タエコと雪子 7

 離婚後、気ままに全国に赴き気ままに適当な恋を繰り返してきた謙のことを藤岡氏は「贅沢だ」と、いつも羨ましがっていた。その代わり「君には家庭が在るじゃないか」とも言い返してきた。

 彼の誘いで札幌に居つくようになると、藤岡氏の自宅によくお邪魔するようになった。そこには当然、家族の団らんというものがある。

 彼と長年寄り添ってきた嫁さんに、そしてあの溌剌としている可愛らしい一人娘の、玲美。そんな彼と彼女等の団らんに入れさせてもらい、雪国の冬に囲む鍋料理は特に謙を暖かく包み込んでくれたものだった。

 しかし、それらは、友人が中に入れてくれる手っ取り早い『家庭体験』であっただけ。少しばかり羨ましく思っても、こうして中に入れさせてもらえている間、謙は寂しさを覚えたことなどない。

 希に。たまにしか帰らない川沿いのマンション宅に戻った瞬間、『僕って独りなんだな』と身につまされることがあった。だからなのだろうか? 藤岡氏の気配が直ぐ傍にあるアトリエに居ついてしまうのは。

 そうしておけば、彼が訪ねてくるし、たまに彼の嫁さんのご馳走にも呼ばれる。さらには、可愛い玲美がまるで親戚のおじさんのようにして謙に甘えてくれ、そして謙はそんな玲美を可愛がった。

 だから寂しいなど。そして、『もう恋人はいらないな』とさえ思った。年齢的にもどうにもエネルギーがいることで、若い女の子がなびいてくれる男でもなくなったし、同年齢の女性だと、多恵子のように『恋をするならリスクあるケース』を生む女性ばかりになり、やはり『面倒』なのだ。

 そうした中、落ち着いて筆をもてるようになった自分にも謙は安堵していた。

 本当の『裸婦画』は、変に女性を意識し、男を抑えて描くものではない。いつしかそう思う自分がいた。たとえ、身体が『本能的に反応してしまっても』、『三浦謙として、彼女達の身体を描くのだ』。女性達の美しい裸体線は、彼女達だけが持つ美だ。女性の誰もが生まれ持って手に入れた美だ。だから全ての女性が持つ千差万別のライン、それは全て美しいんだ。そう、僕は彼女達の裸体を『顔だ、表情だ』と思って描いている。そう思えた時から筆が進むようになった。また……何が好まれるかも謙は知っていた。そうして家庭を失った後、謙は安定を得た。画家としての安定だ。それは残念なことなのか、喜ばしいことだったのかは考えないようにしてきた。

 ……だからだ。だから。彼女を奪えなかったのかもしれない。


 謙は『家庭』を近頃思うようになった。多恵子という女性の身体中、それはまさに『家庭』を匂わせていた。

 だから僕は恋をしてしまったのだろうか。謙は自問する。恋に訳などないと思ってきたが、今日は自問する。

 彼女の肌に触れ謙が指を濡らした日。スケッチを数時間。本当に彼女とは無言でただ見つめ合っていただけだった。ポーズなどない。そこにいる彼女を描いた。時にまた唇が触れそうになった瞬間もある。だが今までと逆戻り。どことなく互いに気持ちが通じ惹かれ合っても、そこには触れあうことの出来ないベールが舞い戻ってきていた。

 今にも触れられそうだと謙が目をうっすらと閉じ、その気になる。しかし謙もそれ以上進めない。そして多恵子も眼差しを伏せ、そんな謙を見つめてくれるが、そこで止まってみているだけ。ほんのりと開いた唇がそれを欲しそうにしているのだと思わせても、まるで停止ボタンを押されたまま画面に映し出されている映像のように、それ以上、多恵子は動かない。

 見えない薄絹を挟んだ唇と唇に届くのは、淡い息づかいだけだった。

 ――『いい。そのまま……もっと』

 しかし。なんてことだろうか。次から次へと指が彼女のスケッチをしたがった。皮肉なことだった。抱きたくて抱けない女。抱けないと思うから描けるのか。それとも……。

「先生。あの、これでいいですか」

 はっとすると、薄暗い部屋に灰色の窓。真っ白い大粒の雪が次から次へと空から落ちてくる画が目の前にあった。

 呼ばれた声が聞こえた肩先へと、謙は目を向けた。

 曇り空で陽射しも当たらないアトリエ部屋、灰色の窓の前。そこ置いた真っ白な石膏が、こちらを見ている。色彩も失ってしまいそうな程、どんよりとした暗さの中で懸命にデッサンに励んでいる少年がそこにいた。

