嫌わないでくれよ、人間 【短編集】
成瀬なる
黒猫の話
白い壁に囲まれた殺風景な自室の壁に掛けられている時計が、カチリと音を立てて午前零時を指した。
私は、進み続ける秒針に急かされるようにベッドから降りる。眠っていたわけではない、泣いていたのだ。彼に会うといつも泣いてしまいたくなって、堪えようと思っても、最後には泣いてしまう。だらしなく、嗚咽を溢しながら顔をぐしゃぐしゃにして。だから、こうして、彼に会う前に泣けるだけ泣いておくのだ――無意味だと知っているのに。
自室の部屋で流す涙と彼の前で流す涙は、姿は同じでも性格は全く違う。
自室の涙は、私そのものだ。家と学校を行き来して、休日には本を読んだり、近くを散歩したりするだけの彩のない灰色の私。
彼の前での涙は、私の理想だ。毎夜の午前零時から午前二時までの二時間だけ演じることが許され、彼を好きでいたい自分だ。
私は、待ってよ、と叫んでも進み続ける時計を睨みながら家を後にした。彼――自分を黒猫と名乗る男の子――に会いに行くために。
*
彼と会うときの決まった場所はない。神社の時、公民館のベンチの時、無人駅の中の時、この前は廃ビルの屋上だった。彼を探して、私が、夜の街をウロウロとしていると声をかけてくれるのだ。
初めて出会った時もそうだった。最終電車が通る踏切が嫌な耳鳴りのような音を響かせている時、後ろから声をかけられた。
「死ぬのなら、僕の物語を聞かないか? 僕は、物語を作るのが好きでね、でも、恥ずかしくて誰にも語れないんだ。 死んでしまう君なら下手な物語を語っても恥ずかしくはない」
すらりとした体形で、長髪の髪から覗く三白眼は鋭く睨みつけているように見えるのに、ニコニコと微笑んでいる口元が不釣り合いで不気味だった。
だけど、私だって捨ててしまう命の所有者だ。捨ててしまうなら最後くらい人の役に立ちたかった。物語を聞くだけで彼が喜んでくれるならと思うと、前を通っている最終列車に飛び込む気も失せてしまった。
今夜も彼は、三白眼で睨みつけながら怖いほど優しい笑みで私に声をかけた。
「やぁ、今夜は温かいね」
「こんばんは。 今日は、嬉しそうだね」
彼――黒猫は、分かるかい?、と言って月のない空を見上げた。
「今夜は、月もなくて暖かくて、黒猫が隠れるのには丁度いい日なんだよ」
「まだ、嫌われているの?」
黒猫は、いつも口癖のように「僕は、嫌われ者なんだ」と言う。理由を聞くと「黒猫は、憎まれているんだ」と切なそうに微笑むのだ。
私は、そんな黒猫を見ていられなかった。それは、彼の物語の聞き手になってしまったからかもしれない。黒猫の語る物語の大半は、バッドエンドなのだ。
まるで、彼の言う嫌われ者の理由みたいな物語ばかりなのだ。
黒猫は答える。
「僕は、嫌われ者なんだよ。 誰からも愛されない。 だからと言って、僕も愛を望んでいるわけではない」
「そんなこと言わないでよ。 私は、あなたが好きよ」
黒猫は、クスリと口元に手を当てて笑う。
「黒猫を愛してはいけないよ」
「それでも、私は――」
言葉を続けようとした時、近くでサイレンが聞こえてきた。黒猫は「サイレンの音は嫌いだ。 変に焦ってしまう」とだけいい、歩き出す。
また、黒猫を愛する話が曖昧になってしまった。
私は、手の届かない問題に眉を顰めながらも、仕方がなく黒猫の後ろをついていった。
「今日は、どこに行くの?」
「今日は、歩きながら物語を話そう。 こんな夜はめったにないからね」
夜道は怖いからといういい加減な理由を自分に言い聞かせて、黒猫にぴったり寄り添った。黒猫も、嫌がることなく私を受け入れてくれる。
「じゃ、物語を語り始めようか。 今日の物語は、一匹の蛙の話だ。 泳ぐことの苦手な可哀そうな蛙の物語――」
こうして、今夜も自称黒猫の少年の物語は始まった。
私は、彼に寄り添って物語を聞くだけだ。たまに、相槌や質問を投げかけながら二時間という増減のしない規律の中で、麻薬のような快楽を求めた。
泳げない蛙は、結局、死んでしまいました。誰かの手を握ることもなく、孤独に水を憎みながら――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます