裸婦
市來 茉莉
1章 ありきたりな女
ありきたりな女 1
残暑に真っ白なワンピース。そして真っ白な日傘。
ありきたりだが、それでも夏の白は良い。そんな女の姿。
それにしては、なんとも時代遅れの……。
彼女のファッションは明らかにずれていると、流行に興味のない男でも判断できた。
それでも街を歩いていれば何が流行っているかぐらいはなんとなく目につく。だが周りの女性達の服装とはまったく異なる雰囲気のもの。ひとつ分かるのは、予想できる彼女の年代からすると、彼女の娘時代に流行った物であろうということだった。
白き彼女がいるそこは、良くある、良く聞く、良く見る、あまりにも使い古された光景で塗り固められていた。そこだけ時代が遡り、切り取られたかのように。いつかならば夏の美しさを素晴らしく引き立てる
この地方では珍しく暑い日が続いてた。
真白きも滑稽な女性はそこにいた。大通公園へと続く中心街、長い信号待ち、横断歩道の暑さに耐えながら信号待ちをする人々の中で見かけたのだ。
誰もが冷ややかな眼差しを彼女に集める中でも、彼女は知ってか知らずか、そんな目線をものともせずに、日傘片手に涼しげに青信号を待っていた。
やがて信号が青に変わり、彼女の存在を置いて人々は横断歩道を渡り始める。
そして彼女も人々の視線をひとつずつ落としていくように、軽やかな足取りで大通り公園へと繋がる歩道へと去っていくのだが……。
「あの、申し訳ありません。待って下さい」
男『三浦』は、そんな彼女を早足で追い、後先構わずに声をかけていた。
『わたしですか』と、彼女が面食らうように振り返る。先程の凛とした横顔もどこへやら、おどおどした主婦の顔で戸惑う彼女。
だが三浦は唐突に言った。
「モデルになって頂けませんか」
唖然とした彼女の顔。
息が出来なくなったかのように、今度は彼女自身の時間が止まってしまったようだった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
彼女がやってきた瞬間、三浦は別人の女性と約束をしてしまったのかと思った。
「いらっしゃいませ」
昼下がりの画廊をおそるおそる覗くように入ってきた彼女を、ここの店主が穏やかに迎え入れる。
そんな彼女と三浦の目が合う。すると彼女が驚いた顔に。本当にあの日のあの男性がいたという驚きであることが三浦には分かっていた。
「来てくださったのですね」
三浦も店主同様、客を迎え入れるように彼女に微笑みかけた。
だが、当然のことながら、彼女はうつむき加減に軽く頭を下げただけ。すぐには店内に入ってこないところを見ると、まだ躊躇っていると思われる。まあ、それも当然の心境かと、三浦はそっと笑うだけだった。
「絵だけでも見ていきませんか」
三浦の声にやっと彼女が顔を上げる。
「絵だけでもよろしいですか」
初めて聞いた彼女の声は、三浦が思っていたよりもしっかりと言葉を発する女性の声だった。
というのも、どこか頼りなげな主婦というイメージが先立っていたためでもある。だが彼女の声は予想を反し、爪で弾くとりんと鳴るガラスの棒のような確かなものを感じたのだ。声の中心に一本の細くとも硬くそびえ立つガラスの芯を持っているかのような。
店主と共に彼女を招き入れ、展示フロアへと三浦自身が案内する。
だが、あとは彼女の好きにさせ、三浦はただ彼女の背をそっと見守るようについてくだけにとどめた。
フロアにかつんと、彼女が履いているサンダルのヒールが鳴る。
ゆっくりと額縁に納められた油彩を見上げる彼女。
あの日はあんなに目立っていたのに。この日の彼女の全身を眺めつつ、ふとそう思った。
今日の彼女は、街で誰もが着ているような今の風情にすっかり溶け込んでしまう流行のブラウスを着込んできていた。ふんわりとやわらかいシフォン生地の、そして彼女の平坦な顔つきにあまりにも合いすぎている淡い色の。穿いているパンツのラインも、もう誰も彼女のことを『流行遅れ』だなんて後ろ指を差さないだろうと安心できるバランスがとれたもの。今日の彼女を見たならば、きっと三浦は一目も彼女を目に留めることなく、モデルの申し込みすらしなかっただろうと思った。そう思うと、なんだか苦い笑みがそっと唇の周りに広がった。
あの日、彼女はとても目立っていた。
