04. 光

 「りゅうおう、さま?」

 舌に乗せれば蕩けてしまいそうに甘やかな響きだと、澄佳は思った。宮に上がった澄佳に、はじめて与えられた権利。神語ではなく、澄佳と呼ばれること。皇子ではなく、琉枉と呼ぶこと。――――呼ぶこと。名を許し、許されるということは存在の証明であり、こころを繋ぎ合わせるということだと、澄佳は思う。

 そうでなくては、身体に馴染んだ己の名を呼ばれただけで救われたような心地になんて、なるわけがなかった。

 「そうだ」

 琉枉は口元を緩めることはしなかったが、目を細めて澄佳を見た。その瞳は変わらず凪いでいたが、澄佳はそれを恐ろしいとは思わなかった。黒曜の静謐な輝きに、ただ見惚れた。その光はまるで天啓のようだった。澄佳は、祖母の言葉を思い出す。


 『お宮のおうさまを、助けて差し上げて』


 琉枉は國の皇ではない。けれど、澄佳は確信したのだ。このひとのために、あたしはここに来た。この確信に、理由などない。それでも、澄佳自身がそう決めたのだ。ならば。澄佳は両の膝を床につけ、腹の前で掌を上下に向かい合わせる形の礼を取った。間に合わせの都風の作法ではない、それは草原のしきたりに基づいたものであったから、琉枉に伝わるか澄佳には分からない。けれど、自分にできる至高の礼を、この小さな主君に捧げたいと思ったから、それが全てだった。

 「琉枉さま」

 「ああ」

 「あたしは、澄佳はあなたの、琉枉さまだけの、神語です」

 ――――歌うような宣言だと、琉枉は思った。きらめく声で、朗々と。自分じぶんのものになるのだと、少女澄佳は告げた。何も許されなかった皇子が、求めずして与えられた生ける神話。神語。どうしてもと願ったわけではない。ただ、可能性として連れられた贄の娘だ。何も知らされず、わけもわからず、ここに来てしまった少女。ともすれば、琉枉などより余程哀れな娘。


 けれど、それでも、もうこれは、琉枉のものだった。


 「……そうか」

 言葉でも理屈でもなく、けれど琉枉は澄佳の主となったのだと、互いが理解した瞬間だった。

 不意に、絡んだ視線をそのままに、琉枉は指を掬い上げるように奥の扉へ向けた。それは澄佳が先刻通ったものよりも一回り小さい、美しい拵えの扉だった。ひとすじの名残惜しさを覚えながら、澄佳は扉へと視線を移す。奥の間には何があるのかと問う前に、果たして答えはもたらされた。

 「お前の部屋だ、澄佳」

 入ってみろと促されるままに立ち上がり、澄佳はそっと把手に手をかけた。微かに軋む音は耳に心地よく、澄佳はこの扉を好きになった。そして、開けた先の小さな部屋のことも。その部屋は、故郷の、草原の面影を偲ばせる調度に彩られていた。床に敷かれた毛皮や、壁に掛けられる刺繍の施された大きな布地。単純な柄の、けれど馴染み深い文様の鉢や椀。

 「琉枉さま、これ、この部屋」

 「歴代の神語も、ここに暮らしたそうだ。だから。他に必要なものがあれば言え」

 琉枉に謁見してから、次々に与えられる権利ゆるしに目が回ってしまいそうだと澄佳は思う。自分を消して、お仕えするのだと覚悟を決めてきたはずだったのに。嬉しいと、思ってしまう。神語ではなく、神語の澄佳であることを認めてくれた、そんな琉枉あなただから、

 「あたし、琉枉さまにお仕えすることができて良かった」

 澄佳は、宮殿に上がって初めて、笑うことができた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る