愛しい人は 3
ついに、この白い街並みも見納めになりそうだ。
窓から見える白が覆い被さるだけの景色を三浦は眺めていた。
「居心地が良すぎたな」
一人呟き、笑う。いつの間にか身に付いてしまった放浪癖。そんな中でも札幌は長く滞在していた方だった。恐らく、事情を良く知っている旧友の藤岡氏がいたこと、そしてここでは私生活で寄り添う女性を持たなかったことが、気を楽にしていたのだろう。故郷では見られるはずもない別世界のような気候も、きっと三浦を遠い外国に逃げてきたかのように思わせてくれていたに違いない。
今までは少し人間関係が深くなってくると、すぐにその土地を出て行く生活。どんなに円滑な関係が築けても、三浦の内に誰かが一歩入り込んできたと感じたら、荷造りをして出て行った。
探られたくなかったのではなかった。思い出したくなかっただけだったのだ……三浦は今になってやっと自分を知った。
多恵子のおかげだった。
あの家庭だけで生きてきた清らかなだけだった女性のおかげ。
家庭という小さな囲いでも、彼女が小さなことを長く積み重ねて揺るがないものを持っていたように。小さな囲いの中でも、未来を背負う子供を育て上げようとしていることは、三浦には大きなことに思えた。
生意気な口を聞いても『父さん、また会いにくるからな』と、東京から札幌へと頻繁に通ってくれるようになった息子の拓海。三浦には『いつのまにか大きくなって』という驚きもあり、上達していく絵画の技術を確かめては『僕の息子だ』という確信を得たり。だが三浦は知ったのだ。この息子が今、僕の目の前で立派な美大生として成長したのはどうしてか。
「先生、こんにちは」
多恵子が来た。本当にこれで最後に出来るだろうか。なるべく早く、彼女を彼のところにお返しせねばならない。だから長時間と長期の拘束を避けようと心がけている。
だから今日で最後にしてあげたい。だが、筆は許してくれるのかは画家にもわからない。
彼女が裸になるところも見納めだろうか。白い背に手を回し、慣れた手つきで淡い水色のブラジャーのホックを外す多恵子。そのしなやかに背を反って肩越しに振り返った身体のラインを三浦は眺める。ああ、いい線のポーズだな。良い表情だな。手つきが綺麗だ。密かに惚れ惚れとした溜め息をこぼしてしまう。
裸になることを怖れていた女性ではなくなっていた。もちろん、露出に慣れたという意味ではない。自分の全てを受け入れられた落ち着きが見て取れた。そうして毒を身体に巡らせた後、汗びっしょりになるほどに藻掻いて喘いでのたうちまわって。毒々しさが激しかった分だけ、その後に毒気が抜けた清々しさが際だって非常に美しかった。
初めて彼女が画廊に来た時に、感じたこと。か細い頼りなさそうな声色の奥に垣間見た細くても凛とそびえたっている一本筋のガラス棒を思い描いたあの時。あの綺麗なガラス棒が内から出てきて、彼女自身になったようにすら思えた。
「待っているよ」
「はい、先生」
「慌てなくてもいいよ。気持ちが落ち着くまで、じっくり。僕はいくらでも待っていられるから」
多恵子もにこりと輝かしい笑みを返してくれた。
アトリエの窓辺にあつらえた大型カンバスのイーゼルに向かい、三浦はそこに座る。カウンターを手元に引き寄せ、よく使う絵の具が揃っているか確認する。パレットに使う色を出しておき、油壺にオイルを継ぎ足しておく。筆もよく使う順に並べ、描いている間に何かが手元になくなり手惑わないように支度をする。
「雪子さんは、どうですかね」
冗談交じりに、三浦は『雪子』と無理に名付けたカンバスを見上げる。
「もうすぐお別れですね。札幌の雪ともお別れ。僕はもうすぐ」
そこで多恵子が入ってきたので、三浦は口をつぐんだ。
今日もその窓辺に多恵子が立つ。札幌の午前の陽射しは雪に反射し、この時が一番眩いように思える。その強い光が多恵子の身体半分を明るく露わにした。真っ白な乳房が片方だけ強い光彩で強調される。
「すみません。今すぐ陽を避けます」
日光が当たると、あまりにも白さが際だつので、なるべく影に入るように指示していた三浦だが。
「いや、少しだけそのままで。ああ、肌が辛くなったら影に入って良いよ。貴女の肌は日に当たると直ぐに赤くなるから」
何故か、多恵子がすこしだけ驚いた顔をした気がした。
「わかりました。少しだけ」
「うん。白くて綺麗だね」
なんとなく出ていた言葉にも、多恵子が驚いている。
