(10) 風羽の過去・下


 風羽が再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

 白い天井が最初に見え、風羽を呼ぶ声で我に返る。


「よかった」


 ベッド横の椅子に座り、ハンカチを目に当てているのは母親だ。

 風羽はその姿に胸を絞めつけられるような思いがして、慌てて声を出そうとする。

 出てこない。

 掠れた息が、ヒューヒューっと鳴るだけ。

 母が不思議そうな顔をする。

 風羽は口をきつく閉じた。


(こんなみっともないところ、見られたくない)


 病室の扉が開いて、兄が入ってくる。

 母と二言会話をして、母が病室を出て行った。

 二人きりになり、兄が優しい顔で微笑む。


「風羽、元気かい」


 寝ているのに元気なわけがない。

 風羽は頷く。

 兄は嘆息した。

 そして表情を一変、真剣な表情になる。


「風羽。今回のことで、風羽から聞きたいことがあるんだけど、いま大丈夫かい? 目を覚まして早々で悪いのだけど、聞かせてもらえないかな。あのペンダントのこと」


 ペンダント。

 思い出した。

 どうして忘れてたんだ。

 乃絵は。

 乃絵は、どうなった。

 息が激しくなる。

 あのペンダントは何だ。

 口を開くが声が出てこない。


 兄が驚いた顔をしている。風羽の肩に手を置き、首を振った。


「そうか。声が出せないのか……。風羽。ペンダントのことは、こちらで調べたんだ。それでわかったことがある。あれは、能力を外部からコントロールできるようになっている代物だ」


 暴走。


「あのペンダントは、外部からまだ能力をコントロールできない能力者の能力を制御する目的で作られたものでね。ペンダントと契約をした高位の能力者が、外部から能力を使って、風羽みたいなまだ力を制御できない能力者の能力をコントロールする代物なんだ。あの夜、風羽の能力は、あのペンダントを介した第三者により、操られていたんだよ。……俺の力では第三者が誰かは見つけられなかった。ごめんね」


 それで部屋の中がめちゃくちゃになった。


「誰から貰ったのかは後から聞くけれど、一つだけ確かなことがある」


 そういえばあの医者の名前を聞いていない。聞く機会もなかった。

 使用人は……あれ? あの使用人の名前は、なんて言ったのだろうか。

 思い出せない。

 顔もおぼろげだ。


「喜多野家に使えていた使用人の内の一人が、昨晩から行方不明なんだ。おそらく、彼女が関わっているんだろうね」


 風羽は迷わずに頷いた。

 名前が思い出せない。


「実は、その使用人について、俺も調べてみたんだ。それで、わかったことがある。彼女のあの名前は偽名だ。確か鷹野と名乗っていたかな。それと、おそろしいことに、俺も彼女のことを知っているはずなのに、顔が思い出せないんだ」


 風羽もだ。

 だけど風羽は、もうそんなことはどうでもよかった。いまそんなことを考えていても、後の祭りだ。使用人の名前も、顔も思い出せないのだから気にするだけ無駄だ。

 それよりも風羽にとって大切なこととは、幼馴染のこと。

 どうしてあそこにいたのかはわからないが、乃絵は無事なのだろうか。

 口をパクパクとさせた風羽をみて、兄がどこか躊躇うかのように口を開いた。


「乃絵ちゃんはね、頭からの出血が酷くって。それでね――亡くなったよ」


 ナクナッタ?


「当たり所が悪かったみたいだ。本当に、残念だよ」


 ザンネン?


