雪降る街の住人 11

 これは根雪になるのではないか。それほどの積雪だった。

 昨日からどこの通りを歩いていても、除雪車がいる。舗道と車道の雪を除けると、路肩に大きな雪山が出来る。

 真っ白に染まった舗道を歩く多恵子の背丈をまだ超えはしないが、それでも身体半分の山がどの路肩にも出来ていた。


 ホイールローダーやダンプカーが雪を掻き集める光景が繰り広げられる市内。

 いつものダウンコートを羽織り、今日の多恵子はほんの少しだけのお洒落をしてアトリエに向かう。

 アトリエ近くの地下鉄駅を降り、地上に出ると、眩しい白。晴天、積もったばかりの汚れていない雪が太陽に反射し、曇りの日の陰りを取り戻すかのように景色を輝かせている。そして空中には、霧のように細かい雪が舞い上がり、キラキラと銀粉のように煌めいていた。

 自分の街でも、そして地下鉄を降りた藤岡画廊がある大きな通りも、どこもかしこも真っ白で、そして除雪の車両が行き来し、そして玄関先の雪掻きをする札幌の住人の姿ばかり。

 本格的な雪の季節が到来した札幌。そんな輝きの中を、多恵子は行く。


 今日からまた、裸婦モデルの時間が始まる。

 こんなに真っ白に固められた札幌の街を目にしながら、多恵子の気持ちもどこか真っ白に思えた。

 この前は普段着、今日はちょっとお洒落。でも『今の多恵子』には、どれも意味がなさそうだと先生は言っていた。そして、多恵子もそう思っている。でもだからこそ、普段着とかお洒落気とか気負わないで、自然なその日の気持ちでアトリエに行こうと思った。

 今日は再開初日。ほんの少し気分を上げる為、多恵子はほんの少しのお洒落をしてみた。今日はブーツに、カラータイツに、膝丈のスカートを合わせて、ほんの少し女っぽく。バッグも、可愛らしい雑貨店で見つけた冬物素材の小振りのバッグ。今日も充が贈ってくれたシュシュで髪を結って。そんな姿が映る通りのウィンドーを見ながら、多恵子は雪の世界の中、やっぱり気分良く歩いていた。

 やがて、いつもの藤岡画廊の街角に辿り着く。

 マンションの前も、既に除雪済み。綺麗に道路は開かれ、そして舗道には低い雪山が出来上がっていた。


「先生、多恵子です」

 インターホンを押して、いつも通りに告げると『待っていたよ』という優しい声が聞こえてきた。

 ちょっぴり嬉しい自分がいることを多恵子は知ってしまう。そして――、玄関の鍵が開けられるほんの少しの間、多恵子は数日前に見てしまった夢を思い返していた。ジャケットのポケットにはこのアトリエに勝手にはいることが出来る鍵もある。でも、多恵子は使わない。先生が開けてくれるまで待っている。

「おはよう。沢山、積もったね。昨日まで除雪車が昼も夜中も行ったり来たり、うるさかったよ」

 やっと開いた玄関。そこにはいつもの黒いセーターとジーンズ姿でいる先生の笑顔があった。

「外は真っ白で眩しくて。でもやっと青空になりましたね」

「うん、今日が晴れて良かった。また雪の中、多恵子さんが凍えながら通うのかと思うと気の毒でね」

「地下鉄ですから、氷点下の寒い道を歩くのはほんのちょっとの時間ですよ。それに先生よりずっと寒さには強いんですから」

 だから私、大丈夫ですという笑顔を見せると、迎えてくれた先生も嬉しそうに笑い返してくれている。

「暖まってから始めようか。紅茶でも一杯どうかな」

「いいえ。今から気分を整えたいので、なにかを食べる飲むは終わってからで構いません」

 ブーツを脱ぐ多恵子を見守っていた先生が、ちょっと深い息を吐いていた。

「意気込み、すごいね」

 感嘆のため息だったのか。でも多恵子もそこまで言われてしまうと、ちょっと気恥ずかしい。そんなに気合いを入れないで、自然に、自然に。そんなテンションを家を出てから作り上げてきたつもりだったのに。でも、まあ。今日のほんのちょっとのお洒落は、気合いと言えば気合いかも知れない。と、多恵子は密かに思う。