「あ、ああ。出来たかな」

 取り繕うように微笑みかけたが、レッスンに来ていた大輔は、そんな『先生』を訝しそうに見つめている。

 そんな……母親と同じ、ころんとした愛らしい黒目で僕を見ないでくれ。母親を思わす純真な目を、謙はそれとなく避け、部屋の灯りを付けようと立ち上がった。

「昼間だというのに、こんなに暗くなるとはね。雪国の冬は寂しいね」

「そうですか。生まれた時からここにいるから……他の地方の冬が分からないです」

 生粋の道産子である大輔。だが彼も白と黒と灰色のトーンしか司らない冬の窓辺を見た。

「先生、雪をずっと見ていましたね。やっぱり広島とか暖かい県から来た人って、雪は珍しいんですか」

 本当は雪ではなく、この少年の母を思っていたのだが、言えるわけもなく。だが、この少年と絵以外の話題も珍しかった為、謙も肩の力を抜くように答える。

「珍しいよ。雪は舞っても、滅多に積もらないんだ。車もいちいち冬になるから冬タイヤに替えようだなんてしないしね。だから偶に雪が数センチ積もっただけでも、街中が大混乱。電車は遅れるし、通勤時間は道路が混む。滅多にチェーンなど巻かないから、余程の積雪じゃないと使おうとしないし、だから積雪した日は事故も起きる」

 今度は道外を出たことがない大輔には驚きだったようだ。

「チェーンなんですか。スタッドレスタイヤじゃないんですか」

「冬のスタッドレスタイヤなんて、向こうの人間は買わないよ」

「チェーンなんて面倒くさいのに。雪の日に普通のタイヤで走るだなんて、そりゃ事故も起きるよ」

「だよね。そうなんだけれど、『雪が積もることが珍しい』から、いちいち冬用の準備はしないんだよ」

 逆に。札幌に来た最初の年に、藤岡氏が初雪予報を聞いて慌ててタイヤ交換を始めたのを見て驚いたぐらいだった。

「それだけ、同じ日本なのに違うんだよね。……いや、北海道は遠すぎるな」

 妙な気持ちで謙は答える。また窓辺の向こうで、いつまでも降り続く雪に視線を馳せる。

 まるで謙と多恵子のようだ。世界が違いすぎる二人の接点は、このアトリエだけ。僕は瀬戸内の海を心に宿し、多恵子はその白い肌そのもの北国の女。

「先生。俺、面取りデッサン上手くできないです」

「どれどれ」

 本日の石膏デッサンは『面取り』。滑らかに仕上がっている彫刻像とは違い、同じビーナス像でも、こちらは全て点と線と面だけで出来ている石膏像。これも基礎中の基礎。丸みあるものにも面がある感覚を覚えさせ、そこで線だけではない立体感を体感するもの。しかし、それが線だけの感覚でなんとなく描いてきただけの者には、面という整然とした『物理的理論』を突きつけられたような苦しさを覚えさせるのだ。大輔もまさにそれにぶち当たったようだった。

「デスケルに囚われるのも良くないよ。いびつで不格好でも良いから、まずは一枚仕上げてみよう」

 上手く描けないと納得出来ないふうの少年を、謙はやんわりと諭す。赤い鉛筆を入れるのはそれからだった。――『先ずは描いてみる。大事なことだよ』――そう言っている自分自身に謙は言い返したくなった。

 絵を生業にして女性を幾人も裸にしてきた自分が『もう描けない』とは何事だろうか。仮にもプロだろうに。創作に行き詰まっても、精神的に行き詰まっても、自ら筆を折れないのならば描き続けるしかないのに。

 それを僕は、この部屋で、あの女性に肌に抱きついてどうしようとしたのだろうか。

 彼女ではない、彼女の眼を引き継いでいる少年に諭されているのは画家の方だった。

『馬鹿だ。僕は本当に馬鹿だな』

 そして。男って奴は本当にどうしようもない馬鹿な生き物、とくに僕という男は。と、謙は唇を噛みしめた。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 少年は真剣だった。彼の目と衰えない意欲に圧倒されるばかり。そして謙もついつい、その気迫に呑み込まれるようにして付き合ってしまった。

 気が付くと、雪止まぬ窓辺が今度は漆黒に塗り固められていたので、二人揃って驚いた。昼間だというのに部屋に灯りをつけていたため、まったく気が付かなかったようだった。

「大輔君、もう真っ暗だ。今日はここまでにしよう」

 慌てて謙は鉛筆を置き、時計を見たが、まだ十七時前。北国の子供は、早い日没にも慣れているのか『まだ五時だね。大丈夫』なんてホッとしていた。

 それでもレッスンの時間を大幅に過ぎている。

「お母さんがきっと心配している。連絡を……」

「大丈夫ですよ。帰りに大通り駅で降りて画材を見てくると言ってあるし」

 やはり大輔はのんびりと片づけていた。

「でももう遅くなったから、真っ直ぐ帰ります。六時までには帰る約束なんです」

「そ、そうか。それなら、いいんだけど……」

 なにを僕はあたふたしているのかと、額に妙な冷や汗がじんわりと浮かんだのを感じてしまった。

 こんな少年と暮らしたことも接することもあまりなかったし、余所様の子供を預かるのも初めてだった。自分の息子や成人した玲美とは訳が違う、大輔は未成年。ちょっとのことが心配になる。

 それでも大輔は着てきた青色のダウンコートを一人で羽織り、着々と帰り支度を――。テキパキとしている動作が、キッチンで『主婦ですから』と微笑みながら紅茶を煎れてくれる多恵子を思わせた。

 そんなしっかり者の少年を見ているうちに謙は。

「せ、先生も大通りに用事があるんだった。そこまで一緒に行こう」

 嘘だった。だが謙は居ても立ってもいられず、自分のダウンコートを手に取っていた。


 


 年越し暮れ間近の雪は深くなり、まったく止む気配がない。何処かで必ず除雪車が走っている音、除雪している音が聞こえた。

「今年の正月は積もりそうですね、先生」

 駅までの道、路肩に自分の背丈以上に積み上げられた除雪の山を見上げた大輔が、溜め息を。

「本当だね。それでも去年はそんなに積もらなかったみたいだけど」

「そうなんですよ。最近は札幌の雪も温暖化で減ったとか、両親がよく言います」

「画廊屋のおじさんも、そう言っていたな」

 少年と男が並んで歩く。一瞬『僕でもこの子の父親に見えるだろうか?』と、側にある店のウィンドーを見てしまった。これでも大学生持ちの親父のはずなのに、なんだか僕は奇妙な風貌だななんて眉間に皺を寄せた。風変わりな服装でもないのだが、ムードの問題だ。やっぱり生活感なさそうな男だなと自分で思った。


 少年と共に、オレンジ色の路線を走る地下鉄に乗りこんだ。  言葉もなく、揃って長椅子に座った。

 走り出す地下鉄電車。向かい座席の窓辺にいくつものライトが素早く過ぎっていく。外が見えない、ひたすら地下トンネルを走る窓の景色は味気ない。遠い故郷の路線を思い返していた。菜の花が揺れる……。真っ暗だからこそ、鮮明に浮かんだ。

 画廊屋がある界隈から大通りはそれほど遠くない。

「先生。大通りですよ」

 またぼんやりとしていた謙は、少年の声で我に返った。

 オレンジ色の路線を降り、規模が大きい大通駅へ。改札へとエスカレーターを使って上階を目指すのだが。この少年を見送って、少しでも多恵子にきちんと届けたい気持ちを解消したい為の嘘だったのに、あっという間だった。

 エスカレーターを降りると、年の瀬を迎えている人々で溢れていた。日頃、謙が訪れるよりもずっと人がいる。若者も親子連れもお年寄りも、皆、買い物袋を下げて我が路線へと行き交う賑わいに溢れていた。

「すごい人だな」

「冬休みだし年末だから多いんですよ。それに帰りの時間だし」

 また大輔は慣れきっている平静さで呟き、でもそんな謙の顔を見て、ちょっとだけ可笑しそうに笑っている。

「俺の帰り道、あっちなんです。先生、さようなら。ありがとうございました」

 まだ別れる心積もりもないのに、大輔にさっさと切られた謙が面食らっていると、すぐそこに改札があった。先生はそこで降りると思ったようだった。

「あっちなんだね」

 人々が行き交う白い構内から、青色の路線の先を謙は見つめる。

「はい。でも乗り換えても数駅で降りるから直ぐですよ。さようなら……」

 でも少年はなにも感じ取ることもなく、笑顔で謙に背を向けようとしていた。それを必死に止めようとして出た言葉が。

「ドームの近くだよね。札幌ドームの!」

 大輔が振り返る。キョトンとした顔で。

「帰る路線の終着がドームの目の前ってだけで。俺の家はもうちょっと前の駅ですけど……」

 流石に、少年である大輔でも『訳が分からない大人』が言いだしたことを聞き流せなかったようで、不可思議なものに出会ったように戸惑っている。だが謙は押し切った。

「雪降る夜空に浮かぶドームを見に行きたいと思っていたんだ。そうだ。絵のヒントになるかもしれない」

 益々、困り果てた顔をした少年が立ちつくしていたのだが、どちらが大人か分からなくなるほどに、大輔が折れてくれる。

「こっちのホームですよ」

 まだ訝しそうに首を傾げた大輔の後を、大人の男がついていく。


 白い床に引かれている各路線案内のカラーラインの横を、大輔が辿るように歩く。大輔は慣れているからやがてそのガイドラインから外れても、札幌っ子の物怖じしない風格で人混みのメイン通路を闊歩しているが、謙は多恵子へと繋がる『青路線』のガイドラインをしっかりと目で見て辿った。


 人々が行き交うメイン通路から、青い路線『東豊線』へと大輔が逸れていく。謙もついていく。長い四本のエスカレーターにも沢山の人々が乗っていた。そこにも大輔は慣れた足取りでトンと乗った。勿論、謙もその後へ続く

 まるで、家路に帰る多恵子を追っているような、そんな気分にさせられた。

 そして青い扉と白い車体の地下鉄電車がホームに入ってきたのを見た時に謙は思った。

 こんな雪深い暗闇の中『はい、さよなら』と少年だけを帰すのが不安で、『無事に送り届けたい』という気持ちも本当だった。

 だがそれだけじゃない気持ちが湧き上がっていることに気が付いた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 青色線の電車に乗り込んでも、またもや、少年と並んでいた。今度は混み合う帰り道の路線。人々で埋め尽くされる車両におり、二人はドア付近で立っていた。

 だが、今度は大輔がふと笑い出していた。そして謙も何故、笑われているか……分かっていた。

「先生ったら。本当に俺、一人で帰れるのに」

 先程まで不可思議な行動で自分の後をついてくる『先生』に戸惑っていた大輔だが、謙の嘘を全て察してくれたようだった。

「本当にドームまで行くんですか。あそこの風、すっごく寒いんですよ」

「いや。もうやめておくよ」

 大輔を無事に送り届ける為と知られた以上、もう下手な嘘をつく必要もなくなった。

「でも……有り難うございます。嬉しいです」

 そうして暖まった頬をほんのり赤くさせながらも、にっこりと屈託なく微笑んだ少年は、まさに母親にそっくりだった。

 本当に多恵子がそこにいるようで、謙はどうしようもない気持ちにさせられた。それがとても嬉しくもあり、そして愛おしくもあり、でも……。どうして切ないのか。

「次の駅で降りますね。大通駅行きの電車も反対のホームにすぐに来ると思いますよ」

「うん……」

 だが謙はすぐに大通りに戻る気持ちにはなっていなかった。

 この駅で大輔と別れても、駅の地上に出れば帰り道も暗闇。この界隈がどのような街なのか住宅地なのかも分からない。この少年の自宅がどのような場所にあるのかも分からない。細い道にはいるのか、人気のない道ではないのか。駅まで見送った、もう大丈夫――。そんな安易な気持ちで大輔を放って『もし』駅と自宅との間の道で事故なんかあったり事件に巻き込まれたりしたら!

 やはり、地上まで送ろう。いや……この子の自宅の目の前まで……。

 そこで謙はハッとする。このままでは、本当に多恵子の『家庭』を目の当たりにしてしまうのでは?

「あれ、先生。帰らないんですか。大通り行きのホームはあっち……」

「う、上まで送ろう」

 また少年の戸惑う顔。今度は少しばかり眉間に皺を寄せている。

「先生。俺、そんな子供じゃないですよ」

「だから、そこまで。心配なんだ」

 さらに当惑している大輔だが、謙の『不安の叫び』をダイレクトに聞いた為か、また黙って先を歩き始めた。

 上階の改札を抜け、さらに地上へ出る為のエスカレーターに乗った。

 夜空から取り留めなく舞い降りてくる雪に染められた景色。それが再び、二人の目の前に現れる。

 アスファルトも見えなくなり、真っ白に踏み固められている雪の舗道。大輔が歩き始めたので、謙も一歩踏み出すとかなり凍結していて滑りそうになった。

「先生、気を付けて。この辺り、まだ滑り止めの砂を撒いてくれていないんだ。冬靴を履いています?」

「履いているけど、滑った」

 札幌に来て数年目。氷道も歩けるよう、シーズンが来たら冬靴に履き替える習慣が、謙にもすっかり身に付いていた。だが凍結した道を歩くのは未だに慣れず、日没後の雪道は苦手だった。

 大輔がそんな不手際な『先生』が可笑しいのか、笑っている。

「先生。マジで俺を送る気なんですか。うちのマンション前の小道はもっと凍っていますよ。先生が駅まで帰れるか心配になっちゃうよ」

 あまりにも尤もなことを言われ、流石に謙は頬を熱くしてしまった。こんな少年に心配される程の不格好な自分。そこまでして何をしたいのかと――。

「本当に俺、ここまででいいです」

 そして大輔は、目の前に伸びている大きな道路の先を指さした。

「そこの角を曲がって、一本道。ほら、あのマンション」

 差された先の角を見て、そしてその道の先にあるだろう空を見た。雪が舞う中、沢山の灯りをまとっている十何階もありそうなマンションが見えた。

「あそこが……」

 多恵子が暮らしている場所――。謙は彷彿とした気持ちで『その住まい』を見上げていた。

「ね、近いでしょ。結構、道も明るいし大丈夫ですよ」

「そうか、そうだね……」

 急に心がしおれていく脱力感に襲われた。

「……お母さんに。風邪、お大事にと伝えてくれるかな」

「はい。先生、有り難うございました。先生も気を付けて帰ってくださいね」

 『うん』と答え、謙は心配された心許ない足下へ視線を落とした。少年の目も、そして素直な気遣いも。全て『彼女そのもの』だった。この子は間違いなく、あの女性があの腕の中で大事に育ててきた男の子。だから彼は彼女にそっくりだ。

「次のレッスンは年明けですね。楽しみにしています。良いお年を」

 礼儀正しさも、多恵子と同じだった。

「うん。先生も待っているよ。大輔君も良いお年を」

 笑って返すと、少年の微笑みも彼女が帰っていく時の満ち足りている笑みと重なった。

 そうして彼女は僕の懐から解放されると、この家路を辿って、この少年と彼が待つ、あの暖かな灯りが幾つも並ぶ住処に戻っていたのだな――。

 マンションを見上げる謙を置いて、大輔が「さようなら」と背を向け歩き始める。なのに、急に振り返り、少年が『先生』と呼んだ。

「そこにパン屋があるでしょう。あそこの美味しいですよ。俺のお気に入りは『ミルクブレッド』。小さい時から母がよく買ってきてくれたんです。牛乳だけで焼いたパンなんですよ。良かったら食べてみてくださいね」

 この街に来てくれたことが無駄にならないよう、そんな少年の気遣いなのか。それとも無邪気に自分の好きなものを教えてくれただけなのか。

 手を振る大輔が暗い舗道の向こう、角を曲がって消えていった。

 再び、謙は雪舞う空の中に浮かび上がるマンションを見た。無数の雪がそれを隠してしまうかのように降り注ぐ。


 大輔が紹介してくれたとおりに、側にあるパン屋で『ミルクブレッド』を買った。

 ――『小さい時から母がよく買ってきてくれた俺のお気に入り』。

 アトリエ部屋に戻って、それを早速、一切れだけかじってみた。

 ほんのり甘くしっとりとしている小さな食パン。あの子が小さい時からあの街のあの場所で変わらずに在り続けているパン。今でもその子が好きなことも変わらない。

「貴女もずっと変わらずに、あの子を育ててきたんだね」

 全てを頬張り、もう一言。

「どこがありきたりなんだ。すごく大変な事じゃないか。すごく美味いじゃないか、これ」

 なのに、砂糖入りのはずの珈琲がいつも以上に苦かった。


 

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