九
「あれ?」
世の中には不思議なことが沢山ある。勿論、怪異など今回の一連のことも度が過ぎるぐらいに不思議なことだけれども、私が意図しているのはちょっと違う。もっと日常の生活に寄り添ったことだ。
名前という固有名詞が言葉の中に無いのに、例え視界の外である背中から声をかけられた時、「自分が呼ばれてる」って分かる。今この瞬間おいて、それは私だ。
振り返る。優しい笑みを浮かべた男性がそこにはいた。
「あっ」ええっと……「
脳をフル回転して絞り出した名前。合っているか、いや合っていなければ気不味さこの上ないのだけれど、不安と緊張で心臓の鼓動が少し早くなった。
「覚えててくれたんだ」笑みが強くなると、隣に来た。「確か、忘年会以来だよね?」
「はい」動きに合わせて顔を縦に動かす。「あの時はありがとうございました」
知り合いがいなかった私に話しかけてくれて輪の中に入れてくれたのだ。
「いやいや」軽い会釈だったけど、鏑木さんは恐縮そうに激しく手を横に振った。「お礼されるほどじゃないよ」
優しい人だという周りの人からの評判は、また物覚えが良い人だという評判は、
「けどまさか、バイト先じゃなく、病院で会うとはね」
普段バイトに入っているのは平日の昼メイン、しかも私が講義のコマがある時。バイト先で会うことは滅多にないのである。
「誰かのお見舞い?」
「ええまあ。鏑木さんも?」
「うん。母親が貧血で倒れてね。まあよくあることなんだけど、今回は頭を強く打ったんで、念のため入院をしてるんだ」
アナウンスが吹き抜けのロビーに響き渡る。コンドウさんという方が呼び出しされていた。
「そういえば、土金さんとは大丈夫?」
「まあ……」予想外な問いだった。
あの人は色々な時間帯に入っているから会ったことがあるのだろう。それか、会ったことなくても悪い意味でなかなか有名だから知っているのかもしれない。
いずれにしろ、鏑木さんの眉間に少ししわの寄った表情を見て、大丈夫の前に、何かの不安要素に対して、というニュアンスがあることを感じ取れた。
「なんとかやってます」苦笑い込みで応える。「まあ少し前にちょっと揉めたことはありましたけど、職場で嫌がらせされてるみたいなことはないです」
「いや……」
鏑木さんはそう言葉を詰まらせるが、「まあそうなら気のせいなのかな」と小声で呟いた。
「……何か?」
なんとも気になる口ぶりだ。
「職場ではないんだけど」鏑木さんは頭をかいた。「前に片桐さんを見かけたことがあってね」
「そうだったんですか」急に私の名前が出てきて、眉が上がる。
「話しかけようとしたんだけど、できなかった、というか、話しかけ辛かったというか……」
顔つきが妙に重くなっていく。嫌なことが先に待っているのは容易に予想できた。
「距離としては少し大きな声出せば届くぐらいだった。百メートルも無かったと思う。信号待ちで止まってたし、声かけようかなーって思ってたら、その後ろに土金さんがいたんだ」
えっ?「土金さんが?」初耳情報だ。
「その時、片桐さんのことを凄い形相で見ててね。そりゃあもう怒りに満ちた表情でさ」
え……
「あまりにも凄くて、片桐さんに声かけるの躊躇っちゃって……」
初耳だった。知らなかったし、身に覚えがなかったから、思いもしなかった。
「ごめんね、もっと前に話していればよかったんだけど、もしかしたら何か当事者間に色々あるのかもしれないって思ったから、変にこちらが介入しない方がいいかなって。それに、時間が経つにつれてもしかしたら見間違いだったかななんて思ってきたりもしてさ。ただこの前、片桐さんが注意したって話を耳にして、ほら昔に色々と、まあ噂ではあるんだけど、前科があるから、もしやあの時もって改めて気になり始めて、今も何か嫌がらせ受けてないか、機会があれば話しておこうかと思ってさ」
「前科……ですか?」
「あっ、知らない?」
「え、ええ……」
鏑木さんは辺りを少し確認してから、ほんの少し顔を近づけてきた。そして、声を小さくした。「昔うちで働いてた男の子が、片桐さんと同じように土金さんに注意したことがあったんだ。そしたら、逆ギレし始めて、まあそりゃあ揉めに揉めちゃってね」
「そんなことが……」
「ああ、それで終わればよかったんだけど」
鏑木さんは口を横に伸ばす。不穏な空気だ。
「何かあったんですか?」
「数日後、その子の家に『生意気だ』『殺す』と書かれた脅迫の手紙が届き始めた。彼曰く恨まれるような心当たりは、土金さんしかいないって。とはいえ、確実な証拠があったわけではないし、本人が真っ向から否定していたから、何もできず。だから尚更、悪化していった。毎日のように脅迫文が届いた」
脅迫文……
「その方は今も働いてるんですか?」
「いや。辞めちゃった。一身上の都合ということだけど、精神を病んだらしい」
そうか……
「この話の何が怖いって、全部彼の家のポストに直に入れられていたんだ」
「それはつまり、直接投函されていたということですか?」
「ああ。家までバレていた、と考えるとさ、ストーカーみたいでゾッとする。身近な人であるほど、こういうのって怖いよね……ん? 片桐さん??」
「えっ?」
「どうかした、俯いて」
「あぁ、いや」戸惑いと驚きが入り混じったせいで、いつのまにか視線が落ちていたらしい。
でもそれも仕方ないと誰もが思うはず。だって、長く悩まされていた
あくまでまだ候補という領域を出ない。証拠もない。
けれど、もしそうなのであれば……まさかこんな近くにいたなんて、そんな展開これっぽっちも予想してなかった。
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