二十四
ビザ代を払い終えると、ちょうど洗面所の扉をスライドしたエンドウさんと鉢合わせた。首にバスタオルをかけており、端の部分で髪についた水分を取っている。女性特有のバスタオルで髪を挟み、擦るような動作だ。
「お風呂ありがとうございました」
「石鹸とか大丈夫でした?」
「はい」
表情の明るさは偽っている風には見えなかった。少し安心した。
「あれ?」エンドウさんは眉を少し細め、鼻をひくつかせた。
「どうしました?」
「なんか……」
俺もエンドウさんと同じ行動を。つまり、鼻をひくつかせた。
「あっ」
単に意識してなかったからか、先程部屋で既に強い匂いを嗅いでいたからか分からないが、廊下にも宅配ピザの香りがしているのだ。チーズにトマト、チキンにマヨネーズ、油や焦げた炭の匂いまで香っている。
「実は今リビングでイチ君がピザ頬張ってるんです」俺は理由を説明し、親指でリビングを指して「一緒に食べてきます?」と勧めた。エンドウさんは「いやいや」と顔の前で手と首を左右に振りながら拒否する。夜が遅いからかまだ腹が減ってないからか、ピザが嫌いだからっていう可能性も……って、一体俺は何をかんくぐってるんだ?
「そのー……」エンドウさんは少し遠慮がちに声を出す。まるで何かに抵抗するかのよう。
「イチ君っていうのは、背の低いほうの方ですよね?」
ほうの……エンドウさんなりの配慮に、俺は少し笑ってしまったが、「はい、そうです」と続けたから肯定の意味での微笑みという形で取ってもらえたみたいで、エンドウさんは納得したように「ああ……」と頷き、すぐに驚きの表情を浮かべた。
「あれだけカツを食べたのにまだ?」
まあ当然の反応だわな。イチ君が「3人前」と平然とした顔で注文した時、目を開き口をあんぐりさせていたぐらいだ。それ以前に、大体の人は驚く。
「彼の胃はブラックホールですからね」
「ブラックホール、ですか?」
「何もかも吸い込んじゃうんです」
ハハハ、と口元に手をやりながらエンドウさんは笑う。こんな表情を見たのは初めてだった。束の間の安心感がそっと包み込んだ。
ガシャン――それをまるで針で刺すかのごとく、金属音が響く。俺ら2人は一斉に音の鳴った玄関に注視。
「今の音……なんですかね」
少し見回す。すると、玄関そばの壁に備え付けられた鍵かけフックの下に鍵が落ちているのが目に入った。
「ちょっとすいません」
体を斜めにし、エンドウさんのそばを通る。鍵のそばでしゃがみ、手に取る。理由が判明。
「これが落ちたからだと」
鍵を持ち上げ、エンドウさんに向けた。
「ほら、このレザー部分が切れてるでしょ?」
掛けるのに使っていた太い輪の姿はなく、ただまっすぐな直線になってしまっていた。
妙だ。こんなに幅があって太いのに、しかもさっき帰ってきてから一度も触れてないのに、突然切れるなんて……いや、よそう。エンドウさんに余計な心配をさせてしまうかもしれない。だから、「多分長い間使ってたから古くなってたみたいです」とそれっぽいことを伝えて、俺は右ポケットに、ちゃんと確認しながらしまった。
「いやー、驚かせてしまって申し訳ないです」
顔を上げると、エンドウさんは目を伏せていた。唇を巻き込んで湿らせてもいる。
「……エンドウさん?」
「坂崎さん」
エンドウさんは顔を上げた。その表情はさっきと全くと言っていいほど、異なっていた。全くの別人というほど恐怖と混乱がぐちゃぐちゃに入り混じって、暗く、重い。
「なんだい?」妙に改まった言い方に恐る恐る訊き返す。
「坂崎さんは、怖くないんですか?」
「え?」
エンドウさんは再び俯き「私、怖いです」と弱々しく呟く。もしかすると、鍵を見せた時に思ったのかもしれない。こんな太いレザーが切れるなんて、と。
「明日、いや死ぬかもしれない……そう考えるとやっぱり怖いんです」
間に漂う空気が変わる。落下音が壊したものは思ってたよりも遥かに貴重だったのだ、と痛感させられた。
「でも、坂崎さんはその……なんか……」
少し歯切れの悪い感じから言いたいことを察することができた。
「ないわけないですよ。もちろん怖いです」
俺は手を広げる。皺くちゃで、青く見える血管がよく見える。一度握って、また開く。
「だけど、彼らの言動や放ってるオーラっていうんですかね、そういう諸々のことから、なんか助かるなって思えるんですよね。一度助けてもらったからっていうのもありますけど、なんかそれ以上にもこう……ね」
表現できない部分を手振りで補おうとしている俺がいた。記者として致命傷だなと思いながらも、それほどまでに胸の奥でふんわりとした言葉にできぬ感情をどうにかして伝えようとして、何度も何度も回す。
「坂崎さんは2人のことを信頼してるんですね」
「えっ?」
見ると、笑みを浮かべていたエンドウさんは「あ、いや」と少し慌てる。
「疑ってるとかそういうわけじゃなくて、こう、2人のことを信頼してるというか……出会ってまだ数日なんですよね?」
エンドウさんにそう言われて、はたと気づいた。確かにそうだ。なんやかんや色々とあったが、一緒にいたのは2日ちょっと。あまり時間感覚はなく忘れていたが、たったのそれっぽっちなんだ。
「密度の濃い時間を過ごしてきたからかもしれないんですが、なんか安心できるんですよね……ってすいません、さっきから曖昧な返しばかりで」
「いや、伝わりました」エンドウさんはどこかホッとした表情をした。それを見て、俺もどこか安心した。空気が少し温まった。
ギィー
視線を部屋の扉に向ける。エンドウさんは振り返った。扉に手をかけてるのは、訝しげに眉をひそめるイチ君。
「何突っ立ってんだ、2人して?」
ガムを噛んでる。もう食べ終わったのか。とてつもなく早いけど、もう驚かなくなっている自分がいて、顔や言葉にはっきりと出ることはなかった。
「変人か、お前ら」
まさかの一言に俺は思わず、「えぇ……」と漏らした。
「そんな物言いないだろ?」
トー君がイチ君の後ろで顔を覗かせる。
「こっちが、ていうかイチが追い出したんだから」
振り向き「オレだけかよっ!?」と熱を帯びたツッコミを叫ぶと、「そうだよ」と冷ややかに淡々と返すトー君。
「……オレだけ?」
何も言わずコクっと縦に頷くトー君。
少しして俺の方に背を曲げながら顔だけ向けると、「そうだったか?」と一言。もちろん「うん」と頷いた。
目をパチクリさせて「あぁ……そう……」と少し気まずそうな表情を浮かべた。だが、すぐに「はい」と手をパチンと叩いて背を伸ばした。
「ま、この話は置いといて、部屋は好きに使っていいぞ~」と寝室へ歩いて行った。相変わらず、不思議な子だ。
「すいません」トー君が謝る。
まるで……あっ。ふと、素朴な疑問が湧いてくる。
「イチ君とトー君ってもしかして、兄弟だったりする?」
「い、いえ」そう尋ねられたのが意外なのか、トー君は見たことない表情をして驚いていた。
「じゃあどういう?」
すると、体の向きを整えたトー君は打って変わり、「どう思います?」と笑みを浮かべた。
「えっ?」
まさかの、そして突然のクイズに俺は素っ頓狂な声を出してしまう。それを聞いたトー君は笑みが強くした。
「あっ、部屋ありがとうございました」ふわりと話題をすり替えられた。
「もう使っていいのね?」
無理に聞き出すのはと思ったのでそれ以上は聞かず、俺は話題に乗った。
「はい」
そう言うと、トー君も同じく寝室へ。エンドウさんはもう少し洗面所を使いたいとのこと。
俺は誰もいなくなった部屋に1人入り、ソファの背にもたれかかった。天井を見つめながら、深く息を吐いた。肺から空気がなくなっていく感覚が伝わる。そして、息を吸う。まるで置いていたものを吸い込んだように、同時にさっきのことを思う。
「兄弟ではない、よな……」
互いに気を許し、心を許していることはほんの数日間からもよく分かった。だが、トー君の本のことなどを聞く限り、それにあの含みのある問いを投げかけられた限り、同じ血を分かつ者ではなさそうだ。自分で言っておいて自分でこんな結論など甚だおかしな話だけど、なんとなく解決したような感覚があった。
だけど、疑問はまだある。シクという名前を聞いた途端、冷静だったトー君が怒りを露わにしていた。その理由は一体なんなのか?
それに、2人が何者かよく分かっていない。
信頼はしてるし、良い人たちだっていうのは間違いない。しっかりとして記憶力のいいメガネをかけたイケメンなトー君も大食いで言葉や態度が粗暴な時もあるイチ君も、根はとても優しく、誰かを救おうと必死になってる。見ず知らずの人を、だ。そう簡単なことでも、できることでもない。
でも裏を返せば、それ以上はよく分かっていない。素性が一切不明なのだ。今までどこにいたのか? あれだけネットなどが復旧しているのに、全く噂されないのか?
怪異は映らないとしても、彼らは映像にバッチリ残っていた。一般人も投稿できるような動画配信サイトに出ていてもおかしくない。なのに、そういったものは一切ない。痕跡すらない。何故か?
俺は目を閉じ、「なんなんだろう……」と考えた。
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