第22話 What is troubling you ?
「あの、でも何か御用があったのでは?」
香夏子は教授の背中に問いかけた。教授が研究室から出ようとしたところに香夏子が通りかかったのだ。
「いやいや、同僚と一緒にお茶でもと思ったのですが、あなたにお時間があるなら少し休憩していってください。私も若い女性と一緒のほうが楽しいし」
教授の言葉に香夏子は深い嘆息を漏らした。
「私は若くはないですよ。さっきも学生に『オバサン』って言われました」
苦笑しながら教授が勧めてくれた応接ソファへ腰を下ろした。
改めて室内を見回す。秀司の研究室とは違ってかなり高価なものと思われる木製の書棚が壁に並び、応接セットもシンプルなデザインだが書棚と同じ素材で揃えられている。ソファも座り心地は抜群だ。
そして部屋の隅には給湯コーナーがあり、キッチン収納ラックに電気ポットやコーヒーメーカーが置かれていた。その電気ポットの前にはティーコジーが見える。
(ずいぶん手間を掛けて淹れてるんだ……)
正確に言えば香夏子が紅茶の淹れ方をよく知らず、自分ではティーバッグでお湯を注ぐだけだからそう見えるのだが、それにしても大学の研究室内でこんな優雅なことをしている人間がいるとは想像もしなかったことだ。
教授はその給湯コーナーで二人分の紅茶を準備し、応接セットへ自ら運んできた。
「近頃の学生さんは妙にフレンドリーに接してくるからね。ま、ごく一部の生徒だけど。私なんか先日、女子学生に『おじいちゃんの臭いがする』なんて言われちゃって、柔軟仕上げ剤をいい匂いがする話題のヤツに替えましたよ」
(それはまた……)
教授の顔を見て同情するように苦笑を浮かべた。あからさまな悪意が込もるトモミの発言とは違って、好意的なからかいの言葉のように感じたが、だとしてもこの初老の紳士にはきつい一言だったのだろう。当人が気にしている事柄であれば尚のことだ。
湯気を立てるティーカップを手にすると、紅茶の気品ある香りが鼻孔をくすぐった。それから口に含むと紅茶独特の渋みは遠くのほうにかすかに感じる程度で、砂糖を入れていないのに軽い甘みのある上品な味がした。
突如、香夏子の中に学生たちの前で声を荒げたことを後悔する気持ちがどこからともなく湧き上がってくる。もう一度胸の中で自分の言ったことを反芻してみて、香夏子は身の置きどころがないほどの激しい羞恥心に苛まれた。
(私、ずいぶん偉そうなことを言っちゃったな)
香夏子はこの大学の教員ではない。それどころか他人に説教を垂れるほどの人生経験などあるわけがない。目の前の教授からすれば、香夏子だってまだすべてが中途半端で青い若者の一人にしか見えないだろう。
そんな香夏子が大人ぶって演説をしたところで、それこそ「うるさいオバサン」と一蹴されるだけの話だ。
(言わないほうがよかったのかな?)
