第十一章 Fever(5)※本来的な意味を為す『劣情』など、ここにははじめから存在しなかった

 ゆっくり、指先から力を抜いてゆく。一本一本、それぞれが自分の意志を持ち合わせているかのように言うことを聞かない。汗ばんだ白い皮膚の吸い付く感触を名残惜しく思いながら、そっと手を離す。


「――、」


 そのとき喉元になにか違和感を覚えたイリヤは、そっと瞼をこじ開けた。


 深淵を覗く双黒の宝石が、じっとこちらを見つめている。


 はっとして、イリヤはその身をこわばらせた。首の違和感は、そうだ、己が今彼に対してやってのけたことと同じことが起こっているせいだった。自分のものより幾分小さな手のひらが喉仏を掴んで離さない。

 ひろ、と唇だけが動く。声は出なかった。


というのは」

 ヒロはぽつりと何かを呟いた。「なんてやりきれない……、」


 そのいずれも日本語だったが、イリヤにはなんとなくその言葉の意味を理解できた。だからこそ、彼の言葉のひとつひとつがただ熱に浮かされたものではないということくらい容易に想像できる。


 刹那、ヒロの手に力が加わる。ひゅ、と空気の漏れる変な音がした。息苦しさのあまりイリヤが大きく目をしばたかせると、ヒロはようやくその手を離す。

 喘鳴混じりに、イリヤは気管に入りかけた唾を吐き出すため大きく咳き込んだ。


 そうしている間に、ヒロはのっそりと上体を起こし、イリヤの上に馬乗りになる。大粒の汗が首筋を伝うのを、その青みがかった灰色の眼が捉えていた。細かく砕かれた氷の粒のように、その目にはまぶしく瞬いて見えた。


「イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ」

 ヒロが吐き捨てるように言う。「君は『神様』じゃない。ただの人だ」

「――っ、」


 さっとイリヤの顔から血の気が引く。


 一番に恐れたことが起こっていた。途端に氷塊のようにその身を硬直させ、まったく身動きが取れなくなる。初めてこちらを見下ろすこの男のことを心底恐ろしいと思った。『死神』がいよいよこちらの寝首を掻こうと鋭い刃を向けるその様を、イリヤはなにもできずただ茫然と仰いでいる。


 ヒロが両手を伸ばし、イリヤの腹部にあるベルトの留め金を乱暴に外した。


「……そう、ただの人だ。凡夫ぼんぷだ。それは君も俺もだ。言葉にしなければ君が何を考えているか分からない。ようやく口を開いたかと思ったら、なんで寝ようとしているときに。莫迦かは」


 ただの一度も口にしたことのないような荒れた口調でヒロは言う。

 いよいよ履いていたものは膝元まで下げられ、ぬっと表情のない人形のような顔がイリヤの眼前に現れる。それは『秘密』を共有する前によく見た表情だった。


「――じゃあ、今の君は何を考えているの」


 震える声でイリヤが問いかけた。ヒロは一瞬きょとんとし、ややあってこのように返す。


調教おしおきがてらぶち犯そうと思っている」

 あまりに潔いその口調に、イリヤは言葉を失った。


「いっそ殺してあげる。俺の手で殺してあげる。誰の手でもなく、おまえ自身の手でもなく、俺の手で殺してあげる」


 そして噛みつくように、口腔に舌苔を押し込める。


 ありとあらゆるものが蹂躙されていく気分だった。

 今のこの行為に愛など存在しない。そこにあるのは焼け落ちるほどの憤りだ。息つく暇すら与えられず、隙間からつうっと粘性を帯びた唾液が零れ落ちる。


 ようやくそれが離れたかと思ったら、

「……ねえ、イリヤ」

 ヒロが死んだ目をしながらぽつりと呟いた。「俺が、今まで人形相手にしてきたこと。させられてきたこと。全部包み隠さず見せてあげる」


 それでおあいこだろう、イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ。


 感情を失った声色がイリヤの胸を突き、そして、しこりとなり残ってゆく。

 その行為は一種の呪いだったのかもしれない。

 生ける屍の舌が凍り付く己の左の瞼に触れ、眼球の端に、べったりと張り付いた。


***


「――逸脱愛なんてよく言ったものだ」


 そして彼はこう言うのだ。


「どうせ俺たちの交わりは、人には理解されない、理解してもらうためにあるものでもない。本来的な意味を為すなど、ここにははじめから存在しなかった」


***


 翌朝、マンションのエントランスに二人の姿があった。


 すっかり顔色がよくなったヒロは、いつも通りのスーツ姿でいる。右手首に巻いた時計に目を向けると、そろそろ呼んだタクシーが到着する頃だろうかとぼんやり考えた。


 その後ろにはイリヤがいた。左目に眼帯を装着しており、周囲の距離感が分からずに時々柱にぶつかっている。ヒロは口を閉ざしたままイリヤの右手を掴むと、しっかりと指の一本一本を絡ませた。


 互いに会話はない。


 そうしていると、ポケットに突っ込んでいたヒロの携帯が着信を訴えて震えた。

 サガラだった。ヒロはその着信に出ると、

「もしもし」

 とだけ声を発する。


『浩くん。調子はどうだい』

「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 ヒロはそう言いながら、横目でイリヤを仰ぐ。「ああ、でも。このあと病院に行くので今日もさせてください。本当にごめんなさい」


 それは大丈夫と言わないんじゃないのかい、とサガラがきつい口調で言うので、ヒロはさっぱりした口調で返答する。


「いや、俺ではなくイリヤがね」


 簡単な引き継ぎ事項を済ませると、明日のスケジュールは別途連絡する旨を告げられる。終話したところで、ちょうどエントランスにタクシーが一台停車した。

 二人は後部座席に乗り込むと、ヒロが行きつけの眼科の住所を伝える。


「……、午後はとことん付き合ってもらうよ。ミスタ・チャイカ」


 ヒロがそう言うと、そこでようやくイリヤが口を開いた。


「ぶり返さない程度にしてくれると助かる」

「そのときは、また看病してくれるでしょ?」

「どうだか」


 車が静かに発進する。

 流れてゆく景色を横目に、ヒロはそっと囁いた。


「やっと頭が冴えた。この件に関してはちょっと腹が立っているから、できるだけ陰湿に対応しようと思う。止めても無駄だ。黙ってついて来い」

「もちろん。君の湿は本当に洒落にならないから、加減してよね」


 イリヤは苦笑混じりにそう言うと、扉に肘をかけ左の指輪に口づけた。

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