Bullet (4) とくべつ

***


 相良に会う以外は特に予定のなかった浩は、日本長期滞在に備えそれなりの買い物を済ませることにした。切らしていた日用品、簡単な食糧。そういう類のものを適当に籠に放り込んでいたところ、


「……、」


 ふとシャンプー棚に目が留まった。飛行機に搭乗するにあたり液体物を持ち歩くのが面倒だと感じるようになった浩が固形石鹸派に落ち着いたのはかなり前のことである。そういう訳であまり必要性は感じていないのだが、


「……甘い匂いがする」


 いくつかテスターを開け、気に入ったグリーン系の香りがするシャンプーを籠に放り込んだ。決してあの男が石鹸に対し文句を言ったからではない。断じて違う。そう胸の内で強く言い聞かせた。


 結構買ったつもりでいたが、袋に詰めてみたらそうでもない。小さな袋を片手で持ち歩いていたところ、唐突に携帯が着信を訴えて震えた。

 見覚えのない番号である。とはいえその正体に心当たりのあった浩は、ふむ、と思いながら通話ボタンを押下した。


Алло.もしもし

Да.もしもし


 イリヤの声である。浩は一瞬声を詰まらせ、その場に足を止めた。


「――ちょっと、あれはどういうこと」

 そして冷たい声色で毒を吐く。「相良が困ってる」


『ああ、ごめん。通貨単位を考えていなかったから』

「ルーブル換算でいいって言ったろ」


 何のために基準単価を公表したと思っているんだ、と浩はぶつぶつと文句を言い続けている。イリヤはそれをしばらく黙って聞いていたが、

『君、意外とめんどくさい性格しているね。細かいことはどうでもいいだろ』

 それらの文句をバッサリ切り捨てた。


 浩は真顔のまま間髪入れず、

「そう言う君は随分ウェットな性格しているんだね。働け」

 と吐き捨てる。


 しばらく互いに無言のままでいたが、ようやく、イリヤが消え入るような声色で呟いた。


『……本国だと皆こんな感じじゃない? むしろ俺は淡泊なほうだと思うけど』

「……、それは、まあ、否定しない」


 浩は頭を抱えたい気持ちを堪えつつ、「それで?」と短く尋ねる。電話をかけてきたということはなにか用事があったからなのだろう。小さく欠伸をかみ殺しつつ問いかけると、イリヤはばつが悪そうに言った。


『ああ、いや。大した用はないんだけど。なんだか落ち着かなくて』


 だから働けと言っている。


 そんな言葉が口を突いて出そうになるも、浩はそれを何とか我慢した。落ち着かないのはこちらも同じなのだ。先ほど相良と打ち合わせしたときもそうだ。まったくもって自分らしくない。なぜこうも胸の内に靄がかかるような居心地の悪い思いをしなければならないのだ。


 ――と、浩は最終的に脳内で理不尽な八つ当たりを繰り返した。


『君に言うことじゃないね。ごめん』

「まったくだ」

 浩はさっぱりとした口調で返し、片手に持つ買い物袋を持ち直す。「ねえ。電話、切ってもいいかい。電車に乗りたい」


『あ、はい。スミマセン』

「今はアトリエにいるの?」


 浩のその言葉に、電話の向こうで息を呑む音がした。ややあって、イリヤが「うん。そこにいる」と短く返す声が聞こえてくる。


「分かった」


 浩は終話ボタンを押し、携帯をポケットに突っ込む。


 時刻は午後三時。もうじき日が落ち、気温も徐々に下がりゆくことだろう。こちらの冬は暖かいから決して辛くはないけれど、それでも多少は「寒いの、やだな」とは思うのだ。


 浩は今来た道を戻り、地下鉄の駅構内に降りるべく地下通路へ足を踏み入れる。独特のにおいが鼻をつき、地下から吹き上げる風が頬を撫ぜていった。


 それは本国の空気ととてもよく似ている。

 あらゆる感情も、昔のことも、そういうことは全部向こうに置いてきた。帰化することに決めたのも、そういうしがらみのようなものを全部向こうに捨ててしまいたかったからだ。


 そういう意味では、あの『かみさま』と出会ってしまったのは失敗だったのかもしれない。彼は己の憧れで、今の自分を形成する要因のひとつではあるけれど、それ以上に胸の内にため込んだどす黒いものの核にあたる部分をより強く引き出そうとする存在だ。


 ふとコンクリートの壁に打ち込まれた広告に目を向ける。電灯の光に反射して、己の顔が一瞬ちらついて見えた。


 ――時折追いかけてくる『少女の残像』。その姿を捉えた刹那、浩はゆっくりと瞬きをした。


 どうせあの男は覚えていないのだ。きっとあの男にとって、『ツェツィーリヤ』という少女は大多数の人間のうちのひとりでしかない。今は画家を辞め贋作師となっているが、あの時の自分と同じように肖像画を描かれた人物など世界にどれだけいるかも分からない。


 自分の中では特別だけれど、彼の中ではそうでない。

 それを自覚しているからこそ、昨夜のは夢で終わらせたかったのだ。

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