 三浦謙のアトリエ、この日のリビングは、この前とは打って変わって、外と同じように光り輝いていた。

 綺麗に片づいたテーブルに、掃除された床。どこも光を反射していた。まるで生まれ変わったかのように。

 そんな中、多恵子は部屋を見渡した。もう一人、いる気配を感じたかったのに――。すると入り口に立ったまま、あたりを見渡し落ち着きない多恵子に先生が気が付いてくれる。

「拓海なら、今朝早く帰ってしまったよ」

「そうでしたか」

「また冬休みにくるらしい。そうだ。貴女によろしくと――」

 先生がちょっと申し訳なさそうに、笑っていた。息子からどこまで聞かされているのか。自分の過去を息子の口からモデルに聞かれた。それを知っているのか知らないのか多恵子は考えあぐねる。しかし、先生本人がそれ以上を多恵子に対して何も言わないので、そこは今まで通りに多恵子も知らなかった振りをすることにした。

「よろしかったですね。ほんの数日でも、息子さんと過ごせて……」

 と言って。多恵子ははたとして、今の一言を取り消したい気持ちになる。まるで『いつもお一人で寂しそうだから、誰かが側にいて良かったですね』と言ってしまったに等しいと気が付いたからだ。

 でも先生は照れくさそうに笑っている。

「あはは。僕がアトリエに篭もった有様を拓海も初めて目の当たりにしたので、あの後も懇々とせがれから説教される羽目に。おかげで、夜はジンギスカンに連れていけだの、スープカレー屋につれていけだの、市場に連れて行けだの――。学友達へのお土産だとかで蟹を送らされるわ、もう散々、財布を当てにされて使わされたよ」

「まあ。ご一緒にあちこちお出かけなさっていたんですね」

 『うん』と、先生は満ち足りた笑みを見せてくれた。多恵子も自分が考えすぎなのだと、ほっとする。

 そんな先生は、なにかをやっている途中だったのか、輝くリビングを横切り、ドアが開け放たれているアトリエに入ってしまった。

 多恵子もソファーにバッグを置いてコートを脱ぎ始める。先生がなにをやっていたのかと、そこからアトリエを覗く。床には白い生地を巻いた長いロールと木枠がいくつか置かれているのが見えた。そこへ先生が跪く。ロールから切り取られただろう白い布を当てている四角い木枠を手にすると、釘を口に挟み片手には金槌。やがて『カンカン』と響き渡る、木を打つ音。四角い木枠に、先生は自分の手でカンバスを張っていたのだ。

「先生、ご自分でカンバスを張っていたのですか」

「うん。やっぱりここから始めないとね。それにこの前、だいぶ駄目にしてしまったから、反省も込めて――」

 唇に挟んでいた釘を指に取り、木枠に固定する。そしてカンバスを引っ張り、緩みがないよう金槌で打ち付ける。それを先生は朝からやっているようだった。

 多恵子もそっとアトリエの入り口に行ってみる。跪く三浦先生が真剣な顔で、ピンとカンバスを張る姿はとても凛としていた。今日のような真っ白な雪の日に、そうしてまた先生も自ら真っ白いカンバスを緩みのないように木枠に張っている。まるで儀式のよう――。朝の陽射しの中、高らかに鳴り響く釘打ちの音もまた、多恵子の心を澄ましていくようだった。

「私も一度、自分で張ったことがあるんですけれど。でもとても難しいですよね。私が張ったカンバスは波打ってしまい使い物にならなくて」

 まず木枠の上下左右の四カ所、それぞれの中央に位置を定め釘を一本ずつ打つ。そうするとカンバスの布地が十字を描く。それを無くすよう四方八方、少しずつ引っ張りながら何本も釘を打ち、緩みを無くす。慣れていなかったり、気を緩めると、何処かが波打ち、緩みが出てしまう。そんなカンバスはぺこぺこして描きにくいし、無論、どんなに素晴らしい傑作が描けたとしても作品にはならない。カンバスを自分で張る。それは職人芸に近かった。そんな古い記憶を多恵子は思い出す。だが、三浦先生の手際に腕前は流石だった。たったの一度でどの木枠もピンと淀みのない張りのあるカンバスに仕上げていく。

 思わず多恵子は感嘆のため息をこぼしてしまう。そうして惚れ惚れとただ眺めていると、いつの間にか先生が笑っていた。

「慣れだよ、慣れ。僕だって美大生の時は、自分で張ったカンバスはよぼよぼだったよ」

「たくさん、ご自分で張ってこられたんですね」

「ああ。自分で張ったカンバス。こうして自分で張るからこそ、ここから緊張感が出るんだ」

 釘を打つ音――。そして張り終えたカンバスを先生はひと眺め。

「当分は出番はないだろうけれどね。これらに多恵子さんを描くんだ。いつなにか描きたい気持ちが湧き起こっても良いように、張っておくんだ」

 多恵子を描く為の準備と知って、多恵子も背筋が伸びる思い。先生は、もう始めている。そして多恵子も始めようと思う。


 まだカンバス張りを続けている先生を横目に、多恵子は脱いだコートやバッグを置いたソファーに戻る。そしてそこでスカートのホックを外した……。

 いつもは多恵子がアトリエに入り、そこで衣服の着脱をしてきた。始める時はそこで脱いでガウンを羽織り、先生はモデルの準備が整うまで外で、このリビングで待っている。『準備』はそんなものだった。

 なのに今日の多恵子は、アトリエではなくリビングで衣服を脱ぎ始める。しかも先生に一言も告げずに、自らいきなり脱ぎ始めていた。

 脱いだスカートをソファーの上に放る。露わになった脚線。でもまだタイツに包まれていた。今度はそのタイツを脱ぎ始める。今日はほんの少し女らしいアウターを選んできたが、下着は普段そのもの。ちょっとした柄と飾りがあるだけの、履き心地の良さを重視、それこそ『普段着の下着』だった。そんな素朴なだけのショーツがタイツの下から現れる。

 いつもの多恵子。でも今日だけはちょっとだけテンションをあげて。そんな気持ちを、もう一度再確認するようにして、多恵子はタイツをつま先から脱ぎ去る。それも放ったスカートの上に無造作に手放した。

 ――するとそこで、先生が振るっていた金槌の音が止んだ。

 多恵子もその静けさに気が付いて、そっと肩越しに振り返る。先生が動かしていた手を止めて、アトリエからこちらを見ていた。

 上半身はまだ朱色のカットソーに包まれているが、下半身はショーツ一枚。ヒップラインも脚線も露わになっている。それを分かっていて、多恵子も先生を見つめ返す。

 先生もカンバスに両肘を乗せ、こちらをじっと凝視していた。その目がまた大きく膨らんで潤み光っている。その視線がアトリエとリビングにいる二人を繋いでいる。

 とても静かで、それでいて、引っ張られているような強さを多恵子は感じていた。多恵子の視線を先生がアトリエに引っ張り込もうとしているような。でも多恵子はそんな先生を逆にこちらのリビングまで引き寄せてやろうという負けん気で、その視線に応えていた。

「今日からは、そこで?」

 そこで裸になると決めたのか。

 そう聞こえたので多恵子も応える。

「はい。今日からここで脱いでも良いですか。アトリエでは一歩入ったその時から、裸で在りたいんです」

 多恵子から突然に始めた、今までとは違う準備。

「ああ、いいよ。うん、それはいいかもね」

 先生が笑う。それはいつもの穏やかだったり、時には憎めない青年のような無垢な笑顔を見せてくれる三浦先生の笑みではなかった。

 まるで多恵子の『生意気』を面白がっているような。そんなたじろぐことのない、確固たる男の余裕のようなものを突きつけられたような気になったものだった。

 そして先生は、そんな多恵子が決めてきた『生意気』をそこからじっと眺めることにしたようだ。

 また先生が金槌を持ち直し、空に振り上げる。再び『カン』と鳴り響く釘打ちの音。アトリエの白い光を湛えているそこで、またカンバス張りに集中している。それを見て、多恵子も朱色の服を脱ぎキャミソールを脱ぎ……。そして先生の視線を感じながら、ブラジャーもショーツもゆっくりと丁寧に、呼吸を整えるように肌から取り払っていく。その間、先生の金槌を振るう釘打ちの音が止んだり始まったりを繰り返していた。先生が多恵子の指先や、身体の線に、脱ぐ仕草を所々気にしているのが分かった。

 呼吸を整えるはずだったのに、やはり多恵子の胸の鼓動は落ち着かなかった。だから余計に息を深く吸って吐いて、脱ぎ終えた衣服を全てソファーの上に手放す。最後、多恵子は結っていた髪をほどき、白いシュシュを取り払う。それだけは大事にバッグの中へしまった。

