#朱里-RED EYES-(2/6)
焦げ付くような濃い正気。それはまるで頭蓋骨の裏側に貼り付いた腐った皮膜のように自己を主張し、俺に軽い頭痛を引き起こさせていた。
おかしな気配を追って、俺は朱里を引き連れ夜の縁条市を小走りに駆けていた。背後の朱里は言ってくる。
「……こんなにくっきりと気配を感じるなんて、どういう状況なのかしら」
「さーね。どっかの悪霊が暴走でもしてんじゃねぇの」
気だるく言いながら、俺の胸中には苦々しいものが渦巻いていた。走る足を止める事はできない。しかしながら、実はこのまま逃げ帰ってしまいたいと考えていた。何故なら、この方角をこのまま進むと、とある見知った廃ビルに行き当たってしまうからだ。
現実を受け入れたくない。しかし現実なんだろう。街の一部分だけ切り取って静寂の色鉛筆で塗り潰したような妙に静かな一角に、そのビルは慎ましやかに佇んでいた。
「…………」
最も、慎ましやかだったのは昨日までの話。朱里と共に辿り着いたその廃ビルは、全面が腐肉で出来てるんじゃないかってくらいに怪物の胃と化していた。入るのは馬鹿だ。自ら喰われる死にたがりだ。その飢えた口腔たる獰猛な口元、ぽっかり穴が空いたような玄関口で俺と朱里は異様な気配に固唾を呑んだ。
「……気のせいかしら。気のせいだと思いたいのだけど」
「ああ、幻覚だろ。たちの悪い、ありもしないのにそこに在る
直視したくないのだが、壁から脚が生えていた。植物みたいに動かない女性の脚だった。少し離れたところに右腕、上階の壁には左腕、という風に何故だかビルの外壁に女性のパーツと思しきものが散りばめられていた。玄関のすぐ右側の壁に肩が生え出してるのが視えた。たぶん一周回って探せば頭部なんかも見つけられるんだろう。無防備にも朱い少女は、生え出した腕を指さして言ってくる。
「……これは、何?」
「さぁ。人間の腕なんじゃねぇの。幻覚くせぇけどな」
「真面目に答えて。知っているんでしょう」
知ってるもくそも、異常現象、つまりそもそも異常なモンに対して明確な定義付けを行える事のほうがどうかしているのだ。そして、狩人というどうかしている所属の俺は、異常現象と同じくらい異常な知識を披露する。
「呪いだろ。まぁ、亡霊ってほど明確な亡霊ではないんじゃねぇの」
「亡霊……? 幽霊ということ?」
「正しいが、絶望的に違うんだよな。幽霊ってのは魂のことだろうが、亡霊ってのは妄念だ。妄念は妄念であってただの幻覚だし、幽霊と違って魂でも何でもない」
朱い子が、真剣な顔をして理解しようと努力し、そして失敗したようだった。頭の上にいくつものはてなマークを浮かべて混乱している。残念、知識を感覚として理解するというのは簡単なことではないだろう。
「話は後だ。いまは仕事を優先する」
「! ……ええ、それで?」
「方針は突入に決まってる。……と、その前にあんた、携帯の番号教えろ」
「はい?」 ・・・・
俺は落胆する。予想通り、朱里はこの要求に対して当たり前の回答を寄越さない。
「……そんな場合ではないと思うけど」
「いいから教えろ。早く」
俺の想像が正しければ、朱里はここで「携帯電話なんて持っていない」と答えるだろう。予想通り少女は、拗ねたように俯いて、逃げるように小さく言った。
「…………持ってない。携帯。笑われるでしょうけど……」
別に笑いやしない。分かりきっていたことだ。俺は溜息をひとつついて、ポケットからあるものを取り出した。
「だろうな。じゃ、これ持ってろ」
「え――?」
朱里の手に、青スケルトンにオレンジ画面の、オモチャみたいな安っぽい携帯電話を持たせた。ちなみにこれはうちの備品だ。今日家を出る前にカード番号を打ち込んできた。
「…………電話? どうして?」