そして三浦も。自分で驚いてしまい、慌ててパレットの油絵の具を筆に乗せた。
カンバスの雪子にも半分だけ陽射しがあたった。彼女と多恵子が同じようにそこにいる。
静かに物音も立てずに降り積もった雪が、日に当たって目に突き刺すほどの光を放つ。
頬を上気させるほどのテンションに持っていくこともお手の物になったモデル多恵子。それでも自然と奥から滲み出てくるだろう微笑みは無意識に出ているようで、絶えず彼女は柔らかな顔つきで唇さえ艶めいて見えた。
幸せなんだなあ。
そんな彼女を知って、僕の心もこの雪の光のようにはしゃぎたくなってしまうのは、どうしてだろう。
どうしてだろう、だなんて。本当のところ、三浦はそれを自分で良く知っていた。
そしてその気持ちのまま、三浦は飛びたくなる。札幌から遠くへと。この気持ちのまま消えてしまいたい。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ついに筆を置く。「もういい」と答が出たようだった。
「お疲れ様。もういいよ」
そのまま多恵子に告げると、彼女の肩の力がふと抜けたのを見る。
「お終いですか」
本当にこれで最後か。多恵子には実感が湧かないようだが、無理もない。三浦も、もう二度と彼女と会わないその瞬間を自分で迎えることにしたのだって実感がない。
「お終いですよ、多恵子さん」
同じように思っている。毎回そうしていたように『お疲れ様、今日はこれでお終い』と言えば、三浦が湯を沸かし、多恵子は服を着て、向き合って紅茶を飲む。それが今日も今からありそうな気がするほど。
まるで良い茶飲み友達のように色々と話した。主婦だからこそ良く知っている多恵子の世間話に、アトリエ以外の世界を知らない男である三浦が驚き。逆に家庭しか知らない多恵子は、あちこちを回ってはその土地の恋人を持って暮らしてきた三浦の日々を聞くと驚いていた。
三浦は外を彷徨い、多恵子は家庭という決まった囲いの中で彷徨っていた。世界が違うから知らなかったことを互いから知った。
今日も紅茶が出てきて、この日の話題は何になるのか。もしかすると描くことより、二人で何気なく会話を楽しんでいたことが一番の楽しみだったような気もしてきた。
また次のモデルの日に。わかりました、先生、また次に、お疲れ様。お疲れ様、多恵子さん、気を付けて帰るんだよ。そんな挨拶も日常で……いつしか、三浦は、彼女をまるで自分の……。いや、もうやめよう。
「長い間、お疲れ様でした。お陰様で、今までとは違う時間を画家として過ごすことが出来ました」
月並みの、どのモデルにも述べてきた礼の言葉。多恵子だからと特別な言葉を探そうとも思わなかった。
「私こそ、有り難うございました。思っていたことを見つけることが出来ました。先生と出会ったおかげです」
こちらも月並みの。だが、三浦はふいに目が合いそうになった裸体のままの多恵子から、カンバスへと顔を隠してしまった。
月並みなのに。年甲斐もなく、泣きそうになったからだ。そんな月並みな言葉でも、多恵子の声に気持ちがこもっているのが伝わってきたからだ。
カンバスに隠れたまま、今度は三浦が――。
「僕のおかげじゃないよ。貴女が、多恵子さんが、裸になろうと決めたからだ。脱いだからだ」
「脱いで、何が起こるかだなんて、深く考えていませんでした。それは予想以上の、とても激しいものでした。でも、私」
彼女の声も震えている。
「私、でも、私は」
「うん、わかっている。言わなくても良いよ」
「……そうですか」
毒。脱いだことが、彼女の毒だった。誰のことも考えず、自分がそうしたいから脱いだ。その時から彼女の身体に毒が回った。彼女の中に溜まっていた毒が初めて身体中を駆けめぐっていった。どんなに正しさや綺麗な答を頭で唱えても、手遅れだったのだ。彼女は、いや、『彼女も』持っていたのだ。毒を。
でもだからこそ、彼女は毒が回る前に既に持っていた大事なことを思い出すことが出来ただろう。彼女の不満の塊だった、バブルワンピースはもうどこにもない。二度と彼女は着ようとしないだろう。
「多恵子さん、お幸せに」
何故か雪子を見て、三浦は彼女によく似た少年に、黒いネクタイが似合う男性を思い浮かべていた。彼等が彼女の横で笑っている姿。それが全てだった。
「先生」
多恵子に言われたが、三浦は動けなかった。
「先生。顔を見せて」