 頭を打ちつけられるような感じがして、息をするのも忘れた風羽の意識が遠のいていった。



 それから風羽は抜け殻のような日々を過ごしていた。

 乃絵が亡くなってしまった。そのことを考えると、息ができなくなる。

 声はまだ戻ってこない。

 あれから自分の声すら聞いたことがない。

 乃絵の声を聞きたい。名前を、読んで欲しい。

 息ができなくなる。


 母は毎日来てくれた。父親はたまにしか顔を出さない。兄は、あれ以来病室にやってこない。メールも、電話もくれない。風羽自体、携帯を触るのを忘れていた。


 いつものように夜がやってくる。寂しく誰もいない、ひとりだけの夜が。

 最近夢を見ていない。そう考えていたから、その日風羽は久しぶりに夢を見た。


 広い草原の中、少女が立ってこちらを見ている。

 見覚えのある少女だった。

 十歳程の、黄色がかった白い肌の少女。ひし形から出ている触角がぴょこぴょこと動いている。

 彼女は近くにいた。目の前で、風羽を見ている。

 にこやかな笑みは、風羽を安心させてくれる。

 彼女は何かを喋っていた。

 声は聞こえない。

 風羽は口を開いた。

 声は出てこない。

 少女が面白そうにころころと声を上げて笑っていた。

 声は聞こえない。

 風羽の声も聞こえない。

 彼女は誰だろうか。

 風羽は手を伸ばす。壁はなかった。

 少女も手を伸ばす。

 温もりが風羽の手を包みこんだ。

 風羽は口を開いた。

 少女も口を開く。

 彼女の声が聴こえてきた。


『やっと、わたくしの声が聞こえるのですね、喜多野風羽さん』


 鈴の鳴るような可愛らしい声だった。

 貴方は? 口だけで、風羽は聞く。


『それはあなたが一番よく知っているはずですわ。さあ、わたくしの名前をお呼びなさい。それで、契約は完了しますわ』


 水色と緑の髪の毛が二人の間に吹き荒れる。

 口を開いて閉じてを繰り返したのち、風羽は喉を潤すかのように唾を飲み込むと、久方ぶりに自分の声を聞いた。


『シルフ』


 くす、くすくすくす。

 彼女の笑い声が、耳に心地よく響く。


『わたくしは風の精霊シルフ。いまこの契約書に、あなたの名前が刻み込まれました。これからあなたが能力を手放すそのときまで、わたくしはあなたと共にあります。よろしくお願いしますわ。喜多野風羽さん』


 風が吹き荒れる。一枚の紙が踊り狂いどこかに飛んでいった。


 風羽は長い眠りからようやく解放された。

 十時間も眠っていたらしい。

 日差しの差し込む病室の中、風羽は体を起こすと窓の外に目を向けた。

 セミの鳴き声が少なくなった九月の終り。

 風羽は、やっと声を出すことができるようになった。


「シルフ」


 幼馴染の名前でも、兄の名前でも、お父さんやお母さんでもない、契約したばかりの精霊の名前を。


「シルフ」


 もう一度。

 何度も。噛みしめるように。

 風羽は息を吐き出すように、泣き声に交じって彼女の名前を。


「シルフ」


 嗚咽を漏らしながら、風羽は布団をギュッと握りしめた。

 乃絵は戻ってこない。



 声を取り戻した風羽の元に、三日ぶりに父がやってきた。

 ムスッとした顔で、父が言う。


「お前も能力者になったのだな」

「はい」


 想定していた質問に、風羽は怯むことなく答える。


「そうか」


 考え込む沈黙の後、父は口を開いた。


「……お前には悪いことをしたな」


 それは乃絵のことを言っているんだろうか。きっとそうだ。兄みたいに勘当されないように、風羽は能力を隠そうとした。その結果、風羽は使用人と医者に付け込まれて、力を暴走させられた。

 あの二人が何を考えていたのか、本当のところは分からない。けれど、使用人の言葉から察すると、風羽を自分たちの仲間に招き入れようとしていたのだろう。そのために、乃絵をなんらかの方法で呼び出して、能力の暴走の巻き添えにした。傷を負った乃絵を見て、取り乱した風羽を乃絵の傷を治すという口実で仲間に招き入れようとしたのだろう。


 あの二人の計画は失敗に終わった。

 いや、ある意味成功したといえるかもしれない。

 あのとき風羽が使用人の誘いに乗っていれば、乃絵は生きていたのかもしれない。

 死ななかったかもしれない。

 風羽は唇を噛みしめる。


(僕はこれからどうなるんだ)


 父は難しそうな顔をしている。口が、ゆっくりと開いていく。

 耳を塞ぎたいが、風羽は我慢した。


「……幻想学園を知っているか?」

「え?」

「少し遠くになるが、都内の片隅のほうにある能力者の通う学校だ」

「能力者の学校」

「あそこには中等部がある。お前はもういまの中学に通えないだろう。どうだ。幻想学園に、転入しないか?」

「転入?」

「いま住んでいる家もボロボロになってしまったからな。改築するよりは、引っ越した方が早いだろう。ちょうどいい物件が手に入ったんだ。幻想学園の近くにある一軒家だ。いま住んでいるところと比べると小さいが、それでも通学に不便はないだろう。母さんも了承してくれた」

「引越し?」


 風羽は思わず目を見開く。


「あいつのことは……千里はもう大人だ。自立しているし、一緒には暮す必要はない。だけどな、風羽」


 苦渋の表情で、喜多野風太郎ははっきりとした声で言う。


「お前は、私の子供だ。子供を育てるのは親の義務だ。いままでできなかった分、できる限りのことはしていきたいと思っている。能力者でも、お前は私の子供なのだからな」


 気難しい顔で、父は顔を逸らすと立ち上がった。


「考えておきなさい」


 呆気にとられて、風羽は何も言えずに父の背中を見送る。

 答えなんてもう出ていた。

 誰もいなくなった病室の中。

 風羽は布団に顔を押し付けて、抑えられなくなった笑い声を上げた。

 楽しいわけでも、面白いわけでもない。

 それでもどうしようもなく、風羽はこらえきれなくなった声を出すためにただ笑った。

「あは、ははっ」



 それから一週間後。

 前日に病院を退院した風羽は、一人で幻想学園の門を超えた。

 優しい風が、後押しするかのように風羽にまとわりついてくる。

 鈴の鳴るような笑い声が、聴こえた気がした。

 風羽はそれに答えてから歩きだす。


 そして、中学三年生の十月。

 喜多野風羽は、野崎唄に出会った。

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