知っているだろうか。プリペイド式の携帯電話というものがあって、三千円から一万円くらいのシリアルカードを購入すれば、残高を使いきるまで普通に電話として使用することができる。残高が切れたら110番以外は動かなくなる。コストパフォーマンスに優れ、適当に誰かに渡しても問題が起きにくい、現代日本において非常に小回りの利く素晴らしいアイテムだ。
俺は朱里に真っ直ぐ視線を向け、ビシと強く言ってやった。
「どんなに無駄に思えても、ケータイくらい持ってろ。それが“普通”ってやつだ」
かすかに、少女が目を見開いた気がした。ちなみに尤もらしいこと言っているが、本当の目的は、狩人的に、緊急連絡手段を確保したかっただけなのだが。夜の街ではぐれた時、携帯電話が無いというのは死活問題になる。
「絶対に手放すなよ。そいつはアンタの命を救うこともあるはずだ」
「……分かった。気を付ける」
朱里が、オモチャのようなケータイをスカートのポケットに仕舞うのをしっかりと見届け、廃ビルの玄関に向き直る。本当に、内部は真っ暗で底が知れない。
「地獄の始まりだ。言っても無駄だと思うが、アンタはここで待ってろ」
「ダメよ。あなた一人では、切り抜けられるか分からないもの」
徒手空拳の分際で頼もしい限りである。しかしハッタリではないだろう。レッド・オーラがある限り、朱里は超人で、恐らくは俺などより上だ。こちらの相方が潜んでいて実は一人ではない、ということはここでは黙っておく。
「行くぞ」
「ええ」
俺たちは勢い良くビルに突入し、そして溶け崩れていた底なし床の常闇に飲まれて消えた。
†
では、ほんの一瞬だけ真相を回想しよう。
俺は朱里を知っていた。出会うはずなど無い少女。どんなに手を伸ばしたって届かない高嶺の花。朱里は、俺にとってたぶんそういう存在だった。
一閃。罪の山に火を放ったような業火の中、緋のオーラを纏った朱里が剣を振り抜き、怪物を両断して無に返す。その擦り傷のついた頬、全身傷だらけになって戦い続けた少女の記憶が鮮明に残っている。
赤色だけで満たされた夢。その朱色の瞳に、残酷な炎だけを映して――殺すべき怪物を全滅させた少女は、最後に一人取り残されてしまった自分の両手に気付く。
…………ばけもの。頭から血をかぶった、腐臭ばかりの穢れた少女。
悪を滅ぼす戦いだって、結局は暴力に違いない。少女は間違いなく、彼女が屠った怪物たちと同じくらいに、いやそれ以上に暴力の化身で、それ以外に何も持たない人形だった。
みんなを守るための戦いに明け暮れたから、少女は子供のまま成長してしまった。そして敵を失って初めて気付くのだ。暴力の化身が、血に汚れた手を差し出したって、周囲は気味悪がって彼女を「こわい」と遠ざけ逃げていくのだ。
朱色の瞳が傷つき震える。戦いに勝利した少女は、守ろうとした人々に一方的に心をズタズタにされる。要約すると、怪物狩り《ヒーロー》のアフターストーリーなんてのはそんな程度のものだった。
「………………いてぇ」
ガンガンと痛むこめかみを押さえるところから、俺の現実が再開された。つまらない夢を見ていたらしい。思い出しただけで気が重くなる。倒れていた体を地面から引き剥がし、俺は足元を覆っていた濃い霧からようやく顔を出すことが出来た。吐きそうになって激しく咳き込み、ぐるぐると目眩がするのを堪え、また飛んでいきそうになる意識をなんとかこの場に繋ぎ止めた。
周囲が暗い。俺の視覚がおかしくなってしまったのかと思ったが、違う。粘着質な紫の闇と、奇妙なくらいに澄んだ星空が混ざり合った異空間。ノイズとか、記憶の陽炎とか歩く人影とかまでいて、自分は宇宙の真ん中にいる。混濁としか言い様がない。頭がおかしくなりそうだった。
「…………ずいぶんとイカれちまってるな」
これは、
「やっぱりな……ここは、」
とある亡霊の心象風景だろう。ちなみに知人だ。あの、俺と朱里が突入したビルに住んでた。ビルの外見も腕や足が生えてて気味が悪かったが、中身は完全に終わっちまってたらしい。不意に背後を振り返れば、宇宙空間の地面のない地面に、女性の右腕と右脚だけが千切った鶏肉のように散乱していた。それぞれ20本近く、20m先まで散らばっている。すべてが同じ形だったので、きっと何かの
亜空間で迷子。状況は最悪だろう。俺は遥か遠くの木星に目をやりながら、ケータイを取り出して短縮番号をコールする。
「ああもしもし。羽村だが」
『……………………もしもし。驚いたわ。本当に役に立つのね、コレ』
しばし長いコールがあったのち、電話の向こうで、朱里が神妙な顔してるのが容易に想像できるような声が返ってきた。
「知ってるか。ケータイってのは、現代の冒険譚をほとんど残らず崩壊させちまうほどの強力なアイテムなんだってよ」
『そう。まぁ、分からなくもないわね。いつでも連絡が取り合えるならほとんどのトラブルは回避できる。この場合もまた同じだったわけね』
「ああ。ちゃんと電波が通じるのはただの幸運だけどな。お互い、連絡手段もなく宇宙で遭難じゃ困る。今回はこの、現代を代表する画期的発明品に救われたわけだ」
もっとも、この発明品が面倒事を呼び込んだこともあったような気もするが、邪悪に微笑む双子の顔が浮かんだのでなかったことにする。
『――で、これはどういう状況なの?』
「説明が必要か? 空間浸食ってやつだな。強すぎる呪いは現実に小さな幻想を産み落とすだけに留まらず、世界の片隅を丸ごと幻想で覆っちまう、ってな感じでどうよ」
『………………』
電話の向こうで、考え込んでる。朱里は賢い女だった。
『……理解したわ。たまに、似たような状況に陥って、自然にブラックホールでも発生しているのかと思ったけど、要するに――』
「ああ、これも“呪い”さ」
通話しながら歩き出す。いつまでも雑談しているわけにはいかないだろう。遙か下方20キロほどを巨大隕石が通過していくのを見ながら、透明な、あるいはそもそも存在しない地面を歩いて行く。さっきからこの空間に満たされた暗黒が、「しくしくしく」というノイズ混じりの女の泣き声を聞かせているのだ。人間の負の感情をエネルギーにする異常現象において、こういう兆候は大変よろしくない。
「くそ……どうなってんだ」
このビルに住んでいた亡霊は、長らく精神的に安定していたはずなんだが。何か嫌なことでもあったんだろうかね。
しばらく宇宙を歩いていたら、だんだんと何も見えなくなってきた。闇。まるで太陽の届かない月の海で遭難したみたいだ。いつ凍りついて死ぬのか、いつ抜け出せるのか、自分は今一体どのへんにいるのか。ただの黒一色というものは、現実に相対すれば何よりの恐怖だろう。
「白状しておくぞ。このビルには知り合いの亡霊がいた」
『……え?』
「田中さんっつーんだが、まぁなんていうか可哀想なお姉さんだ。自分をこのビルに縛り付けて、恋人が迎えに来てくれるのをずっと待ってる」
オバサンと呼んではいけない。銃を持ったうちの先生に向かって「撃つなよ! ぜったい撃つなよ!」と言ってるようなもんだ。
『……幽霊が、恋人を待っている? そんなの誰が迎えに来るっていうの?』
「来るさ。絶対来る」
人間、信じて待つことが重要なのではないでしょうか。実際、騙さ……ゲフン盲目的に信じてる間は安定してたわけだしな。
「で、その田中さんがもとはなかなかの悪霊っぷりで、俺が初めてこのビルに来た時もかなり苛烈に拒絶されて追い返されちまったんだ。あの人はきっと迎えに来てくれる、私の邪魔をするなー、ってな」
思い出しただけでゾッとする。亡霊の憤怒ってやつは本当に、大気そのものが酸性に変わるような怖ろしい体験なのだ。
「しかしまぁ、俺としちゃ仕事を放棄するわけにもいかないんでね。かといって、恋する乙女を無理やり退治しちまうってのもあんまりだろ? だから妥協策として、田中さんを落ち着かせて無害な亡霊になってもらうって方針に決めたわけだ」
初めの頃は拒絶されまくり殺されかけまくりだったが、何度も何度もアプローチしてようやく会話が成立するまでこぎ着けた。そこからは俺の独壇場だ。
『……そんなこと出来るの?』
「おうよ。フレンドリーは俺の唯一の特技だからな」
羽村リョウジ、職業は狩人、得意分野は狩人以外である。
「でまぁ、そんな努力の甲斐あって、長らく田中さんは落ち着いてくれていたんだが、何なんだろうなこれは。どうなってんだ?」
廃ビルの異界化。呪いが溢れだし、触れる者すべてを飲み込む完全な暴走状態である。
『さぁ。やっぱり、幽霊なんて移り気なものだということかしら』
それも一理あるが、この急激な暴走のしようは何か特別な理由があると考えたほうが自然ではないだろうか。ここからは何が起こるか分からないので、互いの安全確保のために確認しておく。
「そろそろ合流しておきたいところだな。そっちは今どの辺りを歩いてるんだ?」
『どこって、目に見たままを言えばいいの? 火星の隣を通過したわ』
「そうかい。二万年後までには再会できるといいな、グッドラック」
実に宇宙規模なやり取りである。しかし、ここらで水金地火木土天海というやつを思い出してみて欲しい。果たして今、俺と朱里との距離はどれくらいなのだろう。
「先に行ってるぞ。あとからついて来てくれ」
『分かった。何かあったらすぐ電話して』
「おう、そっちもな」
ラスボス前のセーブを終えるかのごとく、いったん通話を終了する。電話しながらの説得なんかではきっと心に響かんだろうから。俺は、これから、暴走状態の田中さん相手に命がけの営業トークを行わなければならない。
「………………」
ずっとずっと歩き続けて、視界が完全な黒一色に染まる頃、俺は静かに足を止めた。目的地に辿り着いたようだ。
宇宙の中心かあるいは片隅、この世で最も真っ暗な場所に、霊はいた。やはりしくしくしくと泣いていた。高級そうな黒を基調としたドレスに、前面は紫の艶やかな花柄。湿ったように短めで小ざっぱりと切った黒髪、見るからに「貴婦人」って感じのお姉さんだった。いまは、子供のように泣きじゃくっていたが。
「よう田中さん……………………と、誰だ?」
田中さんの背後に、誰か、見覚えのない人間がいた。そいつは全身をヤクザみたいなかっちりした黒スーツで覆っていて、妙に体がデカイ。2メートルはあるんじゃないだろうか。肩幅も広く、筋骨隆々、壁が歩いているような圧迫感で、しかしその顔をちょこんと覆っている道化の仮面が異様だった。攻撃的な巨体の中で、その仮面だけがニッコリとしている。
小さくなってしくしくと泣き咽ぶ田中さんの耳元で、その大男はヒソヒソと何かを吹き込んでいるようだった。
「きっと恋人なんてもう来ないよ。早く成仏した方がいいよ。諦めちゃいなよ。男なんてそんなものだよ」
それを聞いて、田中さんの咽び泣きが火の付いたように悪化する。途端に暗黒の空間も消化器官のように蠢動し始める。ここは田中さん時空(仮名)だ。田中さんの精神に呼応して呪いも変化する。道化野郎は、こっちに気付いたのか気さくに声を投げてくる。
「やあ、誰だいお前は。こっちは仕事の最中なんでね、邪魔するんならくびりっ殺しちゃうぞ」
「…………何、やってやがる」
黒スーツの怪人。顔に仮面なんかつけてる時点でかなり嫌な予感はするが、それ以上に俺の拳は怒りで震えていた。信じられねぇ。こいつ、まさか。
「何って、単にばかな幽霊に現実を教えてやってるだけだよ。このお姉さん傑作でさ、なんか恋人? とか待っちゃってるらしいよ。笑えるだろう。そういうの見るとぶっ壊したくなる。だろう? 最近のキレやすい若者ってそんなもんなんだろう?」
ガリガリと痒そうに仮面の顔を掻きながら、ワケの分からないことを言ってくる。何だろうこいつ。頭の中身入ってるんだろうか。
「あわよくばこのまま、一人二人くびりっ殺して事件になってくれると嬉しいね。そうすれば『あいつ』が現れる。まぁ、俺の目的はそっちさ――なんて言っても分からないか」
大男が立ち、大仰に両腕を広げて語る。何かの演説のようだと思った。
「ここへ来たのは肝試しか何かだろ? じゃあ幽霊の犠牲者になる覚悟は出来てるわけだ。おめでとう」
……その背後、ふわりと怨霊が顕現する。即ち田中さん。湿った黒髪の美女が、今は見る影もない怨霊そのものだ。やめようぜ。そんな風に眉間に皺を寄せるより、優しげに微笑んでいる方が似合ってる。
『アノ、ヒト、ハ、クル』
「――てめぇ、このピエロ。その人を炊きつけて何がしたい」
「おや、冷静だねぇ。ま、人が死ねばヒーローが現れるだろ。要するに、俺はヒーローに会いたいんだよ」
ヒーローって何だ、仮面ライダーとかナニトラマンとかの親戚か。腰の後ろから短刀・落葉を抜き放つ。大気が酸性に変わったんじゃないかってくらいの攻撃的な感触。事実沸騰している。この、呪いで満たされた暗黒の空間が、熱を持ち、ノイズを放ち、視界に入る異物のすべてを叩き潰そうと祟り呪い怨み辛み殺意を向ける。
――――悲しい絶叫が、耳をつんざいた。
プールの中に、プールと同面積の赤く焼けた鉄板を投げ込んだような惨事。泡を吹きこぼし明滅しノイズだらけになる空間の中で、田中さんが、その日傘を振り上げて悪夢のように俺に向かってくる。布のお化けみたいな異様な浮遊だった。
青い波濤を響かせるような激烈な衝突。超新星みたいだった。ただの傘が、まるで鋼の鉄槌みたいだ。鋼と鋼の衝突に火花を散らしながら、俺は必死で訴えかける。
「目を覚ませよ、田中さん。恋人が迎えに来てくれるんだろ……ッ!」
うるさい、うるさいと絶叫する亡霊。女の執念の具現が目の前にいる。何よりも怖ろしい。何よりも底がない。そして悲しくて救いようがない。
「だぁ、くそがッ!」
大きく刃で弾き、よろよろと後退する。俺はマッチョピエロに向かって吠えた。
「てめぇ、なにもんだ」
「それはこっちのセリフだ少年。お前、一体何者なんだ」
ピエロは、何やら関心したように俺を見ていた。黒スーツのヤクザ。いや、仮面の悪党? どっかで聞いたような出で立ちだがよく分からない。混乱している間に、また田中さんが突っ込んできた。黒い炎を散らすような疾走で圧倒された。
「ぐぁッ!」
「まぁ俺は何者か、と聞かれても難儀な話だ。見ての通り、ただのコスプレだよ。職業は元会社員で、現在は一般的には無職かな。……もっとも、言いようによっては『裏稼業』と言えなくもないが」
苦鳴を上げ、田中さんの猛攻を凌ぎながら意地でも耳を傾け続ける。
「裏稼業……だと?」
「おうとも! まぁ要するに、殺して金を奪うだけの簡単な商売さ」
みしり、とボディビルダーのようなポーズをとって筋肉を自慢してくる。あれは、人殺しの腕か。
「昔から腕力には自信があってね。学生時代から、俺は簡単に人を殺せるんじゃないかと考えていたが、事実そうだった。女子を締め殺そうとして、首の骨を折っちまったさ。いや、あれは実に甘酸っぱい――衝撃的な、甘美な体験だった」
何か語ってやがる。頭が痛くなるような異常者のロジックを。
「自分に絞め殺されるクラスいちばんの美少女の、苦しそうな顔を想像したことがあるか? 俺だけを見ている。俺の力に屈服し、17年間の人生のすべてを奪われていく。何を思うのだろう? どんなに深い思いを巡らせているのだろう。その綺麗な瞳に俺だけを映して一体どれほどの恐怖を感じているのだろう。逃げられないと悟った瞬間の諦めなど最高じゃないか。……ほんのすこし手を緩め、息を吸わせるも吸わせないも俺の気まぐれひとつだ。許しを請え。媚びろ。尊厳をいますぐ捨てて俺に従う家畜になれ。そして、どんなに藻掻いてもまるで羽を鳥かごに挟まれたカナリアのように、逃げられずにその娘は俺の手の中で死ぬ。」
本当に手のひらに小鳥でも乗せてるみたいに、道化の語りは続く。俺の苦戦も続いた。
「どうだ? お前も人殺しがしてみたくなっただろう」
「くたばれクソ妄言野郎。こっちはもう、人殺しなんてウンザリなんだよ……」
この手で殺した人間と、その結末。田中さんを手に掛けたくない。怪獣オタクの山田だってそうだ。あまりに悲しい。そこにあった尊厳の重さだけ罪を負う。自分自身という存在を消し飛ばしてしまうほどの深い重い苦しい罪過。山田の笑顔が眩しかったから、そのぶんだけ俺は悔しい。何故守れなかった。他に方法はなかったのか。こんなことを一生考え続けるのだろう。人を殺すってのはこういうことじゃないか。
田中さんを押し返し、満身創痍の疲労をこらえながら、汗を拭い、俺は横目に道化を殺意を込めて睨み据えた。
「人殺しが楽しいだと? 酔ってんじゃねぇぞこのクソ野郎」
「……ほう。威勢のいいガキだ。ますます何者なのか気になるね」
「ただのガキだが、何だ?」
あんな奴に情報をくれてやる義理はない。そして狩人は、殺しを冒涜するクソ野郎を殺しで黙らせる、最低最悪の暴力至上主義者だ。
「…………くそ」
くるりと短刀を翻し、構える。視線の先には、怒りに震え、バチバチと輪郭を霞ませる淑女の霊がいる。
「最後だ、田中さん。目を覚ませ。じゃねぇと取り返しのつかないことになる」
祈りを込めて、最終勧告を突きつける。世界が軋む。これ以上の楽観視は危険だ、命懸けになる。俺が死ねば、田中さんはビルの外に出て無差別に殺戮を開始するだろう。
『邪魔、シナイ、デ……』
田中さんは正気を逸した目から滂沱と涙を流した。涙を流しながら、暗黒色の天に絶叫し、四方に紫の稲妻を走らせた。
「ムダムダ。そのお姉さんは、俺がさんざん炊きつけてやった。もう止まらない。男に捨てられた失恋の深さが、そんなちっぽけな説得で癒されるものか」
稲妻の亀裂は闇しかなかった世界を割り裂き、新たな異常現象を覗かせる。そんな絶望より、俺にとってはこの空虚な思いのほうが絶望だった。
「…………会話……してくれよ」
もう、声も届かない。
「!」
闇に出来た亀裂から、濁流のように星屑が流れ込んできた。その一つ一つが夜を染める光芒。まるで打ち付ける海水。何もなかった空間に流れ込んでくる輝きの渦は、闇を瞬く間に宇宙へと変貌させていく。
アゲハチョウのように傘を開いた田中さんの、背後に。無限の攻勢プラネタリウムを形成していく。白い星明りは熱を増し、ボコボコと沸騰して溶け崩れそうになっている。星は美しい。しかし、青色恒星の表面温度は一万℃から二万九千℃、白色恒星でも六千℃強、最低の赤で三千九百℃だ。人体が消滅するには十分すぎる。
息もできなくなるような圧倒的物量。圧倒的な弾数を揃え、それを率いる魔弾の射手は絶叫した。
星が、槍になって
「く、ぉおおおおおおおあああああああああああ――ッ!!」
駆け出す。叩き落とす。鉄球を殴り捨てたような高音、そして手首が折れそうになる衝撃。それでも止まっていたら的になるので、必死で弧を描いて逃げ延びる。マシンガン斉射のように俺の耳元を高熱の弾丸が駆け抜けていく。美しいはずの星が、死の象徴だった。
それでも、すべてを完全に躱しきるなど不可能な相談だった。肩を掠めた弾丸に、その熱波だけでシャツに穴を空けられるし、その下の肌だって焼けているだろう。いちいち確認している暇がないから、俺はボロ雑巾になって火の粉を引き連れ、かろうじて命だけを守りながら術者に向かって突進した。
――最後の一瞬、顔の二十センチ手前で直撃コースだった星が破裂した。横から、緋のオーラを纏った石礫が飛んできてすんでのところで命を救ってくれたのだ。
もう、田中さんに手が届く。最後の逡巡。怨霊はこの期に及んで正気に戻る様子なんて微塵もなく、ただ日傘の先を尖らせて俺を射殺そうとしていた。その背後に、新たに具現化した二百近くの致死的な弾丸を見た瞬間、俺はもう決断せざるを得なかった。
「るぉおぁあああああ――ッ!!」
斬、と決着の音が鳴る。嫌いでもない人間の胸に刃物を突き立てる感触は、例え相手が亡霊だって最悪なもんだ。
「…………………」
一瞬にして、闇が静寂で満たされていた。俺は田中さんと背中合わせになっていた。ただただ重苦しい沈黙の中で、このまま目を閉じて全部無かったことにしたいような衝動に駆られた。
長らく、説得を続けてきた。話せば話すほど人間らしさを取り戻してくれて、分かったのは、田中さんは本当に恋人のことを心から愛していた情熱的なお姉さんなんだってこと。愛する人さえいれば、ただの家庭的な女としてやっていけるくらい、優しい人なんだってこと。つまらないフレンドリーな会話の中で、十代の女の子みたいに笑っていた恋する女性の心臓に
大丈夫。信じていればきっと迎えに来てくれるさ。そんな甘言で俺は田中さんの妄執を裏切り続けてきたのだ。
「悪い田中さん。アンタの待ち人、やっぱ来ねぇわ」
本当に今さらになって、かすかな正気を取り戻したとでも言うのか。
「そう…………ええ、知っていたわ」
悲しく響く、美しい声だった。長い長い年月をここで待ち続けた悲しい女。その亡霊が、星屑になって消える。胸に突き立っていた落葉が地に落ちて悲しい音を立てる。至極あっさりと、俺たちの関係は終わりを告げたのだった。
「……ああ……」
男というのは本当に、最低だな。遠い遠い宇宙の星を見上げながら、登っていく天の川を傍観しながら、嘘つき男である俺は短い感傷を胸の奥に押し込んだ。
「さて……」
改めて、巨大ピエロに向き直る。落葉を拾い上げ、ようやく本当に憎い相手と対峙することが出来る。俺は迷うことなく、十メートル先のそいつに刃を突きつけた。
「やるじゃないか。大した殺しっぷりだ」
なんて、また感心している。口の端が吊り上がる。なかなかどうして、この期に及んで大した寝ボケっぷりだ。
「死ね」
銀の鴉のように、短刀が低空から顔めがけて疾走する。俺は落葉を投擲すると同時に駆け出していた。顔を逸らして短刀を躱されるが、構わずその隙だらけの頬に右のストレートを渾身で叩き込んだ。
「……いきなり、何をする」
「こっちのセリフだクソピエロ。てめぇ、田中さんに何しやがったコラ……!」
俺の拳は、受け止められている。ピエロは永遠に貼り付いた笑顔で言ってくる。
「何しやがったと言われても、暴走させて殺戮を促しただけだが? それの何が悪い」
「ああそうかよ、じゃあテメェもいますぐ殺戮してやる。死んでから文句言うんじゃねぇぞ」
「死人に口なし。だから殺しは正義だ、それだけは認めてやろう」
「OK、上等だ小悪党。自分の死の間際でも同じこと言えるか試してやんぜ」
俺は、拳の押し合いから一転・上体を旋回させる。側頭部へと死角から襲いかかるのはブーツのつま先だった。
「がッ!」
それを、ピエロの手が掴んで止める。が、右足が掴まれても左足が残っているのだ。
「くったばりやがれぇ――ッ!」
「くぉあッ!?」
ずぱん、と張り手を叩きつけるような音を立てて衝突した。俺は空中で逆さまになり、猫のように身を翻して着地する。
たたらを踏むピエロ。さてどう料理してやるかと逡巡した瞬間、あさっての方向から隕石が飛来した。
「!」
緋のオーラを纏った石礫だった。ピエロがすんでのところで回避するが、砲弾のような唸りがここまで聞こえた。直撃したらどうなっていたか分からない。投擲者は当然、
「朱里――ッ!」
ふわりとカールの掛かった制服姿の少女が、真剣な目をして、野球選手のように堂に入ったフォームで石を投擲してくる。ここまで揺れるような力強い踏み込み。動作の端々に赤く輝くレッドオーラが見て取れた。強化された身体能力が、人間では辿りつけない領域にまで手を伸ばし、亜音速で石を射出する!