 ガウンはない。アトリエ部屋に置いたまま。でも今日は要らない。多恵子はそのままアトリエへと身体を向けた。

 リビングより日当たりの良いその部屋は、今日は真っ白だった。

「始めようか」

 その光の中、三浦謙が立って待っている。

 向こうの男の人も躊躇いがない。既に気持ちを固めている顔をして、多恵子を待っている。そこへと、多恵子は一歩を踏み出す。


 整えてきた気持ちを、もう一度、多恵子は思い描く。


 その気持ちに染まりながら、アトリエ部屋の入り口に立った。

 先生は既に、イーゼルを前にして、座っている。カウンターを手元に引き寄せ、今日は鉛筆を数本、並べている。


 冬の凛とした冷気に磨き上げられた白い光に、多恵子の肌はくっきりと露わにされる。

 でも多恵子はもう、怯まない。

 今だからこそ、自ら素肌になろう。これからが私の『裸婦』。

 そっとその唇で囁いた。誰にも聞こえないよう、先生にも聞こえないよう、静かにそっと、朝の音の中に忍ばせる。


 ただそこに、裸になっただけの『なにもない女』がアトリエに入ろうとしていた。


「好きなポーズを取って」

 鉛筆を持った三浦謙が、芯の先で多恵子を促す。彼もまた画伯の顔になっていた。

 彼が指した新しいインテリアが揃えられている部屋の真ん中へと多恵子は視線を移した。

 ようやっと『裸婦』はアトリエに踏み出したが、彼女多恵子が向かったのはそこではなかった。

 多恵子が裸の姿で足を向けたのは、イーゼルの前、三浦画伯の目の前だった。

 どこも隠さず、堂々とそこまで歩み寄ってきた裸婦モデルを見て、画伯は少しばかり戸惑った色をその黒目に宿したが、それも一瞬。いつもの絵に取り組む時の冷めた表情で、多恵子を見上げている。

「なにか言いたげだね。なんだ、言ってごらん」

 だけれど、多恵子は言葉にはしたくないので、ただ画伯を見つめるだけ。それで何が通じるとか、そんな目的があるわけでもなかった。ただ、画伯とそうして見つめ合いたかっただけ。それを今、画伯に、三浦先生に投げかけているのだ。

 やがて、画伯が少し呆れたような溜め息をこぼす。持ったばかりの鉛筆を、スケッチブックを置いているイーゼルのボードの上へ手放した。

 ほんの少し、その視線が多恵子から逃げていった。

「貴女にそう見られてしまうとね、また、僕は振り回されそうで」

 この前のような多恵子の強い部分を、先生はどう受け止めればいいのかと戸惑っているようだった。

 だが今日は、その顔が視線が、多恵子へと真っ直ぐに返ってきた。

 あの黒目が多恵子の目を見て、唇を見て、そして乳房を見て……。ひとつずつをゆっくりと触れるように確かめてくれている視線が伝わってくる。そして先生が言った。

「聞いて良いかな。今日、『椅子』には誰が座っているのか」

 聞かれて、多恵子は迷わずに応える。

「スケッチブックを持っている画家です。謙という男の人」

 そう返すと、先生がほんの少し瞳を見開いた。少しばかり唖然としていた顔を見せてくれたが、でもやがて、先生はちょっと可笑しそうに小さな笑い声をこぼしていた。

「ふうん、そうなんだ」

 やっとその手が、鉛筆を持とうとしていた。なのに、それを持つ寸前の指先が止まり……。

「僕も今、タエコという女性を、裸婦モデルを座らせている」

 そこに立っているままの多恵子へと、鉛筆を持つことを止めてしまった指先が向かってきた。

 多恵子の中で、ふとしたデジャヴ。急に身体が熱くなってくるのが分かった。そして『いつかのまま』、その指先が多恵子の乳房の肌に触れていた。

 ぷっくりと丸みを描く乳房の線、一番重たそうに膨れている丸みへと指先がそっと触れた。先日の朝、多恵子自身がそのラインをなぞって確かめた時のように、先生の指先もまた、乳房の特に丸み帯びる線を柔らかになぞっている。そして先生は、乳房のいちばん柔らかい膨らみと丸みを見せるそこに、そっと唇を寄せてきた。多恵子も驚かずに、その口づけを受け入れる――。やがて白い乳房の柔らかなそこで、その人の唇がくすぐるように動いた。

「だからタエコ。思うままにポーズを取って。僕に描かせるんだ。いいね」

 さらにそこを先生が唇でやんわりと押した。初めての感触に、多恵子は目を閉じて溜め息をこぼす。そして震えながら、小さく頷いた。

 その口づけは、三浦謙のモデルへの印で挨拶。だからそれ以上、乳房の外際の柔らかな丸みに触れた以外、彼は何もしようとはしなかった。


 でも多恵子の乳房の先を彩っている赤い蕾が、静かに咲く。夢で見たように、そっと謙という男の人に挨拶をしていた。


 

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