二十七

 死を覚悟するためか予想外の事故に遭遇すると、辺りの風景がゆっくりになるって聞いたことある。


 だからなのか、今落ちている自分が見える景観がとてもスローモーションに見える。コマ送りより若干早いスピードで下から新たな景色が見えてくる。いや、吹かれてるというよりかは俺から浴びに行ってるといったほうが正しいか。じゃなきゃ、下から風が吹くわけも、髪が駄々っ子のように重力に逆らうわけもないんだから。


 まあそんな状態状況だ。だから、もう怖いとか恐ろしいとかそういう感情はなくなっていた。飛んだ時、一緒にどこかへ飛ばされたみたいだ。というか、今はそういう次元じゃない。何を差し置いてでもとにかく助かろうと、己の命を守ろうと、俺は下をはっきり見た。しっかり見れた。


 加えて、スローモーションのおかげで、視覚から脳内に、体がコンクリに近づいてるということを認識できたり、気づかぬうちに足を折り曲げてることが分かったり、まだ地面に着かないというのはやはり高いところから飛び降りてるのだということを改めて再確認できたり、と様々な情報が上手い具合に整理されていっぺんに流れるように入ってくる。


 だけど、それらを差し置いてまでも興味を抱かせたのは、トー君が本を開き、こちらに手の平を向けていることだった。俺はあの姿を見たことがある。というか今考えるとそれしかないのだが、何故か記憶が薄れ、曖昧になって……て、なんで? なんで俺忘れて……


「リョクッ!」


 俺の疑問はトー君の叫びで吹き飛んだ。というより、トー君が叫んだ次の瞬間の現象で吹き飛ばされてしまった。

 なんと、辺りに生えている木の枝が異常なほど急速に伸び始めたのだ。近場の1本からではない、道路を挟んだ学校の木々も次々と。そして、枝が落下点に集まり、互いに結びつき絡みつく。離れぬようキツく絡んでいるが、どの枝も綺麗な緑の葉を上に向いている。

 あまりに異常で驚愕でどこか神秘的な光景に見とれていると、体はいつのまにかその上へ落ちた。勢いよく沈む。いや、葉や枝がへこんでくれたという表現の方が正しいかもしれない。とにかく、その上に俺もイチ君も落ちた。


 ……痛みはない。落ちる瞬間、思った通り想像通りに葉がクッションみたいな役目を果たしてくれ、衝撃を全て吸収してくれたようだ。体はゆっくりと、絶えず沈んでいく。だけどその沈みは落ちたことによるものじゃない。この感覚は枝が地面へ静かに丁寧に下ろしてくれている、と表現するのが近いと思う。まるで円形の椅子かのように膝の裏辺りが足の形に合わせるように曲がったり、腕の辺りに手すりみたいなものも用意してくれたというのも、それが顕著に表れてる。


 俺はすぐそばの地面を見ながら恐る恐る降りる。体を半回転させて手すりを両手で掴み、片足ずつゆっくり下ろす。地面まで目で見てるよりも距離があるようで、早く着かないか早く着かないかとつま先を何度も伸ばす。


 あっ、着いた。そのままゆっくり踵に侵食するかのように地面へ置いていく。枝を踏んでいた時とは異なり、踏めば踏んだ分だけ跳ね返される感覚が足に伝わる。確かにこれはコンクリだ。つまり、地面だ。


 マンションの6階から飛び降りた結果、俺は無事、だ。怪我1つない。

 ほっと安心した瞬間、スローモーションは終わった。いつも通り、元通りの一倍速に周りと俺が動く。


 俺はもう片方の足を地面につけながら、両手を離す。少し勢い余ってだったからか、反動で葉と葉が無造作に当たったり、擦れる音が耳に届く。これらは全て用意されておらず、また作り物ではない本物の木なんだと改めて思った。


「ふぅ~久っ々!」


 既に木から降りていたイチ君は反対側から姿を現わす。ガムを噛んでる。満足げな表情から、まるで遊園地に行った子供が「楽しかった! もう一回行こうよ!!」と父親の服を引っ張りながら同じ乗り物に乗ろうとせがんでいるような、そんな感じがした。まあ、あくまで推測だけど。


「楽しかった〜またやりて〜な〜!」


 あっ、ホントに言った。ていうかそもそも、久々、なんだ……


 「カイ」トー君が手を下に払うと、木々が互いをほどき始めた。そして、元の真っ直ぐ天に伸びる形状に戻っていく。


「大丈夫でした、坂崎さん?」


 トー君が早足で近寄ってくる。


「あ、あぁ……」


 助かったことも、生きてるってことも重々把握してる。しっかり認識できている。そうなんだけど、まだ頭がぼーっとしてる。だって、俺らは十数秒前まで6階にいたのに、なんか変なことものを見たのを経て、今はこうしてコンクリの上で立ってるんだから。


 タッタッタッと軽い足音が聞こえ、顔を向ける。エンドウさんだ。隠れて見えなかったのだろう、枝を伸ばしてきた木の1つからこちらに。俺と同じく、怪我や傷はなさそうな軽やかな足取りだ。


 大丈夫でしたか、と俺はエンドウさんに声をかけようとしたが、それは「いたぞっ」の声に阻まれてしまう。


 聞こえたのは上から。男の声だ。誰だろうと視線を上げながらも、心当たりはあった。というかこれしかないと思ってたから、疑問を解消するためではなく確認するために、俺は視線を上げた。他の3人も同じく見上げるように首の前側を伸ばす。


 俺の部屋のベランダから、スーツ姿の男たち5人ほどがこちらを見ている。すると、4人が部屋の方へと駆けていき、姿が見えなくなった。残った1人は手すりに両手をつき体を乗り出して継続して見てきている上、裾を口元に寄せて何か話している。声は聞こえないものの、無線で誰かと通信しているっていうのは姿と状況からなんとなく察することができた。


 今いる男もさっきまでいて部屋にはけていった男たちも、見えてないのも皆、おそらく刑事。だから、「とりあえずここから逃げましょっか」というトー君の提案に反対する者は誰もいなかった。まあ、当然といっちゃ当然だし、勿論といっちゃ勿論なことなのだが。

 俺たちは同じ方を向く。視線の先には、唯一すぐそこの道路と繋がっている敷地の入口が見える。木々や草むらの間から微かに顔を覗かせる白線で30と書かれた路面表示が目立つネズミ色のアスファルトだ。


 スタートの合図があったわけではない。だけど、4人一斉に走り出した。駆け出す音とともに、後ろから自動ドアが開く重い音が聞こえてくる。段々にエントランスホールに反響した複数人の男たちの声が聞こえてきた。野太く猛々しい。

 だが俺も含め全員振り返ることなく、誰かは分かってるので振り返る必要もなく、その場を猛スピードで去る。ここで警察に捕まれば、警察署でどうこうしている間に、俺は時間切れで死ぬ。もちろん俺よりも前でかつ命を狙われているエンドウさんも。


 だから俺ら4人は、手足を引きちぎれんばかりに振って、逃げた。これほどまでにこの言葉がぴったりしっくりすることは今後の人生においてもしかするとないかもしれないと思えるほど一目散に逃げたのだ。

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