり、ちょっとした暴力をえんえんと与え続けたりしていた。
そのとき大人たちがこういうのを聞かなかっただろうか?
『黙って見ていた人も加害者です』
戦争だって同じ様なものだ。
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