第27話昼、地獄の一丁目、メリ
精神集中し、スペルを唱えるメリ。
エプロンをつけながら、大あくびのメリ。
忙しく、朝から晩まで客相手に愛想を振りまくメリ。
そして、覚醒したのだ、メリは。
『徹底的にしごかれて、あたしは目覚めた。極限にあった己の魂を見た!』
× × ×
地獄の三丁目の夕方、メリと老婆は、てっくりてっくり街道を歩いていた。
もう、手をつなぐのはおかしいからと言われて、放された、老婆の手をチラチラと見る。
通りがかる古書店街で、老婆はひとつの店で立ち止まる。
のみならず、中へと入っていくではないか。
メリは、飛び跳ねてついていったが、気が変わって隣のみすぼらしい古書店をのぞくことにした。
中は独特の匂いがし、特別大事はなかったように思う。
しかし、メリは一冊の本に目を惹きつけられた。
メリの読めない字で、箔押しをしてあり、さらに、こっそり中をのぞくと、地獄の方言全てで、ひとつの言葉が書かれていた。
『もしもあなたが、たとえようもない事実に苦しめられるなら、わたくしの名を、呼びなさい。愛し児よ――プリンセス・ファータ――』
メリが酔い心地になって、フラフラしていると、隣りの店にいたはずの老婆が発見し、急いでその本を取り上げた。
老婆は中を熱心に眺めるが――というのは、ほとんどが図形や絵であったから――メリの見つけた文字は発見できなかった。
それでも、老婆の長い懊悩はこのとき始まった。
『永の都……とこしえの、楽園に、行きたい……』
(あたしが、あんな本を見つけなかったら……)
メリは、フリフリのエプロンとミニ丈の制服を脱がされた。
もう、魔法使いはくるっていたのだ。
メリを所有物扱いするほど、慣れ親しんできたくせに。
いや、だからこそ。光に照らされたメリの未来を売り渡すほどに、永遠を求めたのだ。
強く。
(愛してくれてたよね? 筋がいいって、褒めてくれたよね? ババア……)
(バカヤロー! 愛してるよ!!)
気がついたメリの身体は、老婆の敷いた布陣の中。指先ひとつ動かせない。
魔法使いのもと、つまらないと思いながらも、術を学んできたからわかる。メリは今、残虐な儀式の生贄にされようとしていた。
(ケルベロスが、異次元に飛び込んでまで逃げようとしたのは、このためだったんだ……あたしを、守ろうとして……)
慈しんでくれていたはずの、魔法使いとの、真実の別れ。メリは覇気で術を破った。何もない空間にうなりが響く。筋がよいと言われた彼女の渾身の術破りだ。
「バカヤロ――!!!」
『もしもあなたが、たとえようもない事実に苦しめられるなら、わたくしの名を呼びなさい……愛し児よ……』
メリは声の限りに叫んでいた。プリンセス・ファータの名前を。
老婆がはっとして、メリを見る。
「なぜ、その名をおまえが知っている!」
メリはぼろぼろと涙を流しながら、訴える。
「わからないよ……なんでこんなに泣けるのさ? あたしはあんたのためなら、どんなに働いたって苦じゃなかったのに。利用されていただけだったなんて……」
「ファータ姫は言った。おまえを永の都へ移り住まわせると」
「だれも、そんなこと頼んじゃいないのに、おかしなことだよね……」
「許せん。その体尽きても永の都――いやさ、プリダニエにゆけるか、確かめてやる!」
老婆はマントとローヴをバタバタ言わせながら、白髪をふり乱して大きなオーブのついた杖を高々と掲げ、メリの前に立った。
その時、全身を盾にして、ケルベロスが陣に入ってきた。
ウォオオオー!
その身体は弾き飛ばされ、魔法陣の一部が粉々になった。
自由になった手足で、抜け出そうとするメリ。
(なぜ、ケルベロスはあたしを、助けてくれるんだろう?)
ぽたり。
血の涙が振った。
(暖かい……冷え切ったあたしを温めてくれる、そう、あなたの名前は……)
「愛だな」
魔法使いの部屋から戻ってきたクラインが初めに言う。結局あの場所はどこへも通じていなかった。周囲から孤立した場所で、引きかえしてくる以外になかった。
「ぬう!」
天井は爆発で粉々にふっとんでいた。これでバルダーナがまだまだというのは、いささか不平も言いたくなるというもの。
暖かな霧雨の降る、地下神殿に、上背のある黒衣の剣士と、琥珀の娘、エインシェントエルフの娘が、ケルベロスの後ろに居た、が、ケルベロスはもはや動かない。
「先の衝撃で気を失ったらしい。だが、主人を想って幾星霜。その気持ち、わかるぞ」
クラインがケルベロスの背をぽんと叩くと、巨大な三つ頭の番犬は、どうと倒れた。
「もおう、休めよな。まあ、しばらくの間だか、知らんけど」
バルダーナが、マメに頭を撫ぜてやっている。
「三つも頭があるのでは大変、わたくしも……」
リザが暖かなオレンジの光りを灯す。
まるで、穏やかなランプのようなそれに応じて、ケルベロスの傷が癒えていく。
そしてその光はオーロラのように、闇夜の空間に広がり、地下神殿にどよめきを起こした。
どよめいたのは魂を召し上げられた死霊たちだ。
「リザ、おまえの光はなんと、死霊たちなどを蘇らせてしまったらしいや」
「それだけでも、風樹に願いをかけたかいが、あったというもの」
「ぬ、それだけではないぞ。死霊がどんどん集まってくる! リザ、バルダーナ、逃げるぞ」
クラインは叫んだが、リザはトランスして歌を歌い始めた。
「失ったのはなに? なくしたものはなに? わたくしが取り戻させてあげる……」
「リザ、本気か? 本気でその歌で、怪物たちを癒す気か? 命が危ないんだぞ」
バルダーナが金切り声で訴えた。その肩をクラインが抑えた。
「今更だ。リザの好きにさせてやろう」
「剣士! リザの気持ちはどうなる……!?」
「この光は、他者を癒したいと想う、リザの心の表れ。だれもそのカタチを決められない、変えられないのだ」
「ああ、痛みを覚えたの? 大丈夫、泣かないで……。たった一人で泣かないで、だからわたくしは、あなたのためにこういってあげる……どうしたの? どうしたの? どうしたの?」
バルダーナは泣きそうになりながら、拳を固めて見守っている。
(リザはトランスして他人の痛みを、自分の心に乗り移らせてしまう。だから、どうして他人が苦しむのかなんて、理解しないほうがいいんだ! リザは優しすぎだから!!)
クラインは、それでも油断なく巨大な魔法陣を見つめていたが、いつしか自分が蒼いナイトのマントを着けているのに気づいた。
「これは……」
きゅ、きゅっと両側から小さな手が、助けを求めるように、期待するようにそのマントを握り締めていた。
「眠れなかったろう、剣士」
おず、としてバルダーナが、らしくもなく心細げに見上げてくる。
「沼の魚は食べたらいけないんだ。これは助けてくれた礼と、教えなかった侘びだ」
そうしてバルダーナは身体のほとんどを犠牲にして、マントに翼を与えた。
「神明照覧……!」
小さな祈りの声と共に薄れていくその姿、それとは反対に、バルダーナの与えた翼が白銀に輝く。
白鳥のように真っ白く、大鷲のように力強く、今にも羽ばたこうとする刺繍の翼。
銀の輝き満ちたそれは、まるで実体を持ったかのように、はためいた。
「これさえあれば、剣士の心休める場所へ行ける」
クラインは衝撃を受け、バルダーナを肩ごしに見かえった。
「ここから、抜け出すんだ。剣士!!!」
「そんな、バルダーナが、消えてしまう……ああ、リザはどうした? リザ! バルダーナ!!」
リザは死霊と戯れて、オレンジの光の渦の中心にいた。
『くすくす……、そんなことがあったの? まあ、それは大変。だけど大丈夫よ。みんなまとめてわたくしが引き受ける』
今、亡者と化したバルダーナが、その光の中心に引きこまれていきながら、怒鳴った。
『リザ、だれも他人の人生を生きることはできない。おまえのその、背負いこみがちな傲慢さに気が付いて欲しかった』
『バルダーナ。来たのか。まったくだ。だが、わたくしは自分の中に価値を認められない。こうして痛みを引き受ける以外に』
『ばか! オレはお前にそんなことして欲しくない!』
『ありがとう、バルダーナ。でも、もう遅い』
リザはバルダーナをしっかりと抱きしめる。
バルダーナの頬に熱い涙がこぼれる。
温度すら失った亡者なのに。
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