ティーカップを置いて教授を見た。教授は香夏子の内省などまったく気にする様子はなく、愛想のよい表情を浮かべていた。
「丹羽くんは今、とても勢いのある人だから忙しいでしょう?」
「ご本人は忙しいみたいですけど、私は電話番なのでそれほどでもないです」
(やっぱり電話番は……微妙だ)
自分の発言に、香夏子はますます気分が落ち込んでいくのを感じた。
「私が彼くらいのときは収入が少なくて、妻の稼ぎで生活していましたよ」
教授は立ち上がって自分のデスクから写真立てを持ってくると、それを香夏子のほうへ差し出した。写真には教授と妻らしき女性が並んで写っている。年齢の割にスラリとした背格好の教授に比べると、妻のほうはかなりふくよかな印象だ。
「彼女は私の恩師の娘さんで、私の後輩でした。当時私のやっていた研究は短期間で結論を出せるものではなかったので助手で大学に残ることになり、彼女と結婚することを許してもらったのだけど、何しろ私一人の給料では家族を養うのは難しくてね」
教授は香夏子から写真立てを受け取り、自らもその写真に目を落とした。
「彼女は大学院を出るとすぐにその大学職員になって、働きながら子育てもして……。彼女の父上は未だに当時のことを嘆いていますが、正直妻は先輩の私から見ても研究者向きではなかった。自分でもそのことに気が付いていたようで、その変わり身の早さには私も驚いたものです。つくづく女性には敵わないな、と思うわけですが」
そう言って教授は笑い、写真立てをテーブルの上に置いた。
「おかげで私は存分に研究に没頭できました。ただ同じ歳の研究者が先に昇進したり、有名になっていくのを知るたび、不甲斐ない自分に落ち込みましたがね。でも、長年打ち込んできたことがようやく日の目を見るようになり、今はこんな遠回りな人生も悪くないな、と思えるようになったところですよ」
香夏子は目を見張った。秀司ですら一目置いている著名な教授の言葉とはとても思えない。その掴みどころのない風貌からは他人に対する嫉妬や苦労した不遇の日々の痕跡を見て取ることは不可能だ。意外すぎて声も出なかった。
そんな香夏子を教授は温かく優しい眼差しで見返したかと思うと、突然思い出したように「そういえば」と呟いて立ち上がった。それからきびきびとした歩調で給湯コーナーへ向かうとお菓子の箱を手にして戻ってくる。
「ですからね、人生にもし勝ち負けというのがあるとしたら、諦めた人の負けなのかな、と思うんです。自分に負けるという意味で。まぁ、甘いものでもお一つどうぞ」
差し出された菓子の包みを香夏子は素直に受け取った。ごぼう入りのココアフィナンシェだ。歯ざわりは普通のココアフィナンシェとなんら変わりないが、見た目から受ける印象よりも甘くない。ほんのりとしたごぼうの甘みがココアの甘さを包み込んでいるようだった。
「これ、とてもおいしいです」
お世辞ではなく心の底からそう思った。おいしいものを食べると自然と顔がほころぶ。
教授は満足そうに頷くと自らもフィナンシェの包みを一つ取った。
「悩むこととは一生涯の付き合いですからね。特に若いうちは大いに悩むといい。でも悩むとエネルギーを消費しますから、脳にも休息と補給が必要です」
ティーカップを持ったまま香夏子は固まった。
「あの……私、悩んでいるように見えましたか」
「悩んでいないようには見えませんでした」
飄々とした表情の教授はフィナンシェを口にして「うん」と頷き、紅茶を飲む。
「確かにこれはおいしい。甘すぎなくていくつでも食べられそうですね」
香夏子も頷いた。すると教授はお菓子を箱ごと香夏子のほうへ差し出してきた。
「持っていきなさい」
「えっ、こんなにたくさんはいただけません」
慌てて辞退するが、教授は首を横に振る。そして悪戯な笑みを浮かべた。
「丹羽くんには内緒でお願いしますよ。それから、またいつでも油を売りに来てくれてかまいませんから」
香夏子は苦笑した。なぜかはわからないが、おそらく教授が自分のことを気に入ってくれたのだと思う。それは率直に嬉しいことだった。
教授の研究室を辞する際に香夏子は思い切って聞いてみた。
「そのシャツは奥様が選ばれたものなんですか」
すると教授は相好を崩し、首を一度だけゆっくりと縦に振って肯定した。
「一般企業で勤めていたらこんなシャツは着られませんからね。それに学生にもなかなか好評なんですよ」
廊下でひとりになってから香夏子は辺りに誰もいないことを確かめて首を傾げる。
(クマちゃんが好評? ……ホントに?)
クスッと笑ってから香夏子は自分がすっかり楽しい気分になっていることに気が付いた。きっと教授の妻はそんなことを意図していたわけではないだろう。単に本人の趣味で選んだものかもしれない。だが、本当に教授にはお似合いだと香夏子は思う。
そしてそんな教授と教授の妻の関係が羨ましいと思った。
(私もいつか誰かと二人三脚の生活をしてみたいな)
だが、まずは自分のことだと香夏子は心に言い聞かせる。それから急に、そうかと気が付いた。
(だから聖夜は……行っちゃったんだ)
最後に聖夜の腕の中で見た青い空が、まるで白昼夢のように香夏子の目の前に広がった。目を瞑って大地を蹴ったら、あの空の向こうまで飛んで行けるだろうか。何も考えずに身を投げ出して、青く広く深い空の懐へ飛び込んでみたい衝動に襲われるが、今はまだだめだ、と思いとどまった。
廊下に立ち尽くしていた香夏子は大きく息をつく。秀司の研究室へと戻る廊下がずいぶん長い道のりに感じられた。
香夏子が仕事を終えて帰ろうと支度をしているところに、秀司が戻ってきた。近くこの大学で催される学会の準備で忙殺されているせいか、不機嫌さに一層磨きがかかったようだ。その緩衝材とも言うべき高山がいない。
「高山さんは?」
「帰った。デートだそうだ」
香夏子を見ずに秀司は答えた。
何気なく視線を彷徨わせると応接セットが目に入り、昼間のことを秀司に言うべきか迷う。
「あのさ……」
切り出したはいいが、適当な言葉が見つからない。秀司が面倒くさそうに振り返った。
「言いたいことがあるならはっきり言えと言ったはずだ」
「わかってるって。そうなんだけど……」
香夏子はフルスピードで脳を働かせた。秀司の秘書になることを決意してここへやって来た日から、今日までのことを数秒で思い返した。そしておそるおそる口を開く。
「秀司はここにいて違和感みたいなものを感じることってある?」
珍しく秀司が困惑の表情を見せた。
「違和感?」
香夏子はすぐに笑顔を作る。
「いや、なんでもない」
「カナは感じるのか?」
「うーん。違和感というより、たぶん私ってここでは異質な存在なんだと思う」
秀司は険しい顔でじっと香夏子を見つめた。もっと言葉を選んでから言えばよかったと少し後悔する。
沈黙が重苦しい。いたたまれない気持ちで秀司から目を背けた。
「どうすればいい?」
「え?」
秀司の問いかけに香夏子は耳を疑った。まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。
「どうすればカナはそう感じなくなる?」
「それは……」
今度は香夏子が酷く困惑する番だった。秀司が自分のために何かしてくれることを期待していたわけではなかった、と香夏子自身が今更気が付く。
(だって今まで命令ばかりだったもん)
困り果ててうつむくと、この場に不似合いな楽しげな電子音が香夏子のバッグの中から聞こえてきた。
秀司と一瞬顔を見合わせるが、何も言わないのでそっとバッグを開けてケータイを取り出した。
「湊だ」
秀司が小さく頷いたのを見て、香夏子は電話に出た。
「今から来れない?」
湊は唐突に言った。
「今から? どこに?」
「居酒屋。ていうか、もう飲んでるから、来れたら来てよ」
妙に明るすぎる口調に香夏子は嫌な胸騒ぎがした。秀司を見ると複雑な表情で窓の外を見ている。
「誰か一緒にいるの?」
「ううん。一人で飲んでまーす。ね、寂しいから来てよ。お願い!」
「わかった。これから行くからちょっと待ってて」
電話を切って秀司を見た。
「湊が居酒屋で一人で飲んでるって」
「早く行ってやれ」
秀司は嘆息を漏らすのと同時にそう言って、自分のデスクの前に座った。こちらからは背中しか見えない。その背中に香夏子はおずおずと声を掛けた。
「一緒に行かない?」
少しだけ頭が上がり、そこで動きが止まった。
「俺は忙しい。湊に飲みすぎるなと伝えてくれ」
秀司は振り向かずにそう答えると、香夏子の存在など忘れてしまったかのように目の前の書類に目を通し始めた。
これ以上は会話が成立しそうにないと判断して、香夏子はバッグを持って秀司の研究室を出た。ドアを閉める前にチラッと秀司の様子を窺うが、結局香夏子には秀司がどんな表情をしているのかもよくわからなかった。
急いで居酒屋に向かうと、案の定、湊は既に相当な数のグラスを空にしていた。顔は真っ赤で、目はトロンとしている。香夏子の顔を見ると安心したように頬を緩ませた。
「どうしたのよ? こんなに飲んで大丈夫なの?」
香夏子は席につくなり湊に詰問する。だが、湊はニコニコしたまま無言で香夏子にメニューを差し出した。
「湊?」
「ま、いいじゃない。とにかく乾杯しようよ。今日は飲むぞー! 飲みまくるぞー!」
そう言うと、湊はグラスに残っていた液体を一気に飲み干した。
店員が二人分の新しいグラスを持ってくると、湊は陽気な声で乾杯の音頭をとった。そしてそのグラスを一気に飲み干し、店員を呼ぶブザーを押す。
「湊、ペース速すぎだよ。秀司も飲みすぎるなって言ってたよ」
香夏子が真剣に忠告すると、湊は険しい顔をした。秀司という単語に反応したようにも見え、香夏子は注意深く彼女を見守った。
「飲みすぎるなだと? 何を偉そうに!」
心底憎んでいるような口調で湊は吐き捨てた。
これは確実に何かあったな、と香夏子は思う。とりあえず話題を変えようとあれこれ考えていると湊のほうから切り出した。
「それで、香夏子はどっちの男にするの?」
湊らしくない言い方だ。香夏子は顔が引きつるのを感じた。
「どっちって……」
「秀司にしなよ」
(……え?)
思わず湊を正面からまじまじと見つめた。
目が据わり、怖いくらい真面目な表情だ。冗談で言っているわけではない、と直感する。
「そんな簡単に選べないよ」
「ふーん。じゃあ香夏子は迷ってるんだ」
「いや、なんていうかその……」
「じゃあ、どうしたいのよ」
ドンとグラスを乱暴に置くと、湊は挑むような視線を投げつけてきた。
「いい加減決めなよ。じゃないとかわいそうだよ」
(……誰が?)
香夏子はおそるおそる訊く。
「かわいそうって、秀司が?」
「そうよ。何の前触れもなくいきなりアンタに捨てられて、それでもずーっとアンタのことが好きなの。かわいそうな男でしょ」
大きなため息をつくと通りかかった店員を呼び止めて、また新しいグラスを注文する。
「湊、なんかあった?」
思い切って香夏子は問いかけた。おそらくこれは八つ当たりだ。これ以上とばっちりを受けるのは勘弁してほしい。
「……あったわよ」
観念したように湊は答えた。そして自嘲気味に口元を歪める。
「あの子、出て行っちゃった。昨日帰ったら彼の荷物がなくなってたの」
「え!?」
湊の目から堰を切ったように涙が零れ落ちてきた。こらえきれなくなったのか、突然しゃくりあげて激しく泣き出し、テーブルに突っ伏した。
「何かあったの?」
ひとしきり泣いて落ち着いてきたところで香夏子は優しく問いかけた。
湊は真っ赤な目をこちらに向けると、無理矢理笑顔を作ってみせる。その様子が痛々しくけなげで香夏子は思わず目をそらしてしまった。
「特にこれということはないんだけど、思い当たることはある」
「……何?」
「私、本気で人を好きになるのが怖いの」
まったく予想外の告白だった。
新しい彼氏ができると湊はこれ以上ないくらい幸せそうに見えた。その湊の口から、本気で人を好きになるのが怖いなどというセリフが飛び出すとは信じ難い。香夏子は驚いた表情のまましばらく湊を見つめた。
今までの長い付き合いの中で湊のことを香夏子なりに理解していたつもりだったが、それが根底から覆されるような感覚だった。親友とはいえ、当然お互いのすべてを知り尽くしているわけではない。だが、湊を親友と自負してきた香夏子にすれば、湊の肝心な部分を理解していなかったことを思い知らされる衝撃的な言葉だったのだ。
「それって……」
衝撃を受けつつも一方では、やはり、と香夏子は思う。
「湊にはずっと好きな人がいるんじゃないの?」
湊は香夏子をしばらく凝視し、それから痛みをこらえるような表情をした。心の片隅で抱き続けてきた疑念が図星だったと、香夏子はほぼ確信する。
「いるよ」
ドクンドクンと香夏子の心臓は音を立て始めた。
もし香夏子の思うとおりなら、湊を苦しめ続けてきたのは紛れもない香夏子本人ということになる。聞きたくはないが、今聞かなければ次にいつチャンスがめぐってくるかはわからない。これを逃してはいけないと本能的に感じた。
一呼吸置いて、香夏子はついに核心に触れた。
「それって秀司でしょ?」
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