「はっ!」
さながら、カタパルトのようだった。大気に穴を空けるような高威力は本当に亜音速だ。投げ放たれた隕石は、圧縮された緋のオーラによって発火・炎の弾丸となり、呆然としていたピエロに襲いかかった。すんでのところで狙いは外れたが、十分な威嚇になったろう。
その隙に、俺が駆け込む。
「オイ――ぼうっとしてんじゃ、ねぇッ!」
鉄骨を殴りつけるような思い感触が骨に響いた。あっさりと俺の右拳はピエロの顔に突き立ち、その巨体を跳ね飛ばしたのだった。
「あ……?」
あまりの呆気なさに、驚いたのは殴り飛ばした俺の方だった。なんだこいつ、急に固まって。そんなに隕石が怖かったんだろうか。しかし地面に沈んだそいつは、く、く、くと不気味な声を地に響かせる。
「朱里」
死人の名前を呼ぶように、ゾンビのようなピエロが口にしていた。朱里の名を。
答える朱里は、静かだが震えていた。その厳しい顔に憤怒を感じる。
「……また、あなた」
メラメラと、レッドオーラが燃えるのだ。目の前にいるのが我慢ならないとばかりに。朱里の目には、確かに怒りがあった。
「――知り合いか」
「名前は
朱里が、秀麗な顔に嫌悪を滲ませて吐き捨てる。らしくもない、この高貴な娘が不快感を示すなんて余程のことだろう。
「おいおい、随分な言い草じゃないか朱里。オマエと俺の仲だろう?」
「…………何が? 一方的に、誰彼かまわず巻き込んで傷つけるだけのあなたに、私は心底腹が立ってる」
く、く、く、とまた
「嬉しいねぇ。憎悪と好意は紙一重。お前はもう、俺への憎悪に心の芯まで囚われちまってるってわけだ」
「……………」
朱里は答えない。何も言わないまま冷め切った半眼で蠍を見ている。……が、俺はそこで“あること”に気が付いてしまった。朱里の様子がおかしいのだ。
「――悪いが、こいつはもう俺が保護してるんでね。好き勝手言うのはそこまでにしてもらうぜ、この腐れピエロ」
俺は朱里を背後に庇い、前に出る。それで、何故か朱里が驚いた顔をした。
「何ィ?」
捩れた声が、前方から返ってくる。蠍は憎悪もあらわに言って来た。
「邪魔してくれるなよ。そいつは、朱里は俺様の獲物だ。俺が奪う。俺が汚す。俺が壊す。俺が殺す」
「そうかい。じゃ、その妄言は全部却下だ。お前はここで、俺が潰す」
落葉の切っ先を、道化に突きつける。背後の朱里が身構えた気がしたので、声を潜めて言ってやる。
「……下がってろ。大丈夫だ」
「………………」
それで、朱里は少しだけ安堵してくれたようだった。
「つまらない」
反して、道化は故障する。まったく感情のこもっていない声で機械的に繰り返すのだ。
「つまらないつまらないつまらないつまらない」
道化は、静かに狂っていた。叫びも喚きもしないが、淡々と早口に不満を述べる。
「何なんだお前、邪魔するなよ。俺と朱里の、俺と朱里だけの楽しい殺し合いゲームが台無しじゃないか。台無しじゃないか」
「! 誰が、ゲームなん、て……!」
朱里が、悲鳴のような声を上げる。本当に泣いてるみたいだった。
「あなたが、勝手に付き纏って……いろんな人を傷つけて! 人質にとって、脅迫して、奪って巻き込んで……! 死んでしまった人もいる! 何度も私を追い詰めて! 誰が、人の命でゲームなんて……っ」
そんな朱里を見て、道化が明確に微笑んだ気がした。異様に穏やかな、悪意に満ちた優しい声だった。
「…………朱里、お前は俺が殺してやる。優しく丁寧に、じっくり時間を掛けて拷問して殺してやる。必ず捕まえてやるから覚悟しておけよ」
「……ッ!」
それきり、蠍は背後の闇に溶けて去っていってしまった。ほどなくして、田中さんが構築していた真っ暗闇の世界も、粒子になって崩れ落ちる。田中さんが消滅してしまったからだ。俺と朱里は、何の変哲もない廃ビルの4階に取り残されてしまった。
「………………私は……守りたかった……」
朱里の、か細すぎる背中が言った。こちらに顔を見せないように俯いていた。
「誰も死なせたくなんてなかった。だから怪物たちと、たった1人で戦うことにしたのに、なのに……」
星月夜が美しい。散っていく命の海みたいに儚くて、朱里はその海を見ないように影の方を向いているようだった。
「なのに、あの道化野郎が邪魔をしたのか」
こくん、と少女が頷いた。ただ、ここから見える街の明かりを守ろうとしただけの少女が。
あのピエロ、腐ってやがる。どうしてこの娘に嫌がらせなんて出来るのか。朱里は、俺たち狩人と同じなのだ。アユミや先生と同じように、必死で縁条市を守って誰も知らないところで戦ってきた。違いがあるとすれば、俺たちは一人じゃなかったが朱里は独りだったということだろう。
孤独は真空だ。精神を溶かし殺す猛毒なのだ。毒沼の世界をなんとか生きながらえてきた朱里が、こちらを向いて、ようやくその朱色の瞳を見せてくれた。
「…………………」
窓から、潤んだ月光が差し込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます