第20話 What does he regret ?
聖夜の母親はその一万円札をカウンターの上にそっと置くと、レジスターを開けてお釣りを取り出した。ごく自然に差し出された紙幣と硬貨を、香夏子は無意識に受け取る。
「あの、でもこれ……」
「ん?」
「……なんでもないです」
質問が喉まで出てきていたが、思いとどまった。訊ねて窮地に陥るのはおそらく香夏子なのだ。何だかよくわからないが、聖夜が先回りして例の一万円を置いていったことはおそらく間違いない。
(私が受け取らないって確信あったのか)
香夏子にも実はよくわからない。本当に受け取ってほしかったのか、それすらもよくわからないのだ。
(なんかよくわかんないけど、ま、いいや)
思考を慌てて中断したのは、カウンターの上に聖夜の母親が重量のありそうな紙袋を載せたからだった。
「ちょっと重いけど、今までお世話になったお礼。受け取ってちょうだい」
躊躇しつつも紙袋の中身をチラリと覗いてみる。シャンプー、トリートメントのほかにヘアケア用品が入っているようだ。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「カナちゃんが最後のお客さんでよかったわ。ありがとう」
言葉の途中で聖夜の母親の目が潤んだ。香夏子はそれを見て、もらい泣きのくせに大粒の涙を恥ずかしげもなくぽろぽろとこぼしてしまった。
「……んもう。昔からカナちゃんの泣き虫は変わらないわね」
カウンターから出てきた聖夜の母親は紙袋を香夏子の手に掴ませた。
「ホントですね」
会釈しながら受け取った香夏子は、鼻を押さえてすすり、エヘヘと笑う。聖夜の母親はドアの外まで見送りに出てきてくれた。
「今日戻るんでしょ? 気をつけて帰ってね」
「はい。おじさん、おばさんも身体に気をつけて。あと……」
振り返った香夏子は迷った。だが、思いきって息を吸い込んで一気に言った。
「聖夜くんに、身体に気をつけて頑張ってと伝えてください」
「直接言ってやってよ。そのほうが喜ぶわ」
香夏子は静かに首を横に振った。それから深く礼をして実家の玄関へ回った。
(だって「バイバイ」って言われたし)
自室に戻って紙袋の中身を取り出してみた。自分が使わないものなら実家に置いていこうと思ったが、香夏子はシャンプーのボトルを手に取ったまま唇を噛んだ。
(これ……)
香夏子が聖夜の家に居候しているときに使わせてもらい、妙に気に入っていたものだ。香りが市販のものにはない爽やかな柑橘系で、洗い上がりもほどよく艶が出る。当時は試作品と聞いていたが、もう商品化されて、聖夜が香夏子のために用意してきていたのだろう。
(怒っていたクセに?)
もう一度紙袋にボトルを詰め直しながら、聖夜には自分の行動がどこまでも見透かされているのが不思議で、可笑しくて、情けなかった。
(それで私にどうしろっていうの!?)
香夏子は部屋でひとり首を傾げながら荷物をまとめた。
行動を見透かしているのなら、次にどうすればいいか教えてほしい、と思う。
それに好きと言いながらバイバイと言い、いなくなるくせに香夏子のためにご丁寧に置き土産をしていく聖夜の意図がわからない。
(こんな重い荷物を増やして……。もしかして、わざと!?)
記憶の中の聖夜に悪態をついてクスッと笑った。
着替えの荷物を詰めたバッグと紙袋を持って立ち上がる。部屋を出る前に振り返って束の間、窓の外を見た。
(それじゃ、ね)
誰もいない隣家の窓に向かってそっとつぶやき、香夏子は自室を後にした。
駅に着くと、実家を出たときに比べずいぶんと辺りが薄暗くなっていた。時間に余裕はあったが、改札を通ってのんびりとホームへ足を向ける。日曜のいわゆるゴールデンタイムだからか、他に人影はない。
階段を降りきって顔を上げると、一番遠いベンチに誰かが座っているようだった。ずいぶん背の高い人のようで足を投げ出して座っているのがなかなか様になっているように思う。
少し近づいて、香夏子は改めてその人物を目を凝らして見た。ホームの向かい側に広がる雄大な自然の山並みを見ながら物思いに耽っているのは、もしかすると自分のよく知っている男性ではないかという気がしたからだ。
(……秀司?)
完全に相手の顔を判別できたところで立ち止まる。香夏子の足音が止まると、ベンチに座っている人が何気なくこちらを向いた。
「こんなところで何してるの?」
香夏子はゆっくりとベンチに近づきながら言った。
「山を見ていた。相変わらずここは自然がいっぱいの田舎だな」
秀司は皮肉っぽく顔を歪めた。荷物が重いので香夏子はベンチの端にバッグと紙袋を置いてその脇に立った。
「朝早くに帰ったんじゃなかったの?」
「うん。一度帰った」
また遠くの山並みに目を戻した秀司は感情のこもらない声で言った。
「で、また戻ってきたの?」
首を傾げながら香夏子は訊いた。しばらくして秀司は香夏子を見上げて言う。
「忘れ物を取りに来た」
ますます首を傾げた香夏子を見て、秀司は無言で立ち上がった。
目の前にやって来た秀司を今度は香夏子が見上げる。
(……え?)
肩を掴まれたと思った瞬間、唇が触れた。そしてすぐに離れる。秀司の唇はとても冷たかった。
頭の中にあった思考は一瞬で全て消し飛んだ。
ただ、立って瞬きをしながら秀司の整った顔立ちに目をこらす。暗く影になって表情がわかりにくい。
「忘れ物って……」
香夏子は口の中が乾いて仕方なかった。舌がもつれるようで上手くしゃべることができない。
そのとき電車がもうすぐ到着する旨のアナウンスがホームの静寂を破った。
「帰ろう」
秀司が香夏子のバッグと紙袋を持とうとした。慌てて香夏子は紙袋をひったくる。
「それ、重いんじゃないのか?」
「いいの。これくらいは持てる」
無意識に紙袋を背後に隠すように手に提げた。そして一歩後退りする。
秀司は特に何も言わず、ホームに近付いた電車のほうへ身体を向けた。電車が停車しドアが開くと香夏子のバッグを肩に背負って先に乗り込む。香夏子も続いて乗り込んだ。
車内は空いていた。一番近くの横に長い座席には誰もいない。向かい側も空席だ。ドアが閉まると冷房が背中に滑り込み、香夏子は小さく身震いした。
秀司は空いている座席に腰を降ろした。荷物は膝の上に載せられる。それを見届けてから香夏子も少し間を空けて隣に座った。
「髪、切ったんだ?」
腕を組んだ秀司がこちらを向いて言った。香夏子は視線を避けるようにして頷く。
「昨日は言い過ぎた」
「ああ……」
そういえばそんなこともあったな、と同窓会での出来事を思い出した。
あの一万円は聖夜の母親が手にしていたものとは別物なのだろうか。香夏子が財布から出した紙幣は、今はどこにあるのだろう。
ぼんやりと考えながら紙袋に視線を落とす。
「聖夜と何かあった?」
香夏子はドキッとしたが、気取られないようにそのままの姿勢で耐えた。
「別に……」
「プロポーズでもされた?」
反射的に首を動かして秀司を見た。
「いや……。今日のこと、知ってたの?」
「高山くんに嫌って言うほど聞かされた」
「そっか。優勝して、しばらく修行に行くんだって」
ふーん、と気のない返事が聞こえてきた。
そのまま沈黙が訪れた。
「ついて行かないのか?」
この居心地の悪さはなんだろう。
香夏子は電車の走るスピードがやけにのろく感じた。もっと早く走れとひたすら願う。
「そんなことできるわけないでしょ。仕事だってあるし」
「そうか」
秀司はそのまま目を瞑った。
「好き……だったんだ」
「……え?」
寝るのかと油断したところに、突然そのセリフが耳に飛び込んできた。
ため息の後で再び目を開いた秀司と視線がぶつかる。
「どうせならこのまま誰のものにもならないでほしい」
「なに……言ってんの」
香夏子は顔をしかめた。どうして突然そんなことを言い出したのかまったく理解できない。
「俺はわがままなんだ」
「意味が……わかんない」
だんだんここに座っていることが辛くなってきた。秀司はいつも勝手だが、今日の彼は変だ。調子が狂う。
「カナの気持ちはずっと前から知っていた。諦めたいが、俺は諦めも悪いようだ」
(やめてよ。困るよ)
紙袋を抱え直した。返事ができない。
「何か言え」
秀司のぶっきらぼうな声が聞こえてきたが、顔を背けて小さく首を横に振ることしかできない。
昨晩、聖夜と話をしたときとは違う息苦しさを感じた。苦しくて否応なく心拍数が上がる。香夏子が縋れるものは膝の上の紙袋だけだった。気が付けば掴んだ部分が皺になるほどぎゅっと握り締めていた。
「聖夜に好きって……言われたよ」
秀司が自分を一瞥する気配がした。そして香夏子から顔を背けた。
(あ……)
胸がチクリと痛む。自分は確信犯だ。だが、何か言えと言われたから言ったのだ。香夏子は心の中で言い訳する。
「そうか」
乾いた声が遠くから聞こえてきた。
それからはもう秀司は何も言わなかった。香夏子の顔を見ようともしないので、目を開けているのか眠っているのかもわからない。ただ、自分が拒絶されていることだけは嫌というほど伝わってきた。
香夏子はすっかり夜の風景を映すようになった車窓をぼんやりと見つめた。黒い夜の世界はまるで海のようだと思った。
(忘れ物……か)
静かに嘆息を漏らした。そしてうつむいて目を瞑る。
まぶたの裏に黒くうねる波が見えてくる。
急に不安になってあたりを見回すが、見渡す限りどこまでも空と海と広がり、そのどちらもが漆黒で塗りつぶされた闇に支配されていた。
(ねぇ! 私、どうしたらいいの?)
心の中で叫んでみるが、答えてくれる声はあるはずもない。
(どうしよう……)
もし、大きな波が押し寄せてきたら、香夏子はあっという間に飲まれて海の底へと沈んでいくだろう。
(やだ。誰か助けて!)
いきなり電車が強いブレーキをかけて停まった。膝から滑り落ちそうになった紙袋を慌てて腕に抱える。
目を開けると小さな駅に停車したところだった。
(なんだ。びっくりした)
そっと秀司の様子を窺うが、寝ているのか先ほどと同じ姿勢のままだ。
(誰も助けてはくれない……か)
再び走り始めた電車の揺れに身を任せながら、香夏子はまた向かい側の車窓を眺めて、このいたたまれない時間をやり過ごした。
電車から降りると香夏子は「疲れているからタクシーで帰る」と言って秀司からバッグを受け取り、逃げるようにタクシーに乗り込んだ。
マンションに着いてホッとしたところでケータイが鳴った。湊からだった。
「同窓会どうだった?」
興味津々といった明るい声音が耳に飛び込んでくる。全身にドッと疲労が押し寄せるが、自分ひとりで抱え込むのも限界だと思い、起こった出来事を最初からひと通り話して聞かせた。
「いろいろあったね。お疲れさま」
「うん、ありがとう」
湊のしみじみとした労わりに、香夏子の胸の奥はポッと明るい灯がともされたように和んだ。
「私ならその奥野さんより香夏子になりたいけどなぁ」
「はぁ!?」
少し元気が出た香夏子はわざとらしく大きな声を出す。
「だってさ、世間が認めるいい男二人が好きだって言ってくれるんだよ? こんな幸せなことってないじゃない!」
「そうかなぁ。なんか、ますます自分が嫌いになってるんだけど。私ってホントなんにもなくて……」
電話越しに湊の唸り声が聞こえた。
「なんにもなくても、いいんじゃない?」
次に聞こえてきたのは力強い明瞭な言葉だった。
「え?」
思わず聞き返す。
「いいんだよ。香夏子は香夏子でいればいいの。それに香夏子がいきなり奥野さんみたいになったら、私、友達続けられないもん」
「な、なんで?」
「えー、そんなすました人と仲良くできそうにない」
「いや、あのね、いい人なんだよ」
香夏子はなぜか慌てて奥野なつきの弁護を始めていた。
「美人だけど、でもそんなにお高く留まってるわけでもなくて、だから昨日だって聖夜とのことを話してくれたんだと思うし……」
クスクスと笑う声に香夏子はハッとして言葉を中断した。
「あはは! 香夏子ってかわいいなぁ、もうっ!」
湊はおそらく腹を抱えて笑っているのだろう。何となくその姿が想像できた。
「ちょっと! 人が真剣に……」
「私も香夏子のことが好きだからさ。もし、私の最愛の人が香夏子を好きになっても、私はきっと香夏子のこと、嫌いにはなれないな」
(……最愛の……人?)
何かが引っかかったが、黙っていた。
「あ、例えばの話よ。例えば!」
取ってつけたような付け足しの言葉が香夏子の頭の隅に残る。
「うん」
「あーあ、私も幸せになりたいなー!」
「ちょっと待ってよ。『私も』って、まだ私だって幸せになってないんだけど!」
「なーに言ってんのよ。十分幸せモノです」
「そうかもしれないけど、どうすればいいのかわかんない」
また湊の唸る声が聞こえてくる。
「そりゃあ、私にもわかんないや。そうだなぁ、私だったら……」
一瞬、沈黙が二人の間に訪れた。
香夏子は縋るような想いで湊の言葉を待つ。
「エンピツでも転がして決めちゃおうかな」
「はい!?」
即座に大声で切り返した。ぎゃはは、という笑い声がケータイの受信口に大きく響き、香夏子は思わず耳から遠ざける。
「ま、適当に頑張って。自分の気持ちに正直に、ね」
「うん、ありがとう」
親友の言葉で香夏子の心は温かい気持ちでいっぱいになる。いつも励まされてばかりのようで、また自分が不甲斐なく思えた。
湊こそ幸せになるべきだな、と思いながら香夏子は眠りについた。
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