気が付くと、裸のままの多恵子が直ぐそこに。雪子のカンバスの端に立って、隠れている三浦を覗いていた。
情けない男の顔を見せられるものか。だが多恵子はそこから去ろうとしてくれなかった。
「先生。お願いです。最後に先生の目が見たい」
言われ、やっと三浦は多恵子に顔を見せる。裸体の多恵子を見上げた。
「先生。聞いても良いですか」
『描いて』。熱い肌の触れ合いの中にも、多恵子は三浦に画家であることを望んでくれた。あの目で多恵子が見ている。
「なんだい」
「これから、どうされるのですか」
「貴女には関係のないことだよ」
意地悪いかもしれないが、言いたくないからそう告げた。だが多恵子もがっかりした顔などは見せない。どこか毅然としていた。
「同じ毒を喰らったと仰いましたよね。だから私、なんとなく先生がどうするかわかっているつもりですが、思い上がりでしたね」
いや。きっと。貴女が思っていることは合っている。でも三浦は黙っていた。
「先生が札幌を出た後、先生がずっと願っていたことが叶うように、私もお祈りしていますね」
肩からぐらりと全てが崩れていきそうだった。なにもかも判っている彼女に。多恵子は本当に三浦のことをよく見て知ってくれていた。だからこそ三浦を思い遣ってくれた心地よい柔らかさに溶けきってしまいそうだった。最後もそんな彼女が思ってくれる気持ちに、三浦は力が抜けてしまいそうになる心地よさを感じてしまい、そんなことになったら、益々情けない別れになってしまいそうで、三浦はただただ動かぬように堪えることしかできない。
だいぶ以前から多恵子は既に知っていたのだろう。三浦の奥にある全てを、本心を、空虚と渇望を。あの時『描いて』と彼女が言わなかったら……。今になって彼女があの時『描いて』と言ってくれたのはこの為だったような気さえして驚く。『描いて。熱く淫らに愛し合っても。先生なら愛した人を描けるから』。これが描けたら、最愛の妻だった女性も描けるはず――。彼女が三浦を過去から突き放そうと決した体当たりの訴えだったのかもしれない。
もし、彼女も僕に恋をしてくれていたなら。あれが彼女の恋人にはなれない女としての、せめてもの思いだったのか。でも多恵子もそんなことは誰にも言わないだろう。三浦にも、そして、きっと充さんにも。彼女だけの思いだったに違いない。僕の都合の良い思い過ごしだろうか?
問う三浦の傍らに、今はまだ、いつものように優しげな彼女がいる。
「先生、お幸せに。ずっと願っていますからね、私」
そんな多恵子の優しい指先が、三浦の手に触れる……。三浦の胸の奥から、どうしようもないものが溢れてくる。
最後だから。許して欲しい。僕の今の気持ちを、今までの気持ちを。
三浦の肩先に、驚きで固まっている多恵子の顔があった。堪らずに立ち上がった三浦は、裸体の多恵子を力一杯に抱きしめていた。
でも、それだけ。それだけだ。感謝で一杯の気持ちを込めて、彼女がこの裸で教えてくれたことを、共に手探りの毎日を過ごしてくれた感謝の気持ちを込めて。
「有り難う、多恵子さん」
そしてついに、三浦は彼女の耳元に告げる。
「広島に帰るよ」
最後にやっと彼女の小さな黒目と合う。暫し、三浦の目を窺っていた多恵子だが。やがて、あの柔らかな笑みが三浦を包み込む。そして三浦の背を、その白い雪子の裸体で柔らかに抱きしめてくれていた。そんな彼女の優しさも孤独だった三浦には、ずっと甘い毒だった。でも今は、もう……。彼女が後押しをしてくれるなら、まだ躊躇っていることも、今度は絶対に逃げずに向き合わなくては駄目だと確固たる強さにしてくれる。
「良かった、先生。良かった。先生、今度こそ、今度こそ――」
ああ、今度こそ。僕も貴女が先に見つけたものを探しにいくよ。
「さようなら、先生」
涙に濡れた顔がそこにあったが、笑顔だった。
「さようなら、多恵子さん」
そのまま、三浦はカンバスに向かう椅子に座る。再度、筆を取る。
そして多恵子は自分が願っていたとおり、このアトリエでは裸婦として。そして裸婦の姿でここから去っていく。
再び、雪子に向き合う三浦の背に、彼女が一人で服を着て身支度をする気配がまだあった。
「出来上がった絵は、暫くは藤岡画廊に置いておくから」
『はい、先生』。それが三浦が最後に聞いた多恵子の声だった。
もうここにいた裸婦の気配はない。
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