あまりの滑稽さに、人々が注目するほどに目立っていた。それも、綺麗な白色で着飾りながらも、あまりにも流行遅れのワンピースを着て立っていたからだ。それも中心街の横断歩道でだ。
だがその時、三浦は彼女をいきなり呼び止め『作品のモデルになって欲しい』と申し込んだ。
彼女をいきなり呼び止め『モデルに』と申し込んだ三浦は、戸惑う彼女に無理矢理連絡先を記した名刺を渡し、そのまま潔く去った。そう申し込んでから数日。
どうとってもいかがわしい男にしか見えなかったことだろう。からかわられている、怪しい商売のひっかけ商法か。なによりもそんな考えが先立つのが一般的であると思う。しかしそう思われても良いぐらいの気持ちでいる。モデルとして声をかける時、三浦はいつもそれぐらいの気持ちで女性に声をかける。
あの物怖じしている様子では、怪しいと思って名刺を破り捨てたかもしれないな。そう思っていたのだが、予想に反して携帯電話に彼女からの連絡が届いた。半信半疑になったのは三浦の方だった。いきなり二人きりで会うというのは、やはり彼女にとっても不安を煽るものでしかないだろうと思い、三浦はこちらでお世話になっている画廊を待ち合わせ場所にした。それでも彼女はやはりこないかもしれないな。と、覚悟もしていた。
だが今、あの彼女が目の前にいる。
画廊の作品を眺めている彼女の背にただついてくだけの三浦を、ここの店主もそっと覗いている。
三浦が街で声をかけたという女性が『主婦であろう』ということで、『それはいくらなんでも無理ではないか』と彼は『来ない』に賭けていたのだ。
しかし彼女は来た。そして今、絵を眺めている。
モデルは今までも何人もいた。おなじ芸術仲間から知り合った女性、絵画を生業としている中の付き合いで知り合った女性、他にはモデル事務所から絵画のモデルを専門にしているプロの女性に頼むこともある。一般の女性に声をかけることも希にあるが、その場合は今回のように、三浦のインスピレーションが働いた時だ。
何を描きたいとか、彼女に一目惚れしたとか、そういうものではない。もっともっと漠然としたものだ。だから本当にインスピレーションなのだ。その瞬間に、モデルの中に見えた何かを三浦は描き出したい衝動に駆られる。答などその時には一向にわからない。明確になるはずもない。なぜならばそれは筆を握って初めて見いだすから。
さらに筆を握り始めたら、モデルとの息も合わなくてはならない。
三浦を信用してもらわねば、彼女自身からも、三浦が一瞬だけ垣間見た描き出したい何かをもう一度見せてくれるはずもないのだ。
ただ、あの白いワンピースだけが今は三浦の脳裏に焼き付いている。
流行遅れで野暮ったかったはずなのに、実はその白が似合っていたなんて、その場限りの美を垣間見たのではないと思っている。
それすらも今はまだ三浦にも解らないのだ。解らないから『描きたくなる』。一般女性にこれだけ気持ちを駆られたのは久しぶりだった。
彼女は殊の外真剣に、油絵を眺めている。
三浦は確信した。彼女がここに来たのは少なからずとも絵画に興味があるからだと――。
店主の目が、三浦と同じものを感じ取っているのが分かった。
彼はついに展示フロアに入ってくる。三浦がただ後ろをついているのがもどかしかったのか、いつも接客するようにして、絵を鑑賞している彼女の側に寄った。
「この先生の作品なのですよ。如何ですか」
彼女を試すような、やや意地悪な目線を彼は投げかけていた。彼女はそんな店主の目を見て、黙っているままだった。答に困っているのだろう。だが三浦も助けようとは思わなかった。彼女には自分の作品を見てもらわねばならない。そしてそれがなんであるか知っておいてもらわねばならなかった。
今度は三浦が絵を見ている彼女の側に並んだ。
「これは二年前に描いたものです」
彼女と共に見上げた大型の油絵。うつむき加減の女性が、白い布をそれとなく持っているだけの『裸婦像』。
三浦はそのまま彼女に言った。
「私の絵は、だいたいが裸婦を題材にしております」
だが彼女はその絵を見つめたまま黙っていた。そしてそのまま、残りの絵画をじっくりと時間をかけて鑑賞していた。
三浦も店主ももう声はかけなかった。
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